2007年06月23日

北山玉葱行


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

先ずは「水の季」である梅雨時の、今らしい画(え)を一掲。

苔むす岩を縫う奔流の様は、見ているだけでも涼やかである。水の景といえば、よく使うのが近所の賀茂川(鴨川)であるが、今日は同じ賀茂川でも源流近くを撮ってみた。正にマキシマム(極大)からミニマム(極小)。対極の様ではあるが、当然ながら一本(ひともと)に繋がる同じ川の水なのである。

賀茂川の源流といえば、京都市街北郊の北山山塊がその主部をなす。盆地北方に連なる奥深い山地がそれであるといえば、他郷の人にも解り易いのではなかろうか。今日は梅雨の晴れ間を利用して、この「北山」に出掛けることとなった。予てより楽しみにしている、山間育ちの野菜を久々に仕入れに行くためである。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

杉林(さんりん)続く北山は「雲ヶ畑」(くもがはた)への道(ただし撮影は市街方向)。

行先は北山の西部であるが、市街の喧騒を避け、先に賀茂川を北上(遡上)する雲ヶ畑ルートをとった。雲ヶ畑とは、賀茂川上流部の山間にある、古くからの集落である。そこへの道は、旧道風情に溢れるものではあるが、実は出来たのは近代以降。それまでは、その険難ゆえ賀茂川沿いを通ることは出来ず、西賀茂からの山越えが行われていたという。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

梅雨晴れに映える北山の樹々。山肌のほぼ全てが人工林で覆われている。

山域に入ってすぐに目につくのが人工林の多さである。ここ北山は、かの建材用高級磨き丸太「北山杉」の産地でもある。過剰ともみれる様は、その特産がなした風情ともいえる。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

路傍に突如現れた「熊出没」の注意標。

これも大文字山系(東山)などとは異なり、遠く丹波・若狭の山地にまで繋がる深山(みやま)、北山らしい風情。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

中津川集落に残る「北山型」の丸太取扱所。

「中津川」は雲ヶ畑手前にある古い小集落。今の住所表示では「雲ヶ畑」に内包されるが、元は別の村落であった。写真の建屋は、北山杉の集散地「中川」集落等の北山各地でよく見られるもの。板壁による簡素な造りと、大きく出た前庇が特徴である。物置と化している姿が、多分に洩れぬ北山での林業の今を伝えるようである。

さて、ここで少し寄り道して、この中津川の谷に入り、賀茂川源流域を視察することにした。賀茂川本流はもう少し西の谷、祖父谷(そふだに)である為、支流ということになる。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

中津川の谷道を暫く遡上して着いたのが、最初の写真でも見たこの渓流であった。前日に受けた雨などのせいか、遠近(おちこち)から豊かに水を受けている。正に「五月雨を集めて早し」の風情である(旧暦に拠った芭蕉時代の5月は今の梅雨時にあたる)。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

中津川奥の松尾谷より市街方面(南)を望む。手前側の谷斜面が広く伐採されているが、多くの切株に焦げ跡を見ることから、火災の始末とみられる。

車道を辿ってかなりの高所まで来たが、実はそれが源頭である魚谷(いおたに)峠(標高約760m)まで続いていることを今回確認した。意外に未舗装区間は少なく、つまり容易に車輌にて深山まで達することが出来るのである。普通車では難しい道ではあるが、これは少々問題ではないか。大切な水源地に於ける不法投棄等を危惧しているのである。

案の定、下降中爆音を轟かせて猛速で駆け上がっていく2輪車と何度もすれ違った。2輪への愛好は十分理解出来る。しかし、こうも町場のストレスを発散させるが如き様で深山に接すれば、熊等の野獣もおちおち暮らせまい。何やら、川を極めてまた要らぬ問題をみた気分である。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

また本流筋に戻り、到着した雲ヶ畑集落。

奥に見える山の鞍部は、桂川水系との分水嶺である「持越峠」。今日目指す直売所は、それを越した愛宕山塊麓の集落なので、もう暫く山行が続く。


逍遥雑記「北山・賀茂川源流・雲ヶ畑・玉葱」

そして無事直販所に到着したが、生憎の天候不順により、殆ど品を見れなかった。そもそも気温が低い山間なので、町場より収穫期がずれることもその因だったようである。しかし、気のいいそこの婦人は、落胆気味の私にお土産を出してくれた。それが写真の玉葱である。大きく、身の詰まったそれは正しくの北山育ちである。

