2007年03月28日

出町開花宣言


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

ここ数日、昼はおろか、夜さえ暖の要らない気候となった。昼下りなぞは、上着が邪魔になる程である。よって街中をゆく人々は、一気に衣替えの気色。少々気が早い気もするが、半袖一枚で自転車に乗る女子すら見かける。

陽気に誘われ出町辺りに散策に出ると、川辺に様々な花色が見られ、こちらも一気に春めいてきた感じ。それらに誘われるか、出歩く人もいつになく多い。もしやと思い、ソメイの樹を確認してみると、やはり花が出始めていた。

今年の京都の開花宣言は3日前の3月25日で、近畿最初の宣言であった。その宣言の根拠となる「標本木」は、西ノ京にある京都地方気象台の中庭にあるという。西ノ京は二条城西方にあたる市街地なので、比較的寒冷な川辺のここが少々遅れても不自然ではない。

ところで、以前、新聞関係者を交えて花見をしたことがある。その時、記事掲載の為の開花確認の話が出た。聞くところによるその手順は至ってシンプルで、朝担当者が件の気象台に電話を入れ、開花の有無を聞く、というものらしい。電話を受けた職員は、受話器を置いて中庭に行き、標本木を確認する。開花がなければ、「まだ、ありませんね」で終り、あれば「咲きました、開花です」と返答があって、無事記事発表に至るという。

こんな遣り取りが、昔から例年行われているらしい。「効率」といった観点からは少々難があると言えなくもないが、何事も自動化の昨今にあって、何処かゆかしく、微笑ましい話であるように思われた。

桜の開花と共に、左京にもまた観光盛期が訪れる。花開く数に比して、人の出もまた盛りとなってゆくのである。花や季節と、人との基本的な関わりなぞ、結局のところ今も昔もそう違いはなさそうである。効率などさして重要ではあるまい。「自動」ではなく、「自然(じねん)」が相応しいのである。

そんな思いを花間にくゆらせた、のどけしき春初日であった。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

賀茂川散策の御馴染み、「雪柳」は既に全開。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

しかし、ソメイにも既に全開の1本を発見。場所は出町より更に北の出雲路橋付近の土手。吹き曝しの、更に寒げな場所にも拘わらずこの有様である。「寒冷だから開花は遅い」とは一概に言えないのであろうか。やはり自然は量り難い。

しかし、この「桜ある川辺の停留所」の景。どこか劇的である。「故郷を後にする女学生待つ」風情であろうか。だが、これでも京都市街。まちなかなのであった。


逍遥雑記「桜開花・出町柳」

枝垂れは当然ながら、はや盛りである。ソメイがそれを急追するひと時の間、浮気な世人達の寵を受ける。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月23日

客舎青々、柳色新たなり


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

不意に身を竦めることとなった「戻りの寒」が終り、春間近の温暖がやってきた。漸く温和な好天が現れたが、どこか朧げで心許ない。さながら、白灯を麻布で反すが如き塩梅である。しかし、水気による靄等ではなさそうである。気はどこまでも乾燥している。飛散が山場の花粉か何かが少々埃っぽい気もするが、湿嫌う質なので有難い。ともかく、まずまずの日和である。

所用の帰り、荒神橋を渡ると馴染みの賀茂の眺め。護岸線に沿い続く遠近(おちこち)の景も、やはり輪郭に乏しい。果て座る北山なそは、もはや亡失の体である。この有様、飛砂の所行に違いない。遠く大陸西方漠地より飛び来る砂塵「黄砂」のことである。

実は、今年初めての黄砂飛来が報じられたのは、5日後の28日。しかし、気象庁が大々的に発表したその日より、この23日の方が明らかに顕著であった。「予報」が外れるのは許容出来るとしても、「観測」が覚束無いというのは一体どうゆうことなのであろう。「予報部」なので観測は苦手なのであろうか。

春と、別れを告げる木

ともあれ、陽気に反する河岸・中洲の枯れ色も、その白幕に因り度を増した観がある。しかし、一面枯れ風情の中、一つだけ鮮色を持つものがあった。河岸の柳である。そうである、柳は桜花に先駆けて新芽を吹く、賀茂に春告げる木であった。

柳の緑といえば、思い出されるのが盛唐詩人王維の絶句「送元二使安西」(元二の、安西に使いするを送る)である。

  渭城の朝雨(ちょうう)軽塵をうるおし
  客舎青々(せいせい)、柳色(りゅうしょく)新たなり
  君に勧む、更に尽くせ一杯の酒
  西のかた陽関出(いず)れば、故人なからん

