2020年08月25日

goodbye P.G.

Fleetwood_Mac_peter_green.jpg
フリー百科事典『ウィキペディア日本語版』「ピーター・グリーン」項目より(photo by Nick contador CC-BY-SA, from Wikimedia Commons)

英人音楽家ピーター・グリーン氏月命日にて

先月25日、面識は疎か一瞥の機会すらなかったが自分にとって重要な人の訃報があった。

その人の名はピーター・グリーン(Peter GREEN)氏。名の通りの外国の人で、英国の音楽家であった。

詳しく言うと1960年代後半からイギリスで活躍したブルース、ロックミュージシャンで、特に同国の老舗ロックバンド、フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)を創始し、その活動初期にメインボーカルとギター、ブルースハープ(10穴ハーモニカ)や作詞作曲を担当した人として知られる。

私もその昔エリック・クラプトンらの60年代ブリティッシュ・ロックやホワイトブルース(白人演奏ブルース)への興味からグリーン氏を知り、フリートウッド・マックでの演奏を聴いてファンになった一人であった。彼を知らぬ人でも、カルロス・サンタナの代表曲「ブラック・マジック・ウーマン」の作者と聞けば親しく感じる人も多いのではなかろうか。

1946年生まれというピーター・グリーン氏にとって60年代末といえば、まだ20代前半の若さであったが、その歌声とギター演奏は艶やかかつ卓越しており、円熟味さえ感じさせるものであった。

バンドでメインボーカルをとりつつギターを弾く人は当時から多かったが、若手で両方に長けた人は稀であった。個人的意見だが、1歳年長で音楽界の先輩クラプトンがデビューから30年近く経ったアンプラグド・ライブ以降に歌・ギター共々深みを得たことを考えると、正に天才的といえた。

しかし、そんな才気煥発・前途有望なグリーン氏であったが、1970年、薬物をきっかけにした身心不調を理由に突如バンドを脱退し、以降、数枚のソロアルバムを出したものの、その後表舞台から姿を消してしまった。

過度の飲酒や放浪生活等の噂だけが耳に入り、実際私も80年代末に「新宿の路上で酩酊していた外人がピーターグリーンを名乗ったので試しにギターを渡したら正に本物の上手さで驚いた」という真しやかな話を聞いた。

そして、漸く90年代半ばに、彼を敬愛する音楽家達の助けで活動を再開し、近年まで断続的ながらもバンド活動を続けていた。私は彼の復帰以降の活動内容については無知ながら、ネット社会になってから、老境に達しながらも、その健在を観て安心し、陰ながら応援していた。そんな折、彼の訃報を知ったのである。

それから一月経った今日は云わば彼の月命日。この一月に色んな動きがあり、また新たな知見も得たので、これを機にホワイト・ブルース系表現者の中で最も敬愛したピーター・グリーン氏について記したいと思う。

ピーター・バラカン氏による追悼番組

1960年代に於けるピーター・グリーン氏の活躍は、日本では一部の古いロック・洋楽好きの人にしか知られていない観があり、70年代半ば以降に世界的ソフトロック・ポップスバンドに変貌したフリートウッドマックの元メンバーとして、一応その訃報が簡易に報道されるのみのであった。

その様な少々寂しいともいえる日本での報道状況のなか、ブロードキャスターで音楽評論家の在日英国人ピーター・バラカン氏が、グリーン氏死去の1週間後である今月1日朝に、担当するラジオ番組で追悼特集を組んだ。

日本在住46年で、音の目利き(耳利きとすべきか)として、世界の良質な音楽を我々に紹介し、完璧な日本語で深みさえある解説を提供してくれるバラカン氏のその番組を毎週聴いていた私は、偶然その特集を耳にすることとなった。

1時間40分に渡るそれは、バラカン氏が若き頃ロンドンの街で直に聞いたピーター・グリーンの音楽や、人物そのものに対する深い敬愛と哀惜が感じられる、実に印象深い追悼番組となった。当然、元は違う企画が予定されていたらしいが、急遽変更し、自ら大変だったと語る作業を経て、逝去翌週での放送に漕ぎつけたという(それでも、かけたいものの一部に成らざるを得なかった、とのこと)。

