2007年11月30日

秋色出現


逍遥雑記「京都,左京,銀杏,黄葉,紅葉」

月末からの急な冷え込みで、漸く京都市街にも明確な秋風情が現れた。近所への買物途上で出遭ったこの景が正にそれ。その身は疎か、足下まで黄金(こがね)葉で満たすのは、ご存知銀杏(いちょう)。しかし、その唐突な変わり様、鮮やかさ加減には驚きさえ感じてしまった。以前から色づいていたのは知っていたが、進行が遅く、殆ど期待していなかったからである。

とにかく、年の瀬入りを目前にして、漸く視覚的・心的にも「冬入り」を実感出来たような気になった。とはいえ、見ての通りの陽気である。体感的には、また逆戻った感もしないではないのだが……。


逍遥雑記「京都,左京,銀杏,黄葉,紅葉」

それにしても鮮やかな黄色(おうしょく)である。しかしよく考えると、実に不思議な現象ともいえる。何故こんな色を成す必要があるのであろうか。生化学的に解析すると素っ気ない答えが出そうであるが、それでもこの問いの本質には当るまい。

突然の秋色出現は、そんな晩秋に相応しい、奥深いものへの思惟をも供してくれるのである。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:49 | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2007年11月26日

伯耆「長者伝説」調査行U


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,進氏,紀成盛,長者伝説,,行松氏,赤松氏,田口氏,坂中廃寺,会見郡,長者原,箕蚊屋,蚊屋島神社,尾高,大山,城館,豪族屋敷」

調査行2日目

調査行初夜が明けて2日目となった。初日の疲れか夜更しか、2人して少々寝坊気味の開幕である。「悠長に鍋の残りで雑炊なぞ作っている場合か」と珍しく苛立つI氏であったが、結局2人して準備し、しっかり食した。その後、家内の諸々を片付け、出発したのは午前10時頃であった。現代の山陰道、国道9号線を更に西にして向かったのは、長者伝説と進家の本地、西伯地方であった。

写真は、後出する「長者原」の長者墓伝承地付近から見た「大山」。昨日分で掲げた北方からの景とは異なり、すっきりとした独立峰的山容は多くの人にとって馴染のものではなかろうか。しかし、名の通りの雄々しさ、そしてどこか無骨な様は保っている。

実は今回巡った地の中で、この長者原から望む大山の姿が一番力があり、また美しいものであった。長者原は、西伯一帯に勢力をはった紀氏長者の根拠地伝承を有すだけでなく、古代中央政権が一帯を治めるのに設置した官衙跡ともみられる場所であった。彼らは、この稀有な台地上に先端の殿舎を構え、大山の威を背に民心を収攬し、そして西伯に君臨したのであろうか。


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長者伝承地「長者原遺跡」

八橋を出発して直に長者原を目指したのだが、その道すがら様々な旧跡に立寄った。先ずは八橋すぐ西の大山裾野丘陵上にある「狐塚」。八橋が属する琴浦町最大の前方後円墳で、古墳時代中期建造と見られる貴重なもの。その次は、八橋西隣の赤碕集落にある西日本最大級の自然発生海岸墓地「花見潟墓地」。展望見学のみで固有形式の鎌倉期石塔が見られなかったが中々の迫力であった。

その後は、隠岐から脱出した後醍醐天皇が上陸したという近くの海岸、そして更に西進して裾野西端地方の淀江古墳群や上淀廃寺跡にも寄った。時間の関係上、何れもあまり見聞は得られなかったが、興味深い場所なので再訪の機会があればじっくり巡りたいと思う。

そして、何とか約束通り、昼前に長者原に辿り着いた。約束というのは、ここの発掘調査を担当している「鳥取県教育文化財団」に、I氏が事前に見学を申し出ていたからである。台地麓にある調査事務所を訪ねると、文化財主事のS氏が別車にて案内してくださる事となった。

台地上に上り、先ずは「長者屋敷遺跡」から見学した。写真は、かつての発掘現場前にてS氏より説明を受けるI氏である。見渡す限りの耕地となっているが、奈良期建造の大型建屋遺構が発見されている。それらは、東西180メートル、南北130メートル以上の堀に囲繞されているという。S氏によると、台地上の広範囲に同時代の遺構が検出されており、それらを含めて、古代会見郡の「郡衙」関連施設の可能性が高いとみられるという。今は郊外の趣が濃厚だが、古代に於いては、ここが米子平野を含む会見郡の中心地であったことは疑いないようである。


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長者の塔

次いで、そこから少し東にあった「坂長下屋敷遺跡」を経、更にその東の坂中(さかなか)集落只中にある「坂中廃寺」に案内して頂いた。

その、廃寺跡辺りという、さほど古くはない佛堂前にあったのが、写真の礎石であった。数個見えるが、手前側の最も大きなものは佛塔の「塔心礎」という。中央の凸部に佛舎利が納められたらしい。残念ながら未だ調査されておらず、詳細は不明とのことだが、古代の官寺と思われるらしく、郡衙とも関連するものらしい。

左奥の石碑は、江戸期に建てられたとみられる塔の供養(?)碑。現況では判読が難しいが、「紀成盛長者之塔 南無阿弥陀仏」などと記されているらしい。この地に於ける長者伝承の、古くからの存在を証するものといえよう。


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S氏が何気に礎石近くの土塊を手にして発した言葉には少々驚かされた。何と、奈良時代後期(8世紀)の瓦片だという。縄目文が施された様をはっきりご覧頂ける写真のものがそれである。国内に於いてこれ程古い時代の遺物が地表に散乱しているのは珍しいことと思われる。相当な枚数が使われていたに違いあるまい。

S氏によると、郡衙の中心施設は未だ見つかっていないが、先ほどの長者屋敷遺構とこの廃寺の中間地点辺りが推定できるという。とうやら、その他の遺構の中心でもあるかららしい。因みにその範囲内には長者伝説との関連が濃厚な「長者屋敷」の地名(字名)が含まれている。口承などに比して、地名が正確かつ重要な歴史情報を宿している可能性が高いことについては後述するが、S氏と調査事務所も郡衙中心推定地と長者地名との符合に着目しているという。

律令体制崩壊の後、その地方支配の拠点を引き継いだ紀氏長者の影。確証的なものではないが、それが活躍した中世初頭の遺構も出始めているという。今度の調査進展が楽しみである。