よく漢文授業でも使用されたので、知っている人も多いであろう。塵多い西北中華の風情描写を採り入れた名作である。折りよくかの地よりの塵来る日に、柳越しにこの詩を想うのは感慨深い。弥生3月の終り。諸人移動の別れの季節である。そういえば、この詩は送別の詩でもあった。

逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

荒神橋より北方を見る。前方、橋奥にある木立は、賀茂社境域「糾の森」。その後方は、せいぜい神山(こうやま)か、妙法山辺りまでしか見えない。本来は、この後方に重々たる北山山塊が見える。


逍遥雑記「賀茂川(鴨川)・柳・黄砂・大文字」

大文字もこの通りの霞み様。しかし、これとは別に、撮影して気付いたのが、眺望に対する電線類の煩さである。この撮影地の例でもわかるように、肝心の火床面に複数の電線が横切る確率は高い。今年実施される建造物高度の制限強化条例には大文字等を対象とした「眺望」保護則も付加されるというが、この既存電線への対策は考慮されていないようである。これでは片手落ちの観が強い。なにやら、偶に来る黄砂を撮って、常ある不粋を発見した心地である。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月21日

京郊古民家へ。転居支援


昨年企画し、関係者と共同開催したイベント「逍遥京都 in 岡崎アートフェスティバル」のブースを設計・製作してもらった気鋭の建築家、森田一弥氏がこの程自宅を購入され、一家揃って引っ越されることとなった。移転先は元の住地と同じ左京区内。しかし、元と同じ市街の町家ではなく、山川麗しい郊外の古民家であった。

イベントの件も然ることながら、日頃懇意にしてもらっている氏を助けんと、急遽R社のS氏と支援班を組み、その転居作業に参加することとなった。朝9時、旧居前集合。一家5人の荷を2トン車と軽ワゴンに満載して、まだ見ぬ新居へと向かった。折りしも空は快晴。朝の厳寒は見るみる内に払われ、はや春を想わせるような絶好の郊外転居日和となった。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

古民家ある山間の集落。古くからの村落で、多くの古民家が残存する。やはり都の近くだからであろうか、その姿は何れも洗練されている。写真に見える漆喰塗りの土蔵もその一つで、屋根を壁上より浮かせ、天部にも土を塗っている。左官技師でもある森田氏によると、防火効果は勿論のこと、雨漏りの早期発見を第一義になされているという。隣家との空隙多い村落では、火災よりも湿害の方が深刻だったのかもしれない。

市街から車でさほど遠くないところにこのような場所があるのも、京都の特徴の一つであろう。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

表玄関を入ってすぐにある部屋の吹抜け天井部。燃料革命以前に使われていた囲炉裏や竈(かまど)の長年使用により付着した煤が、古式の梁組や土壁に独特の重みを加えている。塗装では出せない趣である。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

家屋南辺につく大庇。集落各所の家でも見られる気品ある弁柄塗りが美しい。圧巻は、庇下を貫く長尺の太梁であろう。今時このようなものは寺社以外で見ることは難しい。嘗てこの下で、丸太の磨き作業でも行ったのであろうか。

大材といえば、写真にはないが玄関内の大黒柱も実に見事であった。その太さ凡そ6寸(約18センチ)。話に聞く通り、歴代住人の磨琢による美しい艶が見られた。これらを前にしては、もはや「築年数」云々の話はどうでもよくなる。家の良さは「フレームの良さ」であることを改めて教えてもらったような心地であった。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

今回目にしたもので、特に気に入ったのがこれ。柱間を利用した作り付けの水屋である。磨かれた淡い黒色(こくしょく)が美しい。古人のゆかしい暮しが偲ばれる。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

外壁に開いた風呂の焚口。浴室内にある五右衛門風呂共々まだ使用出来るとのことであったが、既に新しい浴室を設置中の為、いずれ解体されるという。その前に一度皆で入りたいと森田氏は語っていたが、個人的にも是非そうして欲しいと思う。特に子供達にはよい経験が出来るであろう。

親の郷里でそれを経験したのは、恐らく我々の世代が最後であろう。そういえば、昔、誰でも出来る風呂焚きは子供の仕事であった。そんなことを不意に洩らすと、同世代の改装業者氏も同じことを言って懐かしがっていたことを森田氏が話してくれた。「昭和も遠くに去りにけり」であろうか。