さすが、気骨の音楽伝道師バラカン氏。番組内容共々、氏ならではの、正に何人も真似できぬ対応であった。

天才ミュージシャンの生い立ち、そして成功

バラカン氏によるピーター・グリーン追悼番組では、グリーン氏の評判を高めたジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズやフリートウッド・マック期の名曲・名演奏の他、その他貴重な音源を聴くことができた。また、これまで知り得なかったバンド脱退等の「事件」の内実と、それに関連したグリーン氏の思想や人柄、そして生い立ちを知る機会ともなった。

グリーン氏は、戦勝国ながら疲弊著しい戦後間もないイギリスのロンドン東部の下町生れで、父親は郵便配達員であったが、実は衣服関連の職に就くユダヤ人が多いその地区に住むユダヤ系住民であったという。

そのため、本来の姓は「グリーンバウム(ドイツ語圏からの移民家系か)」であったが、人種や民族への差別が色濃く残っていた当時のイギリスの学校で嫌がらせを受けたこともあり、「バウム」を切って、英国的な「グリーン」を名乗ったという(そういえば、この逸話を語る、同じロンドン出身のバラカン氏も、父親がユダヤ系であった)。

元々、彼の風貌や楽曲・演奏等からは他のバンドメンバーとは異なるラテン的・非西洋的な雰囲気を感じていたが、実はそれには血統的理由もあったのである(何処かイエス・キリスト的な彼の風貌や、前述のサンタナのカバー曲、最大のヒット曲「アルバトロス」等が正にそうである)。

10歳か11歳の頃に兄からギターを教えてもらい、ビートルズ以前にイギリスを席捲したシャドウズ等のロックン・ロールバンドに影響を受けるなどしつつ腕を磨いたらしい。

10代から色々なバンドで演奏を始め、1966年からエリック・クラプトンの後釜として本格加入したブルースブレイカーズでその才能を広く知らしめる機会を得た。当時既に当代一のギタリストとして人気を博していたクラプトンの後継として当初その実力を不安視する声もあったが、グリーン氏は全く引けを取らない好演奏をいきなり見せつけたのであった。

そして1967年、遂に自身が主宰するバンド、フリートウッド・マックを結成する。それまでの活動同様、アメリカの黒人音楽であるブルースのカバーを採用しつつ、自らが作詞作曲した斬新独自の曲を高い演奏力で聞かせる先端的グループを生み出したのである。バラカン氏は、そのデビューアルバムが出た時の感嘆と英国での反響の大きさを語っていた。

同バンドでグリーン氏はギター演奏の他、卓越した歌唱やブルースハープ演奏も聞かせることとなる。それは、これまでギター演奏を主としていた者の余技とはとても思えない情感溢れるものであった。そうした、彼を含むバンドの技量やブルースを超えた幅広い表現力(これも独自曲の大半を作った氏の功績大)により、英国は疎か一躍世界的人気バンドとなった。

明かされる謎とその内実

こうしてグリーン氏はその音楽人生に於いて大きな高みに達するが、その状況は長く続かなかった。欧州ツアー中にドイツのヒッピーに勧められた合成麻薬をきっかけに身心に変調を来たし、1970年に自ら創始したバンドを去らざるを得なくなったのである(残る2人のギター奏者もまた異変に因り程なく脱退)。

フリートウッド・マック脱退後、ソロアルバム制作やセッション活動を行うが、バラカン氏によると、あまり話題にならず、70年代半ばには精神病院に入院して電気ショック療法を受けるまでになっていたという。漸く78年に退院し、早速その年に復活を期待させる良いソロアルバムを1枚出すも続かず、その後は廃人同然の姿が雑誌で紹介されるなどしたらしい。

元々繊細な人で、酒や薬による奇行とされていたものは、後の診断によると、統合失調症が原因だったという。様々な噂の陰で、独り彼は病に苦しんでいたのである。

また、無欲な人でもあり(バンド名に自分の名を冠せずドラマーとベーシストの合成名を採用したことも、その表れという)、自然回帰的生活への憧れや、金銭社会への懐疑心があり、財産の共有化を唱えてバンドメンバーを困らせたり、挙句の果てには印税を渡そうとする会計士を銃で脅す警察沙汰さえ起こしていた。