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長者墓伝承地「キサイさん」

I氏が紀氏後裔を称する進氏の出と知り、また紀氏長者の話が出たところで、S氏が「そういえば」と、車を走らせてくれたのが、台地西方にある写真の地であった。比較的新しいものと思われる開墾耕地の只中に大樹1本が残るそこは、古くから地元で長者の墓所と伝えられる場所「キサイ(紀宰・紀祭?)さん」という古跡。

確かに、ここだけ塚様の微高地になっており、大樹の根元には尊崇を物語る石佛も見え何か特別な雰囲気を有している。S氏によると、古墳の可能性があるらしく、樹の後方に積まれた平らな大石も古建築の礎石の可能性があるという。しかし、未だ調査は及んでおらず、伝承以外の詳細は明らかにされていないらしい。左方に見える石塔と石板は、その伝承を保持した近隣有志らが紀成盛長者を記念して近年建立したもの。

長者原一帯は台地という性質上、河川氾濫の堆積影響を殆ど受けない地の為、遺構面が極めて浅い場所にあるという。ならば、ここも比較的小さな労力で調査可能の筈である。早期の調査実現と、それに至るまでの現況保全を願うばかりである。

西伯の長者、紀成盛

ところで、この地の長者であった「紀成盛」とは何者であろう。成盛の名は承安年間(1171〜74)年、即ち平安末期に、霊峰大山を管轄する天台大寺「大山寺」に納められた鉄製厨子(現存。重要文化財)の銘文に初出する。また『源平盛衰記』や『玉葉』等の、中央の史料にも登場することから、その存在が確実視される。

それらによると、彼は「会東(会見郡の東半)の地主」であり、「(伯耆で)勢力ある武勇の者」であったという。また、大山寺の内紛や源平争乱と連動しつつ、東伯の有力者「小鴨(おがも)氏」と度々争い、伯耆をそれと二分する程の勢力だったらしい。経済的にも、大山寺の復興を単独で成しえるなど、長者としての姿が伝えられている。

成盛は厨子銘文の解析により、平安前期に文人公卿として中央で名を成した「紀長谷雄」の後裔とみられる。途中の系統は定かではないが、長谷雄の子「淑光」の系統に伯耆に住した「為任」があることから、その子孫ではないかとみられる。為任の伯父「致頼」や弟「成任」が国司として伯耆に赴任していることもあり、平安中期であるその頃、現地に土着したようである。

しかし、中央の任官を受けず、東伯は倉吉付近にあった伯耆の政治中心地「府中」からも遠いこの地に於いて、何故成盛は西伯を代表する長者と成り得たのであろうか。その謎は、彼の根拠地である会見郡という土地にあった。実は会見郡は伯耆は疎か、因幡を合わせた鳥取県内の郡で最も石高が高い郡であった。つまり実入りのいい地、儲かる土地だったのである。

石高統計は江戸前期以降しか伝わっていないが、土地条件や耕地面積の割合はそれ以前から、さほど変わっていない筈なので、成盛の頃もほぼ同じ状況だったといえよう。そして、更に西伯は鉄の産地でもあったので、それによる大きな利益も想定出来る。政治的には辺土であったが、大きな収益を生むここに平安中期頃土着して成長した紀氏の姿が成盛長者だったようである。


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進氏ゆかりの「蚊屋島神社」

さて、長者墓伝承地を見学後、調査事務所に戻った。そして、そこで、出土遺物である古代の金床石等を見せて頂いた後、S氏と所長のK氏に見送られて、長者原調査を終了したのであった。そこからは、北方は海浜寄りの平野地帯、箕蚊屋平野へと車を走らせた。そこは、I氏の実家、即ち中世以降の進氏の居館がある地であった。

先に、この地を管轄する米子市の法務局に立寄って資料を入手した後、日吉津というところにある「蚊屋島神社」に向かった(写真)。ここは進氏、即ち成盛長者が創建したとの伝承を持つ場所だったからである。毎日鞍を新調した馬に乗り、長者原から専用道を辿って参拝した話や、毛利の大将杉原氏にここで伝家の宝刀を奪われたとの伝承が伝わっている。元は社務も司ったが室町後期より、伊勢から今の宮司家である田口氏を招いてからは、その補佐職となったという。ともかく、進氏にとっては元は氏神の如き存在であり、その後も密接なかかわりを持ち続けた社だったのである。

到着してみると、社地や社殿の意外な規模に驚かされた。それは、昨日見た一の宮、倭文宮を凌ぐ程に思われた。伝承によると社地は更に広かったという。社地後方には「裏山」と呼ばれる大きな土塁状の高まりが走っていた。社地の後方、即ち北方はかつて海岸だったらしいので、堤防だったのであろうか。しかし、土地の有力者とかかわりが深い社となると、中世に於ける城塞化の可能性もでる。

成盛長者後裔、進氏

ここで紀氏長者と進氏との繋がりをみてみよう。実は、現在のところ紀氏と進氏を結びつける明確な物証は見つかっていない。紀氏自体が、成盛以降、殆ど記録に姿を現さなかったからである。その空白を埋めるものとしては、江戸中期に進家当主が記した備忘家記『紀氏譜記』があるが、一次史料ではない伝記なので物証とは成し難い。しかも戦国期以前の記述は希薄でもあった。

しかし、西伯に於ける進氏の存在意義を考えると、強ちそれらの伝承も否定出来ない。西伯紀氏が進氏を名乗り始めた時期は諸説あって定かではないが、南北朝期である14世紀半ばの史料に初めてその名が見られることから、進氏自体はその頃には確実に存在していたと思われる。その文書は、「進三郎入道長覚」による布美荘(米子辺りの荘園)領家職横領の停止を命じたものであるが、米子市史の見解では、この横領は伯耆守護、山名氏の意向によった可能性が高いという。つまり守護による荘園侵略の代行であり、それを担った進氏は、守護の下で相応の地位を拝し得る有力国人であったのではないかと思われるのである。

そして、かの「応仁の乱」を記した重要な中央史料、『応仁記』には西軍山名側の重要な戦力「伯耆衆」の一員として南条、小鴨、村上らの有力諸氏と共に登場する。同時代のその他の文書の分析からも、この頃進氏は守護に次ぐ在地での有力者「守護代」であった可能性が高いという。しかも、前述3氏は皆東伯の勢力の為、進氏は正に平安末の紀氏同様、西伯随一の勢力だった可能性もでる。

これらの事実から、確証はなくとも進氏が長者後裔である可能性の高さが窺える。また、西伯各所に神社や城塞の建造伝承も伝わっており、広域での影響も窺えるのである。何より、古くから地元で長者家本宗であることを認知されているのも軽視できないのではなかろうか。なお、現在の進家は、戦国期に1度男系が絶えたあと、かの山陽の名家「赤松家」の血を受けた女系が継承したものだという。