逍遥雑記「町家から古民家へ・転居支援」

焚口両側にある小さな鉄蓋。「火の用心」の文字が、なぜか中華碗模様に飾られて在る。森田氏も用途は不明だという。ご存知の方が居られればご教授願いたいところである。ちなみに、煤出しと思われる口は別所に見える。


忙しい中にも、実に色んなものを見聞させてもらった興味深い一日であった。魅力ある古民家との遭遇は、何やら一種、見てはいけないものを見てしまった心地にさせられた。自分の将来に良くも悪くも影響を与えるのではないか、という懸念からである。

このあと、森田氏一家は奨学生として欧州に旅立つ。期間は約1年。これもまた羨ましい限りである。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月17日

「逍遥京都」終了記念企画“愛宕行”


「暖冬の、油断(すき)を一刺し、戻り寒」。年初から続いた暖かさに誰もが、今冬の早退を確信させられたが、やはり自然(じねん)は儘ならぬもの。その晩節に至って、再びその威に身を竦(すく)ませる事となった。春間近の市街・山野に舞う白雪(はくせつ)。花蕾む、樹々に心に、意外の冷気は容赦ない。

しかし、厳しい寒さあってこその、春の喜び。そんな、前途ある忍耐の時期、弥生3月は、私にとって最も好ましい時節である。その今に、ゆく冬を惜しんで雪見に出掛けることにした。向かったのは、京都市街よりさほど遠くない、愛宕山。古来より火伏せの信仰を集めた、鎮座1200年を謳う神山である。

この時期にここへゆくことは、ここ数年続いており、半ば定例化している。しかし、今回は昨年新聞連載していた「逍遥京都」という随筆の、取材地再訪という目的もあった。寒さが厳しかった往時と、暖冬だった今年の違いを実見してみたかったからでもある。

なお、本来は連載記念企画として、人を募ってゆくつもりであった。しかし、承知の通りの戻り寒で、多雪による危険の憂いが出たので、急遽変更となった。よって今回は写真担当の小林ゆう氏もいない全くの独行である(往時も「同行」ではなく、「同日」取材であったが……)。人とゆく企画はまた別の機会・場所で考えたいと思う。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

西京・右京人には御馴染みの、愛宕山山容。高さを競った叡山に殴られ、その特徴ある頂部が出来たとの伝承は、山(自然)が身近であった古人らしい発想。嵯峨、広沢池池畔より望遠撮影。下部に見えるのはその水面。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

愛宕表参道4合目付近。日も射す、まずまずの好天であったが、気温はさして上らない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

1枚目画像のちょうど対面からの写真。中央に見える水面が、つまり先ほどの広沢池である。表参道樹間より。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

山頂に近付くと、やはり雪道が始まる。特に大樹で陰るこの付近は、例年アイスバーン化する難渋箇所。皆、道脇の融雪部を慎重に進む。於旧愛宕神宮寺黒門前。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

標高924メートルの山頂に鎮座する愛宕社。明智日向の御籤・連歌でも著名。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

見覚えのある眺めに思わず足を止め撮影。取材時の回、「愛宕終雪」(第3話)の掲載写真撮影地である。作者小林ゆう氏に倣って撮ってみたが、画角等に違いがあり、迫力が出ない。しかし、ここだけ見ていると、取材時との差(積雪状況差)は殆ど感じられない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

取材主部は山頂より更に奥(北方)にあるので向かう。所謂、愛宕裏参道方面である。途中、奥北山高地の広景と出会う。目で見る限り、やはり往時より雪はないようである。奥に見える比良連峰だけが、白雪の身を横たえている。しかも、ちょうど吹雪に見舞われている。奥北山の山々と比良は、さほど高さに違いはない。しかし、この有様である。やはり、あの山は何か特別なところである。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

やはり裏愛宕では積雪は増す。道は、大半作業車用の林道となっていて案内はいいが、積年鍛えた足捌きでも転倒の危険が必至となったため、用意してきた棕櫚縄をブーツに巻きつけた。原始的なやり方だが、かなりグリップは向上する。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

途中、美麗な案内板と遭遇。取材時にはなかったものである。2006年6月の日付がある、旧愛宕スキー場の所在を示す「愛宕研究会」設置の道標である。平地に比して変化に乏しい(遅れる)山中で、僅か1・2年による変わり様を見るのは意外であった。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