純粋故に、自らの信条に反するようなショービジネスの世界に身を置く矛盾等に傷ついたのであろうか……。

グリーン氏は、90年代半ば以降に有志の助けで活動を再開した後も殆ど表に出ない裏方のような演奏姿勢を貫いたという。つまり、78年の一時的復帰を最後に、彼がその艶やかな歌唱やギター演奏を主体的に行うことは絶えたのである。私はこの辺りの状況について無知だったが、確かに良い評判も聞かなかった。

バラカン氏の哀惜

追悼番組の最後、私の知らない透明感ある印象的な曲が流された。最盛期同様の流麗な歌唱とギターは正にグリーン氏によるもので、78年の一時復活時の1曲であった。そして、エンディングを兼ねて滔々と流れるその歌とソロギターにのってピーター・バラカン氏が語りかける。

「この時を最後にピーター・グリーンの主だった活動がなくなったことを本当に残念に思います。彼のことを知らない人でも、これを聴いただけでその素晴らしさが解る筈。どうか彼のことを忘れず、多くの作品に触れて下さい」と……(非原話ママ)。

こうして、愛すべき同郷者に対する哀惜の情を以て番組は閉じられた。ネイティブであるバラカン氏の尽力により、私もグリーン氏の謎とその内実を少なからず知ることが出来た。バラカン氏には謝意を表したいと思う。

追悼ピーター・グリーン

60年代のロックシーンに彗星の如く現れたピーター・グリーン氏。世界に轟く、眩いばかりの活躍で、直ぐ様先行のエリック・クラプトンと双璧を成す存在となったが、その後二人の人生は大きく異なるものとなった。

多くの人はその差異を「明暗」と呼ぶであろう。しかし私はそのことを惜しむこそすれ否定することはない。病等の影響で時に極端なこともあったが、彼の行動は一貫しており、それに対する確かな意思も感じられるからだ。彼は決して狂ったまま逝ったのではない。そして確かに素晴らしい演奏や名曲の数々を披露し、私の他多くの人がそれに触れることが出来た。

ただ何より、音楽や人の有り様に真摯に向き合い、微塵も偽りがない彼がこの世から居なくなってしまったことが堪らなく悲しい。こんな汚く嘘くさい世の中で(勿論私も汚い一人)たとえ表舞台に立たなくとも、この世界の何処かに居てくれさえすればよかった。それは私にとっての光明ですらあった。故に彼の死は音楽界のみならず広く世界の損失とも思われた。

有難う、ピーター・グリーン、そして安らかに――。

私は決して忘れない、あなたの素晴らしい音楽を、輝けるその魂を!


上掲写真 フリートウッド・マック期に於けるピーター・グリーン氏の雄姿。彼の精神性まで感じさせるとても良い写真である。一応著作権フリーで公開されているため使ったが、当時の機材でこの様な優れたライブ作品を撮ることは非常に困難な筈のため、名の有る玄人による撮影とも思われる。もし、権利関係で不都合あればご連絡を。真摯な対応を約束したい。



参考動画 ピーター・グリーン在籍時のフリートウッド・マックの1968年から1970年までのコンサートやテレビライブ、プロモーション映像等の集成動画。制限によりこのサイト上では再生されないので、再生ボタンをクリックした後に現れるリンクから直接YouTubeで再生を。公開者は著作権を持たないが、各映像の著作権者の許可は受けているとのことで紹介。

但し、最初の曲等で定番的ブルースを歌うのはスライドギターやピアノ等担当のジェレミー・スペンサー。ピーター・グリーンの歌唱とソロギターは2曲目以降に聴ける。

なお、3人目のギタリストで当時10代だった俊英ダニー・カーワンの演奏や歌も視聴出来る。3者共々実に貴重な記録。今回の訃報で偶然知ったが、カーワン氏も2年前に死去していたとのこと。そこで知ったことによると、病等によりグリーン氏に増して過酷な後半生を過ごしていたらしい。彼も実に才能あふれる人であったのに……。共々冥福を祈りたい。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2020年08月16日