帰宅後、早速割ってみたが、調理前のそれにこれ程の香気を放つものがあることに感心した。折角の機会に肝心の仕入れが出来ず、また、要らぬ問題に気を揉むこととなった北山行であったが、終り良ければ全て良し―。取り敢えず、今日はこれで良しとしよう、と「北山の香気」に諭されたのであった。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年06月11日

大原ひらこ


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

瑞穂の邦(くに)日本の象徴たる稲育つ季が山里にもやってきた。まだ山あいの風に“はらら”と、ひ弱く揺れる早苗ではあるが、来るべき豊穣を想わせる頼もしさも有している。

ここは左京区北東にあたる、ご存知「大原」の里。画像では判じ難いが、かの三千院は左奥に霞む山端の集落裏にある。今日は気晴らしがてら郊外に出掛けることとなった。自身にとっては珍しくないこの方面に来たのは、単なる気分からである。そして最初の休息を行ったのがここであった。

思えば、これまで何度となく訪れているのにも拘わらず、こうしてこの地をじっくり遠望するのは初めてであった。しかし今日見るこの大原は、私にとって実に感慨深い。べつに気候の良さにのぼせている訳ではない。それは、昨年末に判明した、ある一身上の事情からであった。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

上掲同所より望遠にて捉えた大原集落景。叡山山系梶山(681m)麓の丘上(尾根末端)に展開する。水害や外敵防御を意識した古式の設計であろう。


もう一つの「大原」

昨年末、十数年ぶりに父祖の地への一括墓参行を敢行した。その際の重要な目標の一つに、幼い頃耳にしただけで行ったことがなかった母方祖母の生家を探す、というものがあった。場所は九州最南部大隈地方で、手懸りは町名と姓のみ。割当ての時間は2日のみという無謀さであったが、島津公の宿泊伝承が残る旧家との伝えから、比較的容易に見付かるのではないかという勝算を持っていた。

しかし、列車や飛行機、そしてバス・タクシーを乗り継いで漸く辿り着いた町は予想外に広く、しかも近年の町村合併で人文状況が把握し難くなっていた。また、頼みの綱であった役場でも、諸人首を傾げる許りで分らないという有様。一日を棒に振ったとの思いと疲労を抱えて、何とか得た町営の山荘宿で一人夜を迎えた。宿を紹介してくれた役場の人の厚情は嬉しかったが、いまいち気は晴れない。

そして、迎えた2日目は朝から季節外れの土砂降り。諦めの気がいよいよ強くなったが、折り良く山荘管理人氏が最後に調べる予定であった集落の出身であった為、車輌にて案内してくれることとなった。その車中で判明したのが、なんと管理人氏が祖母の実家を存知であったことである。話を結びつけたのは、島津公も用いたとされる伝来の「根来(ねごろ)椀」であった。現在、指定文化財となっているこの漆椀は、幼いころ母より聞かされた、生家伝来品の一つだったのである。

山間の川沿いを上っていた車輌は、やがて耕地や集落を擁する見通しのいい大きな谷地に出た。ここが、まさに祖母の生地であった。標高数百メートル、大隈半島最深部にあたるこの辺地の名は「大原」。その由来は、昔逃れ着いた平家の落人が、かの地との地形の類似と、それへの懐思の念から名づけたことによるという。確かに、明るく気分よいその地貌は本元のそれに似ている。また、都人平家の人々を懐かしがらせたと思われる本元同様の「品」の如きも有していた。しかし驚くべきは、祖母の生家が正にその落人の宗家だったことである。

思わず知ることとなった、父祖地の意外なる名と、家系伝承―。これまで唯一不詳であったそこに辿り着けた喜びや安堵と共にに、私の身の内にはそれに対する神妙なる思いが付加されたのである(因みに私には、正に「大原」という姓系の血が流入していることも判明した。その氏もまた落人の系である)。そして今日、その「本元」たる大原を遠望している。かの、地の果て「大いなる隅」の最奥、遥かなるもう一つの大原を想いながらである。私の胸内の感慨具合がお察し頂けたのではなかろうか。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

水田底に昨今珍しくなった水生昆虫「タイコウチ」を発見。特徴的な鎌状の前肢は判じ難いが、尻から伸びる呼吸管は明瞭。


そして編著人変更の可能性へ

ところで、こういった平家やその他の避難者集落と伝える処は各地に多いが、学術的には殆どのものが否定的扱いを受けている。その理由は至って簡単。記述や物証に乏しく根拠薄弱な為である。確かにそうみるのは道理で、祖母の家とてあくまでも伝承の域を出ない。何せ800年以上前の話である。たとえ事実であったとしても、物証や記述を伝えるにはあまりに難儀な年数である。また、人情としての良家仮冒の可能性も排除出来ない。