最奥取材地。やはり雪はかなり少ない。往時は雪原と化していたここで、雪上の昼食を摂りつつ降雪を待った。奥に見えるのが、文中にも登場した「地蔵山」(標高948メートル。愛宕山系最高部)である。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

元を少々戻り、先の道標に従い脇にそれると、同じく旧スキー場の解説板があった。横に立つ石組みは、スキー場創始者の銅像台座とのこと。銅像は、スキー場廃滅の因となった旧愛宕電鉄廃線の因に同じく、金属の戦時供出にあったらしい。

今回はここで食事を摂った。標高900メートル、潅木の林中で、日当たりは良かったが、風が強く大変寒かった。簡易計に拠れば気温はマイナス5度。取材時とほぼ同じだが、風があるぶん体感温度は厳しいものとなった。早々に撤収。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

取材主部。旧愛宕スキー場ゲレンデでもある。稜線右に覗く二瘤の木立は愛宕山頂。雪こそ少ないが、やはりその厳しさで人を拒む、「神遊ぶ庭」であることに違いはない。


逍遥雑記「逍遥京都終了記念愛宕行」

旧スキー場内にあった獣類捕獲器。その大きさから、熊用と思われる。これも今回初見のものである。扉が落ちているのは、風か何かで誤作動したのであろうか。裏愛宕はシーズン中でも人に遇うことは少ない。況して、今回なぞは全く人気(ひとけ)をみないのは言うまでもない。しかし、辺りにはそれに反して糞や踏み跡等の獣気が多い。これには更に体感温度を下げられた。やはり、ここに人の長居は御門違いなのである。そうして、日も傾き始めたので帰路を急いだ。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月15日

「りんごあめ」炎上


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

「吉原炎上」ならぬ、「りんごあめ炎上」。なにやら大変なことになっているような画だが、ご安心を。燃えているのは屋台ではなく、後方の広場にある大きな木組みの火棚。行事用の種火で、点火されて勢いよく燃え上がったところ。場所は、京都嵯峨は清涼寺境内。毎年この3月15日の晩に、境内で3柱の大松明を燃して豊凶を占う「お松明式」という行事がある。その行事の始まりの一場面がこれ。この後、種火が大松明に移され、祭は山場を迎える。

「だったら、最初からそれとわかるタイトルにすればよいではないか」と、叱責が聞こえそうだが、偶然撮れた写真を現地で確認して先ず立ち上がってきた強い印象だから致し方ない。しかし、面白いことの口外はくれぐれも慎まなければならない。実は、地元の某著名食品社のPRページに同様の記事・画像が掲載されている。当日、偶然知人と出会い、見物を同席することとなったが、その内の1人が正にこの記事の担当者でもあった。つまり「パクリ」である。

最近はブログ流行等で皆ネタ探しに躍起になっている。つらつら見せびらかしを後悔する次第である。まあ、今回は向こうの方が発表が早かったので、特赦することにしたい(笑)。読者諸賢も、くれぐれも注意されたい。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

釈迦堂前で点火を待つ人々。以前、うちのイベントも取材したネットニュース撮影班の姿も見える。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

ついに大松明に点火されて炎が上る。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

大松明は「豊凶」を占うが、釈迦堂に揚げられた提灯は「相場」を占うという。


逍遥雑記「りんごあめ炎上・嵯峨清涼寺お松明式」

残り火揺らぐ大松明跡。戻り寒に竦む、ともかく寒い祭夜であった。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月02日

伝承調査行「血洗町」


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

先月下旬、知己の記者I氏より、かつて住んでいた京都東郊山科に伝わる「伝承」についての相談を受けた。何か良さげな話を存知なら教えて欲しいとのことである。

何でも、氏が所属する日刊紙上で、市内各所の伝承に関するコラムが連載されており、その担当回が巡ってきたらしい。

知っての通り、歴史の舞台京都では伝承の類に事欠かない。しかし、そんな全国区で誰もが知っているような話では取り組む意味がないと、仕事熱心な氏は言う。そこで着目されたのが、市内ではありながら、古の京域から外れたユニークな地、山科であった。だが、元より他郷出身の氏に、そんな山科の深部たる伝承を俄に知り得る筈もない。その困惑にあたっての、私への相談であった。