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箕進氏居館と屋敷絵図

蚊屋島社を後にして遅い昼食を途中の店で済ませ、いよいよ箕集落にある進家に辿り着いた。一度転出した為、古いものではないが、門構えある中々立派なお宅である。早速お邪魔して、I氏の父君、即ち第39代御当主(但し代数は赤松氏より。つまり村上帝からか)と面会した。そして用意した資料等を用いながら実地調査することとなったのである。

写真はその際見せて頂いた伝来の屋敷図。江戸後期である天保5(1834)年に、家相を見てもらった際に作られたものという。畳1枚程の大きな和紙に諸屋は無論、塀や排水溝、庭木などに至るまでの詳細が描かれている。今の家は、明治半ばに1度土地を手放した後かなりたってから規模を減じて再建されたので、本図は前近代の進家を知る上で実に貴重な史料といえる。

先ずこの絵図を見て目につくのが、屋敷を囲む太い緑の帯と水路である。緑の部分には「竹薮」の文字が記されている。これは屋敷を囲んだ土塁と水濠の跡に違いない。太平の世であった江戸期にこのような要害を成すことはありえない。よってこれは戦国期以前に成されたものの名残であることが判る。即ち、屋敷が廃滅した明治初め頃まで中世進氏の痕跡が残っていたことになる。前出の『紀氏譜記』にも、かつて屋敷が堀で囲われていたとの伝承がが記されている。


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上の画像は、屋敷図各部を拡大したものである。右上の部分は、敷地の右下、つまり東南の隅部分にあたる。緑の土塁跡内側にも水路と水溜りが描かれているのが解ると思うが、これは郭内の排水に用いられる「悪水抜き」であると思われる。この悪水抜きと外濠跡の存在から、当時土塁がまだ幾許かの高さを有していたことが判る。高さがなければ、水はそのまま外濠側に排水され、悪水抜きを機能させる必要はないからである。また、西側門下の土塁部分である左上拡大図には2、3段程の石垣も見られる。


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現代に浮かび上がる進氏中世城館

上の2図は、先程寄った法務局で取得した古い地籍図(旧公図)である。進家が在る「土居之上」という小字(こあざ)を上下2枚(弐と一)に分けたもので、明治24年に作製された現存最古のもの。画像はモノクロコピーだが、現物は水路や道が彩色表現された和紙製であり、訂正の書込みや紙貼りが施され昭和40年代まで使用された。

この図を、上記の屋敷図を考慮しつつ見ると興味深いことが判った。それは、公図の製作以前に売却されていたと思われていた屋敷の痕跡が残っていたことである。即ちそれは土塁の在り処を示す線で、私が加筆した緑の実線がそれにあたる。線は同一地目の範囲や筆界を表しており、当該範囲は正に「山林」と記されている。平野の只中で、周囲の地目が田や畑となっている中に、ロの字形の山林があるのは、いかにも不自然であり、もはや土塁以外の何物も想定出来し難い。

あとは、この「ロの字」の内部全てが元は一筆であったことが訂正書きや紙貼りで判ることである。昭和中期に土地の残存を知らされ戻ってきた進家の今の屋敷地は、その西南隅である紫の部分である。よって、上記の発見と共に、「宅地」と記されたこの一筆の土地が、屋敷図に描かれた元の進家の在り処・規模であることが確かになった。この地籍図は、中世から続く進家居館の最後の姿を写し得た実に貴重なものだったのである。

更に興味深いことは、屋敷図がかなりの精度で作成されていることであった。拡大図左上には「南北三拾三間」と記された書込みが見える。これは土塁の各辺に記されており、各辺の長さ、即ち敷地の規模を示している。そして驚くべきは、絵図全体に一定幅を持ったグリッドラインが引かれていることである。拡大図に見える黄みがかった格子線がそれである。各辺の書込みとこのグリッドを検討して判ったのが、その幅がちょうど1間だったことである。この正確な方眼上に全てが描かれている。よって、地籍図に残った屋敷の痕跡と、このグリッドを照らし合わせれば、かなりの精度で遺構の位置が特定可能となる。皆「占い用程度」との認識であった屋敷図は、実は正確な方位や配置を知る必要があった占い用であったが故に、精確に作成されていたのである。

絵図の情報から算出された古の居館の規模は一辺約65メートル。16世紀前半の洪水に罹災する以前は、更にこの外側を幅5メートル程の外濠が囲っていたという。これはもう、個人の宅地としてかなりの規模、設備であるといえよう。加筆図を見て解る通り、現代の「土居之上」中心に、こうして在りし日の進氏城館の威容が浮かび上がったのである。

吉凶判定で消えた土塁の「張出し」と謎の階と石垣

屋敷図と地籍図による「古の発見」はまだ終らない。両図を比較したとき気になるのが、屋敷図左下(西南)にある土塁の「張出し」の存在であったが、地籍図には痕跡が見えないこの謎の解明手懸りは、実は屋敷図そのものの中に記されていたのである。

拡大図左下は、その張出し部分であるが、そこにはちょうどそれを切るかのように朱線が描かれている。これは家相を鑑定した卜師が記したとみられるものである。実は屋敷図には、庭木1本に至るまで、この朱墨による吉凶判断が書き込まれている。そして、正に張出し上の立木には全て「凶」字が朱書きされている。つまり張出しは、卜師の指示により撤去されたとみられるのである。

家相の鑑定結果に基づき屋敷が改変されたことが確かになった。しかも、その場所は土塁という、大きな労力が必要とされる箇所であった。そうなると、他の凶判定箇所も改変された可能性が高いといえる。例えば、張出し右側に見える「築山」と「泉水(池)」などである。恐らく、これらも地籍図の頃には存在しなかった筈である。

では、戦国期以前から天保5年頃まで存在したこの「張出し」は何の為に施されたのであろうか。残念ながら今それを解く手懸りはないが、やはり土塁に付随しているという性質上、居館防衛に関する施設であるということは言えそうである。通常の土塁幅より「張出し」の分広くなるので、天守台の如き望楼が置かれた可能性なども考えられる。ちょうど、「張出し」の右近くにある「築山」には用途不明の切石の階(きざはし)と石垣も見える(拡大図右下)。築山自体も含め、庭園装置としては少々重厚過ぎると思われるこれらも、その関連遺構である可能性があるのかもしれない。