しかし、ここは諸事に目を瞑って祖母家の伝承を事実とすると、私の名乗に「平氏」の使用が可能となる。「藤氏」など名乗っておきながら平家である。だが、更に複雑なことに母方の祖父家は源家であるらしいので、「源氏」の使用も可能となる。こうなると何かもう滅茶苦茶である。ただ一家系についての考察が、却って人の雑種性を表出させてしまった観さえ生じた。そこから見ると、遠い時代のある一点(系)に自分が繋がっているのが事実かどうかなど、あまり重要ではなくなってくる。結局は皆何処かで繋がっているのではないか―。そんな汎人類的な感慨さえ起るのであった。

さて、当サイトの編著人も、明日から突如「平氏晴嵐」や「源氏晴嵐」に変更されるかもしれない。その際は何卒ご了承を願う次第である。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

大原を後にして更に北上して滋賀へ出た。田圃の向こう、母艦の如き白雲を頭(かしら)に頂くのが比良山塊である。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

頂部まですっかり緑に覆われた比良の峰々。右奥のなだらかな峰は湖西側最高峰、蓬莱山(1174m)。4月末の朧々新緑比良の頃と比べてほしい。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

撮影地後方(南方。叡山側)に湧き立つ夏雲三尊。

この辺りは個人的に気に入っている比良の遠望地である。かなりの高所まで田圃が広がっている。圃場整備が行われる前は、さぞや美しい棚田だったのではなかろうか。整備事業を否定する訳ではないが、残念な気もする。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

大雪山麓(北海道)といっても通じそうなくらいの広景。アクセントとしてのトラクターが効いている。

比良裾野左右にそれぞれ高塔が見える。一つは焼却場、もう一つは新興宗教のものである。何れも、特定の人や地域には必要とされるものではあるが、何かと問題視される側面も有している。それらが対をなして存在するのは絵的には面白いが、環境や景観を考慮すればやはり深慮が欲しかったと言わざるを得ない。


逍遥雑記「大原・比良・琵琶湖」

叡山を背に、きら立つ水面に糸垂れる釣舟一艘。

今日の締めは琵琶湖である。「糸垂れる」としたが、ルアー釣りなので「竿振るう」が正確か。

さて、漸くとなったが本日の表題「大原ひらこ」について説明しよう。これは別に先祖の女人や、私の連合いの名ではない(因みに祖母の母は旧名「大原モリ」という)。今日体験した大原と比良、そして琵琶湖を省略合成しただけである。早い話、これといったものが思い浮かばなかったのである。ここまでの分量を仕上げておきながら呆れる話ではあるが、毎度のことなので、何卒諒とされたい。
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2007年06月01日

東山玉門関


逍遥雑記「大文字山」

樹間の日溜りに身を覗かせるのは、ご存知、測量基点たる三角標(点)である。辺角凛々しい中にも和(やわらぎ)を宿すその姿は、実に玉璽の如く品を醸して美しい。全身の無垢・無傷は新調の証か、隷字を用いた古式表記も憎い許りの伊達ぶりである。

さて、三角標といえば、山の頂である。中でも写真の如き「三等点」は、4キロ毎の低山上に置かれているが、この標(しるべ)こそ、我ら左京東傍に開(はだか)る大文字山のそれであった。今日は、毎年恒例である入梅前の山行に訪れたのである。今回は諸事を片付けた漸くのことであった。


逍遥雑記「大文字山」

銀閣寺横の土道から急登を詰めると、やがて大文字の火床に出る。麓から見える、「大」の字がある草はら部分である。写真は、その最上部(標高365メートル前後)からの眺め。知る限りでは、最も良い京都市街の眺望が得られる場所である。生憎の多雲であったが、遠足や実習らしき子供や学生の集団が多くいて、大変賑やかであった。


逍遥雑記「大文字山」

火床からまた森中に入って、大きな登りを2回、そして小さな登りを1回越すと、山頂に出る。標高466メートル。登場が前後したが、先の三角標がその基点である。ここに来て漸く陽が射し始めた。

山頂は下地が露出した平坦地であるが、以前は四方に草樹が繁茂してあまり眺望を得なかった。しかし、近年南側が伐採され、それが叶ったので、休息地としての人気が高まった。折しも時分は昼時―。この日も、遠足児童や中高年組の数多(あまた)が休息中であった。