そこで、私が呈したのが5つ程の伝承であった。1つは「御陵血洗町」の由来伝承。2つ目が『今昔物語』の怪異現場を伝える「業平谷」伝承。3つ目は音羽川(山科川)上流に巣くった大蛇伝承。4つ目は山科東北に食い込む県境(旧国界)の由来伝承。そして5つ目が戦中音羽山に計画されていたという要塞伝承である(この他、英国ロック歌手デヴィッド・ボウイの隠れ家伝承もあったが、「都市伝説」であるとして却下された)。

その中で、氏が最も興味を持ち、調査を決められたのが、1つ目の「血洗町」伝承であった。しかし、普段殆ど取材に出向かない山科は、氏にとって不案内の地。そこで、案内役を兼ね、私も取材同行することとなった。

実施は3月1日午後と2日午前の2日間。それに先立ち、氏は単独で地元郷土研究会関係者2人程との接触を果たしていた。だが、詳しい人は既に亡くなられており、有益な情報は得られなかったという。

取材初日

さて、用意した古図や文献史資料を手に初日の取材を開始した。「あがる」との予報を裏切る生憎の雨であったが、傘下2人して山科西北は当該地、「御陵」地区に入った。

「血洗町」由来伝承で私が知るのは、義経が蹴上で武士団を無礼討ち後、ここで太刀を洗った話と、山手にあった刑場との関連話の2つである。その内、町内に関連遺物が現存するのは前者。故に、先ずはその遺物、「義経の腰掛石」を見学することにした。「腰掛石」は太刀を洗った義経が憩ったと伝えられる石で、関係書籍等にも度々登場する有名なものである。

しかし、これまで薬科大の西グラウンド隅にあるということのみ聞いていて、実は何処にあるのかよくわからなかった。グラウンド管理人氏に尋ねて漸く辿り着いたのが、テニスコート隅に密やかに座る黄土の佳石であった。

なるほど、座るに手頃な様である。しかも一見して由緒有りげな品格も備えている。しかし、これまで何度か写真で見ているため、実のところあまり感慨は起こらなかった。それより驚いたのが、その後方塀裏に「血洗池」が現存していたことであった。住宅と大学用地に囲まれた僅か数メートル四方のものであったが、確かに砂底に清水を湛える天然水源が存在した。

石と水場はセットで現存していたのである。小時、一帯の隅々を駆け巡って親しんだ身には只々意外であった。用地内からしか見られないとはいえ、まだまだ近場にも未知の場所があるものである。

伝承縁の遺跡2つが見つかったのは良かったが、今度はこれと絡めて伝承を語る地元の「語部(かたりべ)」を探さなくてはならない。そこで、腰掛石の管理元である薬科大の施設課を訪ねた。

しかし、古いことを知る関係者は既に去り、よくわからないという。故に、2人して付近の旧家へ飛び込み取材をすることにした。

旧道沿いの旧家や土着姓家を当ったが、旧事を知る人物には出会わなかった。しかし、諦め半分で最後に行った竹材店で、詳しい人物を紹介してもらえることとなった。やはり付近も代替りが進み、その人物以外に旧事を知る人は殆どいなくなったらしい。

だが、近くに住むその人物S氏が不在であったため、改めて明日出直すこととした。

取材2日目

翌朝、現地で待ち合わせて向かったのは、血洗町内のS氏宅であった。昨晩I氏が電話連絡にて取材の段取りを付けていたのである。S氏は土地の出身ではないが、若年よりそこに住まわれ、聞取りや実地調査によって同町の旧事を研究されていた人である。そのS氏宅にお邪魔し、早速「血洗町」即ち「血洗池」の話を訊ねた。

氏によると、地元で採取したそれに関わる伝承は全部で4つあるという。1つが刑場の刑刀洗いの話。2つ目が源義仲と巴が都落ちの際、太刀を洗った話。3つ目が義経が蹴上で武者を無礼討ちの後、太刀を洗った話。そして4つ目が武者ではなく、現地にて盗賊を討った義経が太刀を洗った話である。

4説中、2の義仲・巴説は、長く同区に住んだ私も聞いたことがない珍しい説であった。恐らく、新旧の文献にも記載のない話かと思われる。氏によると、典拠は不明だが確かに地元に伝わる話であるという。因みに、最も著名な3の義経武者討ちの説も、江戸期以降の文献までしか遡れない話である。