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居館の更なる広がりを窺わせる奇妙な痕跡

ところで、この進氏城館があった「土居之上」という字名であるが、それ自体が城塞址を示唆するものであることが、多くの類例により判明している。つまり今判明した箇所だけでなく、字全体が城館であった可能性も窺われるのである。その観点から再度地籍図を眺めると、また興味深いことが発見された。それは、「土居之上」上部(北)の左(西)に見られる奇妙な突出地である。

古代条里制の区画単位である、「坪」(約109メートル四方)に影響されているこの辺りの小字設定において、この様な変則は異様と言える。その原因として考えられるのは、この突出地が「土居之上」側と深いかかわりを有していたことである。可能性として挙げられるのが、土地所有者が土居之上と同一であったことや、そこから何らかの構築物が続いていたことなどがあろう。

この場合、突出面が不自然な弓なりを成しているので、所有耕地とするより、構築物の影響とみる方が妥当と思われる。そこで考えられるのが、城郭の防御施設、「出丸」である。出丸は、城塞の防御性と迎撃の安全性を高める為に城壁(土塁)の外側に張り出して設けられた小郭のことである。そこには専用の濠や防壁が設けられていた。但し、当該のものは半反程の広さしかないので、出入口部分に設けられた類似施設「馬出し」とすべきかもしれない。

地籍図には、ちょうどそこを囲う水路が見える。上掲の城館部拡大画像に加筆した水色の線がそれである。城館の東と南側の濠跡から続く水路が突出地を巡り北側へ流れ下っているのである。この水路は城館部分以外は側溝化して現存しているが、この存在からも、出丸説を往古復原考察の俎上に載せる意義があると言えるのではなかろうか。また、屋敷図に見える門の設置方角と、それが一致するのも見逃せない。しかし、方角こそ合えど、屋敷図の頃、即ち地籍図に現れた城館の門跡と、「馬出し」想定地は位置が食い違っている。また、城館に対するそれの過大さもバランスを欠いていると言わざると得ない。

往古屋敷地「2町四方」の伝承とその裏付

そこで考えられるのが、馬出しと現城館の設置年代のズレ、即ち「造り替え」である。実は、進家にはこれを裏付ける伝承が伝わっていた。それは、往古屋敷地が2町(218メートル)四方の規模を有していたというものである。地籍図上の「土居之上」は南北がちょうど2町である。ひょっとして、元の居館は字全体にあったのではないか。小字の名づけの原則からすれば十分有り得る話である。しかし、それだと東西が半町程足りなくなる。だが、その足りない側の東には、その不足分が存在した可能性が地籍図より窺える。

それは、東側に隣接する「勢勇」という不可解な名をもつ小字の存在であった。この名はそのままでは意味が通じないが、「贅疣(ぜいゆう)」と置き換えると、無用地を指す可能性が現れる。つまり、洪水等の災害により荒れ地化したと思われる場所である。地籍図には、河川影響を思わせる蛇行したそれとの境界が見える。実際それに沿った水路も描かれ、現在も存在する。よって、元は2町四方であった土居之上、つまり旧城館の東半町程が水勢により破壊を受け、放棄された可能性が窺われるのである。裏付には更なる検討を要するものではあるが、一考の価値はあろう。

また、現在多く見られる「土居之上」の宅地が、かつては少なかったことも重要である。特に地籍図の「弐」、即ち北側は進家しかなかったことが、図に記載された地目履歴から判明した。「土居之上」という字うちに於ける、進家居館の排他的姿も浮かびあがったのである。このことも、進家居館の更なる広がりを想わせる状況ではなかろうか。

今も残る往古屋敷地の痕跡

では、城館規模が更に大きかったとみられる時代そのものの痕跡はあるのであろうか。難しい問題であるが、1つその可能性を窺わせるものがあった。それは「弐」の図中央にある進家累代墓地から突出地中央に至る「墓道」である。もしこの突出が、出丸や馬出しであるなら、この道上に門、即ち木戸(城戸)が設けられた筈である。具体的な位置でいえば、墓道と南北道路が交わる箇所である。門を出た道は、南北路を用いて南北両側から城外と接続されるか、そのまま直進して馬出しの城戸から接続されたと思われる。つまり、この墓道は標準的な出丸・馬出しの機能とよく対応しているのである。

因みに墓道は南北路で終るが、筆界として更に西へ続いており、隣接の小字「岩屋畑」の中心にある小社、岩屋畑神社に達している。この社は、その規模や字内に於ける位置が進家累代墓地とよく似ている。それは、正に城壁を挟んで対称に配置されている観すら窺えるのである。城壁とその表門を間にして城主の精神要地を繋ぐ当時のメインストリート―。今は手懸りに乏しいが、往古の居館復原考察に於けるこの奇妙な符合発見は、調査に於ける新たな魅力を得た心地にさせられた。

進家城館の構築時期とその推進者

しかし、それにしても2町四方というのはかなりの規模である。もしこの規模が事実であれば、広域領主たる守護代の居城に相応しいものといえよう。しかも、これはあくまでも領主居館部分、即ち「本丸」部分なので、更なる外郭まで想定出来る。恐らくは箕集落全体が要塞化されていたのではあるまいか。現に、集落内には古城址を思わせる「上之代」や、軍事との関連を示す「的場」という小字名も残っている。

これらの城館が構築されたのは、進家が長者原から箕にやってきたとされる南北朝期辺りのことと思われる。しかし、地籍図に見られるような大規模な馬出しや土居濠が整備されたのは、やはり応仁の乱辺りからであろう。それは、世相上これらを構築する必要があり、そしてそれを実現するだけの力が当時の進家にはあったとみられるからである。それならば、この時代の史料に唯一姿を表す守護代と目される人物、「進美濃守」辺りがその推進者であろうか。

乱後、進家の名は歴史の表舞台から消えてしまう。代わって西伯に力を持つのは、かの八橋城主で、山名庶流ともいわれる行松氏である。この間の事情については何も伝わっていない。ただ、隣国出雲の尼子氏が進出してきた16世紀初期頃には既に神職としてその配下にあったことを『紀氏譜記』は伝えている。つまり戦国中期辺りには既に進家は武門であることを放棄し、在地の小領主化しているのである。恐らくは、乱後の在地動揺と、守護家の内紛や尼子の圧迫等の混乱により致命的な打撃を被ったのであろう。そういった意味では、城館も人為損壊を受けた可能性がある。

