2007年05月26日

下澣黄砂


逍遥雑記「下澣黄砂」

いつぞやの景、再びである。しかし、比較の為でもあるので、致し方ない。後方に霞むのは言うまでもなく大文字山。そして、その懐に浮かぶべき三角の火床が見え難いのは、前に同じく黄砂の影響である。

表題の「下澣(げかん)」とは、月の終り頃、即ち「下旬」と同じ意である。「下浣」と表する方が一点一般的なようではあるが、「浣」の字についた某有名医薬品商標の印象があまりに強力な為、回避した。浣・澣共に洗い濯ぐの意。昔、唐土の官吏は10日毎に休沐日を定められていたが、それが一月の中で上・中・下の語を冠して表現されるようになったことから来た語句である。衒学企図で名付けたものではない。ただ、「下旬」等よりかは表題らしい為の採用である。

ともかく、黄砂ネタ3度目にして、漸く内容に即した題が採られた。「下澣」の語と共に、これまで幻惑されていた読者諸氏には、ただ諒を願う次第である。


逍遥雑記「下澣黄砂」

賀茂川は今出川橋北方に白霞む北山山塊。

画像はないが、至近の叡山でさえ、なかなかの霞み様であった。


逍遥雑記「下澣黄砂」

医大院舎と、並び立つ起重機一双。

蒼空(そうくう)と樹冠との間が黄を帯びているのが判るだろうか。


逍遥雑記「下澣黄砂」

塵霧(じんむ)に乱反射する夕照。正に幻惑の夕べ。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年05月11日

中世探索「伊庭荘」


逍遥雑記「伊庭探索」

ここの処、滋賀の話題が続くが、この日訪れたのは江東中部にある「伊庭」という集落。JRの駅でいう、「能登川」近傍といえば解かり易いのではなかろうか。近代以前は能登川を含む一帯を示す地名であったが、今はその本郷集落のみの呼称となっている。写真中央に見える、田圃と内湖の間(はざま)に浮かぶ家並がそれである。

ここを訪れたのは他でもない、古代末から中世末期(戦国中期)まで、この地に拠った、「伊庭氏」の痕跡を探索する為であった。実は、最近仕事関係で偶然、この氏の本宗後裔たるご一家と知り合った。また、別件でもこの氏に関する土地等への不思議な縁が続いた為、当主氏共々、急遽訪ねることとなったのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

伊庭集落突端(西端)にある「金毘羅宮」。金毘羅はいうまでもなく、恒河(ガンジス)の鰐、即ち水神を祀る宮居である。集落を貫く道は、現在鳥居を左に逸れて更に先の内湖(琵琶湖)まで通じているが、以前はここで行止りだったと思われる。恐らく、岬のようにこの社を湖水が囲っていたのであろう。地の果ての、灯台の如き宮居―。色々な意味でシンボリックな場所である。


逍遥雑記「伊庭探索」

金毘羅境内を二分する水路跡と石橋。即ち、突端である社側が島状になっている。往時、内湖や湿地は現在に比して格段に広かったという。伊庭集落も湿地に浮かぶ要害であった可能性がある。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落内も、やはり川や水路が縦横に走る「水郷」の趣が強い。古い護岸には階(きざはし)や、接岸用の低段が見られるので、以前は集落内にも舟が進入していたのかもしれない。


逍遥雑記「伊庭探索」

家並を逸れると、忽ち広大な田圃が現れる。眼前に植わっているのは、先月の「鯰会」に同じく麦であった。家屋の背後に見えるのが伊庭山。そしてその峰続きで、右方に聳えるのが、伊庭氏の主家である六角佐々木氏の居城、観音寺城址がある繖山(きぬがさやま)である。

繖山の右に更に低い稜線が続き画(え)は切れるが、その先に、かの安土山がある。言わずと知れた織田信長の居城、安土城址である。伊庭の南方縁に当るこの安土城。実は最初に城塞を築いたのは伊庭氏であったとの説がある。

ともあれ、伊庭は江東の、そして天下の要衝を擁しているのである。


逍遥雑記「伊庭探索」

集落中心にある、妙楽寺境内。本坊より見た参道と寺門であるが、それらが、奥に立つ伊庭山に向かって一線を成しているのも、またシンボリックな現象である。

山を意識して宮殿や崇拝施設を設けるのは、東アジアに多い都市設計手法である。以前行った、タイ中部の崇佛王都スコータイや、東北チベットはラブラン大寺等がその典型であった。そういえば、伊庭山は頂に繖峰三(さんぽうざん)社があり、有名な神輿の坂下し祭が行われる聖地であった。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺境内にあった佛堂(別寺名を持つ塔頭か)。せいぜい江戸中期頃の築とみられる建造物群の中で、一際古さを感じさせたのが、この佛堂である。力強い梁組みは、中世の様式を十分感じさせるが、如何であろうか。


逍遥雑記「伊庭探索」

意外にも、路地裏ではなく、表車道沿いに中世式を有す建屋を発見。大濱神社の「仁王堂」で、正に鎌倉初期の建造という。まだまだ、凄い代物が知らずに存在しているものである。伊庭氏とその歩みを共にしたことが確実な、希少の存在である。


逍遥雑記「伊庭探索」

仁王堂の軒下。厚い茅葺と、繊細なその端面処理が威厳と浄潔を醸し出す。屋根下の処理は、丁寧な縄留めが採用されている。日曝し・雨曝しの為か、柱には交換の証ともいえる、形状・様式違いが多く見られた。


逍遥雑記「伊庭探索」

妙楽寺近くにあった、伊庭城伝承地。伊庭宗家の居館跡という。集落全体を要害と考えると、ここが「本丸」に相当するが、往時を知る確たるものは何もない。主家の次位たる「守護代」をも拝した伊庭宗家は大きな力を有したが、やがて主家に疎まれ、この地と、歴史の表舞台を追われることとなった。そして、その主家自身も、やがて信長という新世の寵児に国を追われるのである。往時を何も有さないここは、そんな世の無常を静かに諭すようである。

近年の研究では、連歌の大成者で、東山文化の一流文人「宗祇」が、この伊庭氏の生れであることが有力になったという。右手に見える石碑はそれを記念して建てられたもの。


逍遥雑記「伊庭探索」

帰り際、安土山向こうにある「沙々貴宮」に寄った。沙々貴宮は近江源氏佐々木氏の氏神である。佐々木氏の古い分流を称す、伊庭氏縁の場所でもある。


逍遥雑記「伊庭探索」

沙々貴宮回廊軒の灯篭に見える佐々木氏の紋「四ツ目結」。本来は四角が菱形に転んだ「隅立」(すみたて)が嫡流の紋であり、伊庭氏もそれを用いている。氏神のここが隅立ではないのは、江戸期に社殿を整備した、傍流大名京極家の紋を採用したからであるという。


さて、今回の探索であるが、遺跡図や古図類の用意を怠った為、効率が上らず、あまり成果を感じることが出来なかった。願わくば、準備抜かりなくして再び調査を試みたい所存である。

しかし、道中出会った人々の親切は印象深いものがあった。仕事の手を止めて丁重に道案内をしてくれた人や、わざわざ学校に電話して城址の場所を訪ねてくれた人、そして美味なる茶や菓子で持て成してくれた安楽寺の住職等である。最後になったが、これら土地人に深い謝意を表したい。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記