盆末涼漁

滋賀県北西部の山間を流れる、近年漁業権がなくなった清流河川

猛暑盆末に漁と涼を求めて

連日38度前後の猛烈な暑さが続く。

梅雨の長雨で降り尽したかのようにその後殆ど雨もなく方々熱せられたまま。その所為か夜もあまり気温が下がらず逃げ場のない暑さに苛まれる。

先日の8月11日には京都市街で最低気温が29.4度までしか下がらないという、観測史上最も暑い熱帯夜にも見舞われた。

元より昼間は殺人的とさえ形容される暑さと日射があり、普段空調機器を使わないよう心掛けている、または使わないでいられる備えのある私でさえ、それが無いと倒れるのではないか危惧される程であった。

最近、よく耳目に触れるようになった、「実は温暖化で一番被害を受けているのは、いつか沈むかもしれない南の島ではなく、風水害や猛暑等の気象災害が多発している日本ではないか」との話。

氷河期の仕組みすら未解明の状況で、温室効果ガスによる全球的温暖化進行という説には俄に与することは出来ないが、近年の高温化傾向は否めず、この先の状況を心配せざるを得ない。

「涼しい朝の内に夏休みの宿題を」と、その昔よく言われたものだが、昨今の夏は、もはや朝から何事もし難い危険な状況と化している。

さて、盆も最終日となったが、今日も京都市街は38度の炎暑予報であった。既に朝から高温であり、墓参等々で早々に疲労することとなった。

このまま市街にいても、更に暑くなるだけなので、実はこのあと友人の魚獲りに同行することとなっていた。写真は列車や車を乗り継いで到着したその現場。滋賀県北西部の山間河川である。

友人の話によると、最近この区間の漁業権が消失し、全県的な禁漁期間を除き、自由な遊漁活動が可能になったという。今日は、初めてとなるその場所で投網遊漁を試すことにしたのである。

ただ、この猛暑中、今季まだ水浴をしていない私には、山間清流での納涼という、別の期待もあった。


川のなかで投網を投げようとする瞬間。滋賀県西北部・石田川中流にて

コロナ影響で水辺に集まる人々

途中、意外の渋滞や交通量の多さもあり、昼を少々過ぎてからの現地入りとなった。車の車種や鑑札の府県名から、帰省より、ドライブや琵琶湖でのレジャー目的が多いように思われた。

新型肺炎再流行により遠出を控えた家族連れ等が水辺に集中している懸念を伝えるニュース内容は、ここ滋賀にも当てはまっていたようであった。

また、琵琶湖に限らず、途中通過した山間水辺の河原や野営場も満員御礼的大盛況であった。確かにこうなると、屋外でも密集等の危険が生じる。

そういえば、英国等の海外でもキャンプ場に人が集中するという問題が生じ、実際アメリカでは大規模なクラスターも発生したという。ただ、我々が行った場所は、琵琶湖から遠く離れた山間の小河川なので、その影響は殆ど見られぬ、実に長閑なものであった。

現地で漁場を探し、やがて前掲の河原に定めることに。今日狙う鮎が好む適度な流れと深からぬ水深に苔つく石が多い、中々良さげな場所である。

実は、今日は、自由遊漁が解禁されたこの河川区間での初めての投網漁という名目のほか、いつも湖岸や河口・大きな川で獲れていた稚鮎とは異なる、大型の成魚が獲れるかどうか、という試験的目的もあった。

写真は、川に入り、第一投の準備を整える友人。果たして、その結果や如何……。


川のなかで投網を投げた瞬間。滋賀県西北部・石田川中流にて
身体を捩じり、後方から前方へと網を射出


川のなかで投網を投げ、それが着水した瞬間。滋賀県西北部・石田川中流にて
空中で見事網が広がり、狙い通りの場所・範囲に着水。そして、その第一投から漁獲があり、手応えを得たが、残念ながら期待した大物は入らず