進氏最盛期、そして西伯紀氏第2黄金期の姿

これまで判ったことを整理すると、箕進氏の城館には少なくとも3期の姿が存在したとみられる。それは進家が初めて箕に入った際「上之代」に造られたとみられる最初期ものと、応仁の乱前後の世情不安定を受けて「土居之上」に造られた馬出し付きの大規模なもの、そしてその後それを改変して明治まで続いたものである。最後ものは更に洪水や占いによる部分改変も考慮することが出来よう。ともかく、2期目と3期目が進氏の最盛期、即ち西伯紀氏としては成盛長者以来の「第2の黄金期」の姿を伝えるものだといえるのではなかろうか。


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では、こうした資料上の発見等を踏まえていよいよ実地調査を行う。先ずは地籍図に現れた居館部分である。写真は居館東南隅近くから西方、つまり現在の進家方向をおさめたものである。敷地界であるブロックの右側、特にビニールハウスの辺りの土地が高くなっていることを確認した。僅かながら土居の痕跡が残っているようである。I氏と御当主も、「なるほど」といって興味深げであった。

小道が見える左の低い方は濠跡である。地籍図にはそれを継承したとみられる水路があったが、今は埋められて無い。しかし、この下には往時の規模そのままの遺構が眠っている可能性が高い。


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現進家居宅の南庭にある高さ1メートル程の「築山」。

ご一家共々、屋敷図にあるそれと同一のもの思われていたが、諸図との照合で違うものであることが判明した。もし、あとで盛られたものでなければ、その位置から、土塁の遺構である可能性が極めて高い。


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,赤松氏,田口氏,坂中廃寺,会見郡,長者原,箕蚊屋,蚊屋島神社,尾高,大山,城館,豪族屋敷」

進家累代墓地。

墓石は主に江戸期のものが多いが、桃山以前のものとみられる小塔類もいくつか見られた。左側一列に並ぶものがそれである。かつては左際にあった大木の根元にあったらしいが、その伐採の際、担当業者によって勝手に組み換え・並び換えされてしまったらしい。

この墓地は周囲とは異なり、起伏のある不思議な島状地となっている。これは前述した岩屋畑神社と同じで、かの「キサイさん」とも類似している。神社には地籍図のころ水濠の囲繞が見えるが、墓所も同様だったのかもしれない。江戸期に西伯を訪れた俳人の日記によれば、キサイさんも水濠に囲まれ、しかも道を挟んで対のものがあったという。「馬出し」の話でも関連したが、やはり何か特別な印象を受ける場所である。元は違う用途で造られたのであろうか。進家では、往古ここで「馬揃え」が行われたことを口伝している。


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屋敷地北辺より、東方は墓地へと続く「墓道」を見る。

今は畔程の幅しかないが、地籍図以前は広かったとみられる。御当主によると、道右端に見える小石の列が昔から存在するため、石垣の痕跡ではないかと思われているという。

道右側の畑は用途や所有の関係上、周囲と色が異なっているが、即ちそれが水濠の跡と思われる。その右隣にあった土居共々、痕跡は見る影もないが、土地の所有区分、即ち筆界に姿を留めていたのである。これにもI氏は感心の様子。


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箕集落東端から見た、淡い夕照に霞む大山。

このあと、箕集落のほぼ全域を巡って外郭の遺構等を探したが、明確なものは見つけることが出来なかった。しかし、進家居館を含め、大規模建設等による地下撹乱状況は認められなかったため全域遺構包含の可能性が高いことが判明した。かつては頻繁に洪水に遭った思われる洪積平野只中のここは、戦国期以降、かなりの土砂堆積に見舞われている筈である。よって、地表には見えなくとも、土塁基壇部等の居館関連遺構がそのまま地下に眠っているとみられるのである。早急な保全と調査が望まれるところである。

調査終了

さて、陽も傾いたのでここで調査は切上げとなった。2日に及んだ長者伝説調査行の終了である。実に興味深いものであった。少ない期間ながら中々の成果を挙げられたのではなかろうか。これからの発掘進展や、新史料の発見が楽しみである。そのような、充実と期待を胸に、我々は秋宵(しゅうしょう)迫る伯耆を後にしたのであった。

元は進家往古の痕跡の有無を巡り、私とI氏がそれぞれ史的見地と見在的見地を頼りに対立して始まったこの調査。やはり、私の史的見地に分があったことが明白となった。夕映えに晴れやかな大山もそれを祝してくれているようである(笑)。

冗談はさておき、お世話頂いた関係各位には末筆ながら深く謝意を表する次第である。

※2007年、絵図及びその他画像掲載について進家より承認済。
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2007年11月25日

伯耆「長者伝説」調査行T


逍遥雑記「伯耆行,西伯紀氏,伯耆衆,進氏,紀成盛,長者伝説,行松氏,津田氏,倭文神社,東郷池,八橋城,遠見遮断,大山」

車窓を流れ飛ぶ薄穂(すすきほ)の果てに立つ山塊。豊かな穂並を前にしての、白雪(はくせつ)の様には違和を感じるが、それもその筈、これは西国の大峰、大山(だいせん。1729m)の姿であった。よく見かける写真の姿と異なるのは、あまり馴染ない北方からの撮影の為。しかし、この姿の方が複式火山塊である大山の実体を良く知ることが出来るのではなかろうか。これまで大山を実見したことがなかった斯く言う私も、強くそれを実感させられたからである。

さて、今日はこの大山を正中に頂く伯耆地方にやってきた。出雲の地、島根東部に接する、鳥取県西域である。京都から遠く、個人的にも馴染のない地方であったが、知己のI氏がここの出身であった縁により初めて訪れることとなった。実は、I氏は紀氏後裔を称する「進氏」という、かつて西伯耆一帯に権益を有したという土豪宗家の出であった。伝承では平安期、史料では室町初頭に土着が確認される一族で、その豪富ぶりは地元で有名な「進の長者伝説」としても伝わっていた。

史的見地VS見在的見地。押し問答の末の調査行決定

以前I氏よりその話を聞いた際、「伝承以外にも、さぞや色んなものが伝わっているだろう」と私が言ったところ、I氏は「一度没落しているので、もはや何もない」と返答。私が「物はなくとも、継続居住しているのであれば、必ず土地に痕跡が残っている筈」と史的見地より返すと、氏は見在的見地から「そんなものはあり得ない」と返して、押し問答になってしまった。そこで、その決着の為、機会を見て2人で現地調査をすることとなったのである。

先ずは地元から資料を取り寄せてもらい、予備調査をしつつ2日に渡る調査日程を決定。更にI氏には、地元関係機関に連絡を入れてもらい、関連遺構等への案内も予約してもらって準備を整えた。こうして今日、未知なる伯耆へと旅立つこととなったのである。