伝承については、それ以上は全くわからない、とのことであったが、遺跡に関しては更に興味深い話が聞けた。薬科大では腰掛石は当初グラウンドの門辺りあったと聞いたが、実は昔からあの場所にあったという。グラウンド工事の際、一時的に門付近に移動したが元に戻されたらしい。

また、血洗池は今と異なり以前はかなりの規模を有していたという。このことは古い世代への聞取りからも確かであり、S氏自身も湿地の名残である噴水を随所で目撃していたらしい。それらが埋められ一帯が宅地化される以前の話である。何しろ元は安祥寺川本流も流れ込んだ北山科で最も低湿な地である。十分有り得る話であろう。

あと興味深いのが、古代東海道(平安末頃)が町内を通過していたことである。これは私自身による古図の検討によって明らかになったが、ちょうどその時代に、奥州への途上であった義経や、大津への撤退中であった義仲らと同町の結びつきを強める材料となろう。現存の近世東海道は町外北方を通っているので、辻褄が合い難いのである。

因みに、割り出した古代東海道のルートは、大正初年頃までグラウンド北辺を横切っていた安祥寺川の南(つまりグラウンド只中)である。腰掛石はグラウンド南辺にある。

取材終了

他に街道や刑場等にまつわる様々な地域史話を聞き、S氏宅をあとにした。帰りに、もう一度石と池に寄って撮影し、S氏に教えてもらった他の旧跡を巡りつつ、九条山を歩き越えて戻った。

のち、I氏の記事は無事に成り、血洗町をめぐるS氏の諸説が紹介された。これまで殆ど外に知られていなかった義仲・巴説が活字化されたのは、ちょっとした快挙ではなかろうか。

しかし、刑場関係説は全く伏せられた。何でも、地域に対する「負の情報」を記載するのは新聞的に好ましくないらしい。町と刑場址はかなりの距離があり、子供心にもその説の荒唐無稽ぶりを感じていたが、地理に疎い他所人は必ずしもそうとらないことも事実であろう。


伝承の真偽を究明出来た訳ではないが、一町名にまつわる様々な地元語りを知り得た興味深い調査行であった。たかが郊外の住宅地。しかし、そこに湛えられた営みの積水は、予想外に深いものであった。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

薬科大、西グラウンドの門。門を入って真っ直ぐのところ(防球ネットの向こう)に「腰掛石」がある。大学用地なので、見学には大学本部の許可が必要である。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

グラウンド(テニスコート)隅で密やかにそぼ濡れる「腰掛石」。後背のブロック塀裏に「血洗池」がある。傍らに立つ解説は、「義経盗賊討ち説」を記載。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

大学用地や宅地境界のコンクリに囲まれ僅かに残る「血洗池」。実に痛々しい有様であるが、白砂底を透く水はあくまでも清澄である。誰かが放したのか、大小の魚影すら見える。この状況にあって、この様に生気を保つ泉は実に珍しい。やはり古来より続く水場に違いなかろう。


逍遥雑記「血洗町伝承・由来・歴史調査」

ところで、この「腰掛石」、中々立派なものである。よくこれまで庭石用等に持ち去られなかったと感心する次第である。グラウンドが整備される昭和30年代までは一帯藪地であった為、それが容易であったろうと思われるからだ。

見た限り、石種は珪質堆積岩の「チャート」と思われる。チャートは深海由来の硬い古岩石で、京都近郊では地層の古い丹波山地等がその産地として知られる。大文字山系である山科北部山域にも見られるが、これほど立派なものは稀であろう。元より砂礫多い扇状地末端のここには在り得ないものである。どこか遠方より運ばれてきたのであろうか。そのことにも、また「伝承」が潜んでいるのかもしれない。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年03月01日

祝 Webサイト開設


逍遥雑記「祝サイト開設・無錫泥人」


この度、Webサイトを開設することとなりました。まだ仮設の段階で、近々本組みしたものに更新するつもりですが、一応このページがメインページとして引き継がれる予定。

これまで、ご助言・ご忠言下さった皆様、御待遠様でした。今までは流行(特にブログ)に乗ることを潔しとしなかった為、ご親切心にも拘わらず、サイト開設には消極的でした。今更の開設至ったのは、ちょっとした心境の変化からです。というか、煩わしがってたのが、漸く腰を上げただけ、という説もあります(笑)。ともかく、今後とも宜しくお願い致します。

なお、生来のへそ曲りですので、継続の保障は全く致しかねます(笑)。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