投網漁の漁獲。滋賀県西北部・石田川中流にて

大物狙いの結果は

その後も場所を変えつつ色々と試す。網は2つ用意されていたが、今回私は殆ど行わず、専ら魚影探査や網から魚籠(ビク)への魚の移し替え等の補佐を務めた。

山間とはいえ高気温であったが、程よい冷たさを持つ水質の良い川水や水面を渡る風が涼しかった。また、水着を着ていたので、時折深みに身を浸すなどして日頃の暑熱を冷ましたりもした。

肝心の漁獲としては、残念ながら期待した良い型のものは殆ど獲れないという結果に終った。

鮎の魚影は見込通り濃い場所であったが、大きなものが多い訳ではなかったのである。また、全体的に体の細い、つまり痩せたものが目についた。

長さとしては12cm前後が多く、一番大きなもので16cm。つまり、これまでの漁場との違いは見られないものとなったのである。流れや栄養等の関係で身が痩せ、また、先行の釣り人等に獲られてしまったのであろうか。

まあ、自然のこと故致し方あるまい。友人は大変残念そうであったが、私は綺麗な川で涼めたので満足であった。

写真は、クーラーボックスに入れるため袋に移し替えられた今日の漁獲。少ないように見えるが、今日は時間も短く、また数を獲ることが目的ではない試験漁のため、善し悪し計れず。

クーラーに魚を仕舞い、今日の遊漁を終了。離れがたい冷涼の川辺を去り、家路に就いたのである。

なお、友人は、別れ際、特に大きな鮎を選んで魚を分けてくれた。彼の最終目的である鮎の塩焼き(大きな鮎こそ塩焼きに最適で食べがいがある)は、私だけが頂くこととなったのである。感謝!その他色々と有難う。

そして、最後――。

目論み通り、京の炎暑を避け日没後帰宅したら、部屋がとんでもなく暑くて堪らない!(陽射しや外気の遮断対策はしたが空調は入れず)

こうして、折角の清流の涼も、また京の暑さに潰えたのである笑)。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 網会

2020年08月09日

入盆視察

2019年に林野庁の伐採作業に伴う作業道工事で破壊された大文字山中の西谷遺跡と安祥寺川源頭部

盆入り猛暑の裏山鍛錬&視察

8月も半ばに近づいてきた。

盛夏同月の中旬といえば、15日の敗戦記念日と、送り迎えの「盂蘭盆会(うらぼんえ。所謂「お盆」)」が思い起こされる。

盆といえば、全国的・一般的には同13日から始まり16日で終るが、伝統的な京都市域(近世以前からの旧市街)ではそれより早く、7日から10日までが盆入り期間となり、あとは他所と似て、16日の五山送り火を以て終る。

一言でいえば他より期間が長いのであるが、それは偏(ひとえ)に、京盆地の尋常ならざる盛夏の暑さの所為だと例年思わされる。

その暑さ故、最早仕事や勉学等々が儘ならぬ為、開き直って物故者供養を拡大し、休養や親族交流に当てたのではないか、との勘繰りである。

そして、今年も梅雨仕舞いの先月末以降、お約束の暑さが続く。

更に今月4日から市内で35度以上の猛暑気温が観測され、迎え盆後半の今日9日も、同じく36度の予報が出されていたのであった。

一応盆入りとなり、またこんな気候条件、新型肺炎警戒の時期なので、大人しく家に居るべき、とも思えたが、今日もまた裏山は大文字山系に少々出掛けることにした。

実は、昨年行えず、今秋予定していた北アルプス・剱岳(つるぎだけ。標高2999m)登頂の体力鍛錬を行いたかったのと、今年6月に市の文化財保護課担当氏や研究家氏らと踏査した同山系南部の「西谷遺跡(平安初期の遺物散布地)」の再視察をしたいとの思いがあった。

まあ、剱岳の方は、拠点となる山小屋のコロナ休業等々の事情故、実施は難しいので、未練がましいものであったが……。

然りながら、裏山での鍛錬とはいえ、最早無理がかなう暑さではないため(医学的には登山を含む激しい運動を気温31度以上で行うことは危険とされる)、朝出掛け、正午くらいに帰宅する短時間・抑制的なものとした。