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濃霧の丹波路を経て、伯耆一の宮へ

時間の有効利用為に明け方市内で集合し、I氏が操る車輌にて出発した。この時期特有の濃霧に沈む丹波路や鳥取砂丘等を経ること約4時間、最初の目的地、倭文(しどり)神社に到着した。倭文宮は、旧伯耆国内で最も社格が高い「一の宮」に当る。東伯耆にあるため進家とは直接関係しないが、I氏の母堂方一族の出身地なので寄ることとなった。そもそも、初日である今日は、御母堂側の関係地を巡ることにしていたのである。

写真は倭文宮の手水鉢。自然石を加工した巨大な硯の如き品である。社殿はその上奥に見えるが、前者の豪様に比して質素とも見える印象を受けるものであった。非礼ながら一の宮らしからぬと思われるその現況は、恐らく、かつての戦乱に因るものかと思われた。

因みに、I氏の母堂方旧地は門前にある「宮内」という集落内にあったという。倭文宮との関連を思わせるこの集落は、史書によると明治初年の神仏分離まで神社を管掌した「神宮寺」があった場所らしい。母堂家も明治半ばに他所へ転出してしまったが、ひょっとすると、神宮寺に何か関係していたのかもしれない。


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倭文宮西方に広がる東郷池と東郷平野。温泉で知られた地であるが、実は中世史研究上に於いても著名な場所であった。それは、「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」という、750年前の荘園図にこの地が描かれている為である。

図名にある「下地中分(したじちゅうぶん)」とは、当時の領家(領主)と地頭が、土地を折半して権利争いの決着を図った方法。つまり、この図にはその折半の様子が描かれており、当時広く行われた下地中分の実態が窺える貴重史料となっているのである。またその他にも、当地に於ける当時の自然状況や交通路、地名等に関する貴重な情報を伝えてくれている。当時の東郷池が今より広かったことが知れるのもその一例である。


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山陰の要衝「八橋」探索

東郷から更に西進して今日の宿泊地である八橋(やばせ)に到着した。時は、ちょうど正午。八橋はI氏御母堂実家の所在地で、宮内から移転以来の居住という。今は常住者されていないその実家には、進家からわざわざ御母堂が来られて昼食を馳走して頂いた。そして午後からは、八橋の町を探索することとなったのである。

先ずは最寄の「琴浦町生涯学習センター」付属資料館にて八橋古図を閲覧することとなった。I氏が事前連絡していた為、休館中であったがスムーズかつ丁重に対応頂いた。写真は、展示中であったその古図をわざわざ展開して見易くして頂いたところ。この図は天保15(弘化元。1844)年に鳥取藩が製作した「八橋郡菊里村岩本村田畠村地続全図」と呼ばれるもので、江戸後期の城下町八橋とその周辺の様子を知ることの出来る貴重な史料。特に指定して用意頂いた訳ではないが、八橋探索の始めに相応しい遭遇となった。


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さて、古図を脳裏に焼き、いよいよ八橋の街歩きを始めんとした時、早速気になるものが現れた。それが、写真に見える人面瓦である。この様な、陽に白光る素焼の顔がほぼ全ての甍に付いている。家屋は疎か、納屋や便所に至るまでである。しかも、その位置は棟端だけでなく、甍の全端面に及ぶ。

大黒天(大国主命)とみられるそれは、鬼瓦の一種かと思われるが、初めて見たその変りぶりには少々驚かされた。否、驚いたというより、屋根中・街中が「福笑い」に包まれる様に微笑ましささえ感じたのである。この「笑い瓦」。東伯耆の八橋は疎か、翌日訪れた西伯耆地方にも広く見られた。調べてみると、更に美作(岡山北部)や播磨(兵庫西部)にも類似品が存在するらしい。I氏もその由来を知らなかったが、中国地方に於ける出雲大社(大国主命)信仰と関係するものなのであろうか。


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街の中心、八橋駅前にある八橋城址。後方を山陰線に削られ今は小さな丘一つとなってしまったが、かつては多くの郭や濠も備えた大山裾野台地突端を利用した城塞であった。裾野と海浜に挟まれた山陰道を押える要衝で、古より各勢力による争奪戦が行われた。初代城主である「行松氏」は、進氏本拠に本貫が近く、その関連が窺われる一族でもある。


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八橋城址小丘下にある古垣。野面(のづら)積みに近い施工状況から、かなりの古式である可能性がある。戦国末の毛利改変期から江戸初期頃か。石垣下を巡るコンクリの通路は、濠の埋め跡とみられる。未だ地下水が豊富なのか、近くにて電動ポンプによる水の汲み上げもみられた。


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城址の改変ぶりに比して、古図の姿を濃厚に留めているのが街道沿いの町家域である。写真の浜側裏道も正に好例の一つで、道幅や路地位置は疎か、各戸の敷地形状もほぼ古図のままであった。

ところで、古い建屋の造りで気になったのは板壁の多用である。京町家等とは異なり、正面にまでそれが施されている。潮風への対策であろうか。その板面の様子と、そこはかとなく漂う香から、松材が使用されているように感じた。あくまでも推測だが、湿気への耐性を考えると、強ち外れていないような気がする。


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町家域中心を貫く旧山陰街道に残る「遠見遮断」。遠見遮断とは、街路をわざと屈曲させて見通しを遮ったもの。これも、古図の頃から変わらず残存していた。遠見遮断は一種の軍事設備で、敵の進軍を阻害し、迎撃を易くする狙いがあった。よく知られる「枡形」は、これを連続で設けて凹型にしたもの。これらは、古くから各地に見られるが、主要街道のものは江戸初期に幕府の意を受けて成されたものが多いようである。

因みに、鳥取に本城がある鳥取藩が「一国(藩)一城令」に反して八橋にも城を保持したのは、藩主池田氏が代々徳川と姻戚関係にあった為。つまり幕府の身内、親藩格として特例を認められていたのである。それを知ると、近世に於ける八橋城とこの遠見遮断の性質が明確になる。即ち、有事の際にはこれらは鳥取藩のみならず、幕軍の施設とも化す性質を有すものだったのである。その際の仮想敵は、西方に力を保持していた、毛利等の西国外様大名であることは言うまでもない。


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町家域、街道沿いにあった古い病院跡。窓の造り等からすると、昭和初期頃の築か。その職掌を暗示するような赤い壁色と、逆に白抜きを成す側塔部の十字装飾が面白い。