憩うべき場での賑わいは問題はない。しかし、今回はその他のマナーについて少々気になった。食事をとうに終えるも、後来た人にベンチを譲らない人々や、人の風上でタバコを燻らす人である。席を荷で占拠しつつ、仕方なく標柱上で食事しようする人を、記念写真の邪魔だと追いやる輩もいた。中高年は元より、児童にも複数の引率がいるので、これらは全て「大人」の所業といえる。そういえば、火床でも通路全てを子で塞ぎ、その中心に堂々と「布陣」して食事する引率がいた。本来はマナーなぞ語れる身ではないが、昨今止まることを知らぬ状況を憂い、一記する次第である。

さて、かの麗しき標柱も、近年流行の「三角点欠片マニア」なる不届者の鉄槌被害に遭わぬかと、にわかに心配になってきた。


逍遥雑記「大文字山」

山頂から更に奥(東)へと続く山路(ただし撮影は西向き)。

道はここで高さ1メートル程の畝を切り通している。畝の東下に溝跡をみるここは、かつて木戸があったとみられる処である。一般にはあまり知られていないが、ここ大文字山は戦国時代の城塞址でもあった。丁度、山頂の平坦地が本郭部分で、この木戸が土居と堀を有したいわば城門の一つだったとみられる。


逍遥雑記「大文字山」

畝下の堀跡。

下降しながら斜面上にも続いているが、これは斜面を登り来る賊(敵)の横移動阻害を意図したもの。専門用語で「竪掘(たてぼり)」と呼ばれるもので、全国の古城、特に山城に多く見られる中世城郭の特徴の一つである。


逍遥雑記「大文字山」

如意ヶ岳(滋賀)方面と、大日山(山科・蹴上)方面への分岐辺りにある平坦地。

いわゆる郭(曲輪。くるわ)跡であろう。「郭」とは、城兵の配備や、その起居用等に用いられた施設(場所)である。応仁文明の乱頃既に城塞化していたという諸本の記述を信じれば、実に500年以上を経た造成地ということになる。付近には更に大きな郭跡もあり、標高が高いことや本郭(山頂)に近いこと等を考えると、城主であった足利将軍の御所地であった可能性もでる。


逍遥雑記「大文字山」

分岐の南直下(大日山方面)を南行する東山の尾根。

左(東)下に、いかにも造成を施した山路が併走しているが、これは道の付け方としては不自然・不合理である。一般的に、このような処では、山路は尾根上をそのまま利用する。よって、これも通行以外の意図、即ち城塞施設との関連が窺える。つまり、尾根を土居(防塁)、山路を郭(武者走り)とする解釈である。折しも防塁側は賊が上り来る京側(鹿ケ谷)となっている。

そのような意識で再び尾根を見ると、実に壮大な構築物に見えてくる。かつて、大陸荒漠で土砂造りの古代長城に遭遇した時と同じ感慨である。


逍遥雑記「大文字山」

山中で発見した池。

これまで幾度となく通っている道横にて初めて目撃した。今まで草木の繁茂で気づかなかったのであろうか。やはり、山は色々と奥深いものである。ひょっとすると、これも何か城塞址との関連を有しているのかもしれない。


逍遥雑記「大文字山」

若王子(大日山麓。即ち大文字山南方)への下山途中、麓近くの道横に現れた電気柵。

「電気牧柵」の名が見えるので、本来は牧場用であろうか。それにしても、仰々しいものがこんな処にまで現れたものである。しかし、近年付近で問題になった「大津E群」猿等の被害を考えると、致し方ないのかもしれない。


逍遥雑記「大文字山」

そして、正に若王子の宅地に出ようとした時、前を塞ぐ現代の木戸が突如現れたのである。

右は電気柵、左は生垣内の鉄柵にて市街への進入を完禦しているこれは、やはり以前は見られなかったものである。幸い、扉を一時開閉しての往来が許されているが、初見であれば、威圧の感受は免れない。説明板によると、昨今増えてきた猪への防備だという。そういえば、去年辺りの或晩、九条山の路上で大きなそれと遭遇した憶えがある。

この堅い守りと、先程の城址の印象が合して立ち上がってきたのが、表題にある「玉門関」である。それは、かの「隷字」が大成された前漢時代に、西方辺境に設けられた関門のことで、長大な長城や無数の烽火台と共に、牧民を主とする賊からオアシス入植市や交通路を守護していたものであった。その威厳ある印象に、今また野獣や不届者共々、我々牧民的逍遥者も街入りを阻害されるのではないか、という危惧さえ覚えたのである。


つまらぬ個人的妄想はさておき、またしてもその表題と、迂遠な解説に幻惑された読者諸氏には、切に諒を願う次第である。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記