上掲写真 昨年林野庁の伐採作業に伴う作業道工事により破壊された西谷遺跡と安祥寺川源頭部。沢筋が重機で削り埋められ、林道化されている。


泥濘化する、安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡を埋めてつくられた林野庁の林道

朝とはいえ、既に30度前後の気温で、登山口までの短い街歩き、登坂も身を焼く道程となりながら山に入る。

そして、京盆地東縁となる東山の稜線を越え1時間程で西谷遺跡に到着した。その前に、前回同様、私が昔遺構に比定し去年遺物を発見して、今年晴れて古代遺跡と認められた山上平坦地付近を観察。

今回は特に新たな発見はなかった。

写真は前掲写真の奥側から逆向きに写したもの。即ち谷下から谷上を見たものであるが、路面がぬかるんでいることが判るであろうか。

水源である谷の源頭部を工事で単純に埋め立てたため、道ながら通行し難い場所と化しており、実際、写真奥に見えるように、歩行者は路肩歩きを余儀なくされている。

谷を埋める不都合は、今年3月に行った林野庁への陳情でも話し、溝切りで対処した旨の回答をもらっていたが、この通りの無施策であった。


林野庁の工事により安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡に生じた水溜まりと水抜き溝
林道泥濘部分の下部には水溜まりがあった。右の斜面に分岐する道により谷が閉塞された為であるが、その路面及び下流に素掘りの溝があった。林野庁が説明した溝切りはこの部分のみの実施であり、山や沢を良く考慮して成されたものではないことが判明した


安祥寺山北の西谷遺跡で見つけた古代の灰釉陶器片

さて、古代遺跡でもあるこの谷地にて観察を行うが、共同踏査の時とは異なり、目についた遺物は写真の物のみ。幅2cm程の小さな陶片で、古代平安期の灰釉陶器の破片であった。

私が発見した遺構で先月見つけ紹介した緑釉陶器と灰釉陶は、色具合により見分けがつき難いとされ、精確な判断には化学分析が必要だが、今回のものは貫入(かんにゅう。釉薬のヒビ)があったためすぐに判断できた。

鉛釉を使い低火度で焼かれる古代の緑釉陶器より、高火度焼成の灰釉陶器の方がそれが起こり易い為である。


安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡を埋めてつくられた林野庁の林道と谷を閉塞するような土塊

西谷遺跡での新たな発見

この様に、西谷遺跡では遺物は殆ど見られなかったが、現地を観察して新たな発見があった。それは遺物が比較的集中して出ている場所に閉塞土塁の痕跡のようなものを見つけたことである。

写真の中央左の土塊がそれで、埋められて林道と化した沢筋右側との接続も窺われた。ひょっとして、この谷の下流にある謎の閉塞遺構と関連するものであろうか。もしくは、この土手の上手に嘗て造成平坦地があり、その後浸食で下端の土留め部のみが残存した名残りであろうか……。

西谷遺跡は建屋跡が想定できない谷奥ながら平安前期の瓦や陶片等の遺物が数多く発見された謎の散布遺構である。今日の発見はこの謎に手掛りを与えるものとなるかもしれないが、尚更破壊を受けたことが悔やまれる。

そういえば、ここへの途中の古道破壊箇所に対して施された丸太階段に、ハイカーによるものと想われる礼を記した紙が貼られていたが、本来はそれより遥かに大きな損失を受けたことに皆着目してもらいたいと思う。勿論、人の配慮に対する純粋な気持ちを否定するものではないが……。

因みに、当初切りっぱなしであった古道への対策は、林野庁での陳情の際に私が依頼したもの。これまで通れた道が突然分断されていると怪我や遭難のもとになると意見した際、逆に対策を問われ階段等の誘導装置の設置を提案したのである(本来は切られた尾根等に丸木橋を渡して欲しかったが、作業規模が大きいことと既に工事が終っていたため言いそびれた)。


安祥寺川源頭及び大文字山西谷遺跡下端の斜面下部で拾った古い漆喰か瓦片とみられるもの
西谷遺跡下方で見つけた古い人造物破片。古い漆喰片かと思ったが、湾曲が見られたので、古代の瓦である可能性もある。ただ、布目等の決め手が無いため詳細は不明。工事破壊面より上にあったので、横の山上から落下してきた可能性がある。実はその山上も私が密かに遺跡であることを疑っている場所であった。但し、個別の遺構としては認識されていないが、一応如意寺遺跡の範囲内なので、急な破壊等の心配は少ない場所であった。