右側の建屋玄関に面して奥に続くのが旧山陰街道。上掲の遠見遮断とは逆方向の西向きを撮影した。病院側面に見えるアスファルトは城へと通じる道。つまり、ここは街道から城へ入る口に当り、古図に「追手(大手)」と記された表玄関であった。病院等の、周辺家屋の様子からは判じ難いが、やはりここも道の付き方等に古図との違いはみられない。敷地も同様なので、ひょっとすると病院も当時の大型商家等を改造して成している可能性がある。


伯耆行初日終了

意外にも、古の痕跡と数多く遭遇出来た八橋探索は、斜陽の訪れと共に終了した。今日はこのままI氏御母堂の実家泊となる。街道沿いの豪壮な造酒屋にて地酒を買い、食材を仕入れて夜宴となった。I氏がさばく近海魚の刺身や、御母堂差入れの蟹が旨い。今日や、明日の様々を語る話も尽きず、初めての伯耆夜は更けていった。明日は、いよいよ長者伝承の調査である。随分遅くなってしまったが、それに備えて漸く就寝したのであった。
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2007年11月17日

比良山会U


逍遥雑記「比良山会,出町柳,平,権現山,ホッケ山,小女郎ヶ池.蓬莱山,打見山,天狗杉,志賀駅」

晩秋の一日(いちじつ)、山会を行った。場所は前回の夏季山会に同じく、滋賀西部にある比良山塊。今回は一部の参加者の希望もあって、その最高峰である武奈ヶ岳(1214m)を目指すこととなった。本来なら、この時期の比良は既に紅葉も散り、雪も見え出す頃。しかし、今年は季節推移の遅れの為、未だ秋山風情が楽しめそうな気色であった。

折しも、気候が冬型に入るとの予報が出た直前。早朝からの快晴にも迎えられて、絶好の山日和(やまびより)山行を始めることとなった。


上掲写真 比良西北にある葛川(かつらがわ)地区「坊村(ぼうむら)」集落より丹波高地(西)を撮る。坊村は比良登山の拠点。天台修験の名刹「葛川明王院」の所在地で、いにしえ京と若狭を結んだ「大原北陸道」沿いにある。安曇川上流、丹波高地と比良山塊の谷あいにある坊村の朝は遅い。写真は9時頃であるが、未だ集落に陽は入らない。その為か、気温1度の寒さであった。


市街から比良西麓へ。<坊村 ― 武奈ヶ岳>

逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

前回に同じく、出町柳駅7:45発の京都バスに乗り、山あいを縫う旧大原北陸道(R367)を北上した。シーズンの為か、バス乗場は多くのハイカーで賑わっていた。その為、我々が乗車する便も1便増便されたのである。そしてその増便車に乗り、その終着地となった「坊村」集落にて下車した。所用時間は1時間強。つまり、前回下車した「平」から更に北上した位置に着いたのである。

途中、山間をゆく車窓から外の温度標示をみて驚いた。気温2度の表示が出ていたからである。確か市街ではさほど寒さを感じなかった筈…。始めはその故障を疑ったが、次の標示も同様であった。そういえば、遠近(おちこち)に霜が降りている。而して、到着地坊村の標示は更に進んだ1度であった。バスから降りる人々は次々にその寒さに声を上げる。やはり標示は正確だったようである。これも油断ならぬ山事情の一つであろう。

寒さの中、バス停付近に集まって準備する。今回の参加者は前回参加したM氏とKに、友人のTちゃん(男)とY夫妻の計6名であった。前回参加し、今回もその予定であったY氏は、残念ながら直前に不可能となった。その他、4、5人が惜しくも不可能となったが、これらの人々には次の機会でのご同行を期待したい。

さて、準備を整え早速本日の目標、武奈ヶ岳を目指した。コースは明王院の脇から尾根に出て縦走する「西南嶺ルート」。幾度も武奈の頂を踏ませて貰っている私も初めてのコースである。


上掲写真 武奈ヶ岳西南嶺ルートで遭遇した自然林地帯。山肌に積るブナや楓の落葉が美しい。稜線に近い、かなり標高の高い場所で、正に静かなる奥山の風情であった。


逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

山裾から続く植林帯の九十九(つづら)の道をゆき尾根道を目指す。急登に難儀する登山初体験のY夫妻を庇いながらの前進である。延々と続く急登には口数を下げるも、前回参加組は温度負荷がない為か、少々余裕の気色も見られた。

幾度かの休息をとりつつやがて尾根筋に出、緩やかに高度を上げてゆく。そして現れたのが、写真にある武奈ヶ岳である。漸く、かつ突如現れた、蒼空に屹立するその姿に皆感慨しきり。しかし、山頂位置確認の為に出された指は、皆自分の期待を映してか、手前側の嶺を指すことしきり。残念賞、山頂は最奥の嶺である。西南嶺ルートは高低差は勿論、距離も長いのである。

まあ、それでもここまで来たらあと僅かである。手前の長い尾根道を進み30分弱であろうか。


逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

雄大な山景を背にして西南嶺最後の登坂に挑む参加者。前掲写真で山頂直下に見える三角形の枯草地帯である。


逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

そして正午、遂に山頂に到着した。坊村からの所用時間は約2時間半。登山地図等にも記載されている標準的所用時間で、予想していたより早くに到達出来た。めでたい限りである。

写真は山頂からの眺め。さすがに中腹等とは違い、既に冬枯れの風情となっている。しかし、天気がいいので山頂は実に多くの人で賑わっている。折しも時は昼時。皆それぞれのグループ毎に集まって昼食を楽しんでいる。その中には、ガスストーブ(携帯調理器具)を持参して煮物や麺類を調理しているグループもある。Y夫妻とM氏、その香に当てられ羨ましがることしきり。


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色づく丹波高地。山頂から久多(くた。左京区最北部)方面を撮影。

山頂にて食事後、暫くは皆で寛ぐつもりであったが、俄に風が出て寒くなってきたので、先へ進むことにした。坊村からのバス便が使い難い為、距離はあるが湖西側へ降りるコースをとる。


奥山の魚と、環境回復事業の進展を目撃。<武奈ヶ岳 ― 八雲ヶ原>

逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

来た道を少し戻り、西への分岐に入って高度を下げる。森中をゆくルートだが、所々足場が悪く難儀する。写真はその途中で目撃した渓流魚。アマゴだと思うのだがよく判らない。ただパーマーク(体側斑紋)が殆どなかったことだけは確かである。体長は10数センチ程であろうか。沢の源頭に近い標高1000m以上の場所にいたのには驚いた。確かこの沢の下流は魚止めになる滝が幾つかある筈である。まして冬季は沢ごと雪で埋まってしまう地帯でもある。それにしても、シャッタースピードが遅かった為、被写体ブレしたのは残念であった。ともかく、水生動物好きのTちゃんが興奮することしきり。


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現れた一面のススキ野原をゆく参加者。陽を浴びて枯野輝く様は、正に森が纏う金帯の風情。実は、ここは3年前に営業を停止した比良山スキー場のゲレンデ跡。未だその痕跡は明瞭だが、やがて元の森へと還っていくのであろう。


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ここも旧スキー場跡。山中の大きな平坦地で、往時は食堂やトイレ等の建物があったが今は全て取り払われていた。しかし、最も驚いたのは、板橋架かるこの池の存在であった。実はスキー場営業当時にはなかったものであるが、自然公園法の原状回復義務によって回復されたらしい。即ち、スキー場以前にあった湿地を復原したものだったのである。この平坦地には隣接して「八雲ヶ原」と呼ばれる自然湿地が存在するが、平坦地はこの半分程を埋めてなされたものだったのである。

八雲ヶ原は氷期より続く高層湿地で、希少植物の自生地として国定公園に於ける特別保護区域に指定されている。どうしてその様な場所が、レジャー施設建設の為に破壊を受けたのか理解に苦しむ所もあるが、ともかく、こうして復原されるようになったのは喜ばしい限りである。実現に尽力された関係各位の労に敬意を表し、この様な破壊が2度と起こらないことを願う次第である。


急峻な山肌を下り帰還。<北比良峠 ― 比良駅>

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八雲ヶ原から少し登坂し、旧比良ロープウェイ「山上駅」跡(北比良峠)に到着して小休止した。ここも全てが取り払われており、その徹底ぶりには感心させられた。確か、駅は鉄筋コンクリートで作られた頑強で大型のものだった筈である。休息中、Y夫妻の夫人側であるYちゃんが、足元の折れ枝に守られた(囲われた)植物が苗木であることに気づいた。良く見れば、施設跡とその広場に無数のそれがある。これも、土砂流出を防ぎ、原状回復を促進する処置であろう。

比良に於ける環境回復事業の進展を見、湖西への最後の下りに入る。写真眼下に見えるのが、湖西平野と琵琶湖である。因みに中央の内湖付近が、9月に水浴に行った近江舞子(雄松浜)。しかし見ての通りの急峻である。これからこの山肌を一気に下るのである。実はこの地点の標高は未だ1000m近い。このことは敢えて伏せ、皆さんにはもうひと踏ん張りして頂くことにした。


逍遥雑記「比良山会,出町柳,坊村,御殿山,武奈ヶ岳,イブルキのコバ,比良山スキー場.北比良峠,イン谷口,比良駅」

森中のルートを下りに下って「大山口」と呼ばれる登山口に出た。足場が悪く、急傾斜も多かったので、人によってはかなり辛いルートであったが、辛抱してくれたお蔭で無事下山出来た。写真はその直後の様子で、時間は16時過ぎ。これより先は車道を下る。従来はこの少し下方から駅行のバスが利用出来たが、スキー場閉鎖と共に廃止となったので歩いて駅までゆく。

そして、すっかり陽が落ちた頃、比良駅に辿り着き、京都市街へ帰還したのであった。今回は私の体調の関係等で打上げは行わなかった。些細な不注意に因る番狂わせを陳謝したい。また、交通機関の都合に因るコース選定とはいえ、かなりハードな行程となったことも併せてお詫びするところである。まあ、それでも皆さんからは楽しんだ旨の言葉を頂けたので幸いであった。ともかく今日は歩いた。その距離は15キロ以上かと思われる。最大高低差は900m。下りも入れると実に1100m以上の高低差を自力で移動したこととなる。皆さん本当にお疲れ様でした。
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2007年11月05日

山会告知


逍遥雑記「秋の山会告知,比良,武奈ヶ岳行」

来る11月17日に秋の山会を行うこととなりました。場所は、滋賀県は比良山系の最高峰「武奈ヶ岳」(1214m)です。今年は季節の遅れに因り、この時期でも紅葉と、頂での遠望昼食が楽しめそうです。ご希望の方は奮ってご参加下さい。11/12 訂正追加(赤字箇所)。

詳細

開催日: 11月17日(土曜日)
時間: 7:30〜17:00頃(打上げ不参加の場合)
集合場所: 出町柳駅京都バス10系統乗場(駅舎西側)
集合時間: 7:30
費用目安: 往復交通費¥2000前後、プラス打上げ費(非高級店)
行程: 出町柳駅〜(京都バス1時間)〜坊村停留所〜(徒歩3時間)〜武奈ヶ岳山頂〜(徒歩3時間比良山塊横断下山)〜JR比良駅〜(JR&京都地下鉄)〜鞍馬口駅

備考

・雨天の場合は中止します。
・最大登坂高低差は約700900m、歩行距離は10キロ強の健脚向き行程となります。
・各自のペースを尊重し、早い人が遅い人を少し先で待つ行路スタイルとなります。足の早さに自信がなくても問題ありません。
・鞍馬口駅帰着後、入浴(銭湯)と打上げ夕食会を予定しています。参加希望の方は適宜着替え等の持参を考慮下さい。

参加条件

どなたのご参加も歓迎致します。登山の経験は問いません。ただ、今回は高低差と距離がある健脚向きなので、自力で歩き通せる方のみお願いします。この山会は参加費等を徴収する集いではありません。よって何の補償もない自己責任参加となることをご承知下さい。なお、藤氏と面識のない方は、事前にメール等でのご連絡をお願い致します。

持ち物その他

・水(恐らく補給出来ないので多めに)
・昼食
・帽子
・手袋
・歩き易い靴&厚手の靴下
・化繊混等の乾き易い服(長袖&長ズボン)
・雨具(出来れば上下合羽)
・防寒着

その他、着替えやタオル、御菓子(非常食)等は適宜ご考慮ください。靴は運動靴でも可能ですが、泥濘遭遇の可能性があります。基本的に、登りは暑く、休憩並びに下りは寒いと思っておいて下さい。荷物は極力軽くした方が楽です。


以上、何かご不明あれば、ご連絡願います。


ご注意 上掲写真は北海道最高峰、大雪山旭岳(2290m)の秋景で、予定地のものではありません。単なるイメージです(笑)。
posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:40 | TrackBack(0) | お知らせ