五山送り火の火床から見た火床の一部と京都市街

西谷遺跡を視察後、また稜線に登り返す。樹間から市街が望める山上は風もあり涼しかった。そこで休息兼ねて、山科北部安朱(あんしゅ)の知己Wさんに電話し、安朱の小字(こあざ)調査への協力を依頼した。それは、未だその跡が確定していない安祥寺下寺調査の下調べの為であった。

コロナ軽視に似非送り火、一般入山危うし!

休息後、また大文字山山頂を経て下山した。写真はその途上にある五山送り火の火床から見た火床の一部と京都市街。

既に広く知られている通り、今月16日の送り火は新型肺炎の影響により大幅に規模を縮小して行われるという。残念だが、致し方あるまい。

そして、山上や登山道で感染未対策の人が多いことは前回同様だが、これは仕方ないでは済まされない。

以前も記したが、大文字保存会はこのことを大変憂慮しており、また先日あろうことか、大がかりな照明仕掛けを以て勝手に「大」字の送り火が再現される事件があったため、更に危機感を煽る状況となった。

火床を含む大文字登山道の大半は保存会の私有地という。これまで好意で出入りさせてもらえたこの道が近々封鎖される危険も出てきたのである。

皆さん、くれぐれも横着・非礼はされませぬよう……。

さて、予定通り、正午頃には帰宅することが出来た。街は、予報通りの堪らぬ暑さの巷と化しつつあった。

今日の半日山行は、盛夏・運動での疲労に加え、様々な問題も見えたが、新たな発見もあるなど、まあ有意義に終えることが出来た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究

2020年08月03日

甜瓜払暑

床の間上の胡桃盆の上に置かれた訓子府メロン

北地より緑宝来る

先月下旬、北海度の親類から実家に寄った際に送った荷物が届いているか確認して欲しいとの連絡があった。

そして、その週末立ち寄った際、佛前に置かれたその到着を確認。それは、大きく立派な甜瓜(てんか。メロン)であった。ちょうど届いて間もない頃で、冷蔵配送に因り盛大に水滴が生じていたので、箱から出して丁寧に拭き、乾燥促すよう供え直した。

この時機で立ち寄れて良かった。この暑さのなか、家人の無知ぞんざいな扱いでは、忽ち黴だらけとなるところであった(笑)。

親類によると、普段出回らない良品が手頃な値で出ていたので、すぐに押さえ、中元がてら送ったのだという。これも、コロナ不況の影響か。

まあ、それでも、遥か遠方(国内とはいえ直線距離は北朝鮮北端より隔たる)からの特殊送料を含め、高額な出費となったことは否めまい。一応、私の食べる分も含んでいるとのことで、荷物の到着と共に、礼を伝えた。

そして先週末、甜瓜が熟れてきたので、その一玉もらい受け、頃合いをみた今日、頂くこととした。


上掲写真 追熟のため数日床の間に置かれた甜瓜。大きく立派なもので、その形状も工芸品の如き端正さと完成度を有している。宮崎檬果(マンゴー)等と同じく、我が国の高級果実には、生物とはいえ、日本人のものづくりの特徴が良く表れていると感じる。それは、木工や漆工・金工等の伝統工芸に通じる、抜かりなさや執念の如きが感じられることである。


蔓が枯れ食べごろとなった訓子府メロン上部と生産・品種ラベル
程よく枯れた蔓が食べごろを報せる甜瓜上部。北海度を模った絵のあるシールには、産地の訓子府(くんねっぷ)の名や生産者さんの氏名(個人情報保護のため画像処理済)等が記されていた

道内著名の名産地「訓子府」

訓子府は北海道東部の主要都市・北見西郊にある地区で、寒暖差の大きい内陸立地を活かした各種甜瓜づくりで知られている。夕張や富良野に比して知名度は高くないが、道内では贈答品として知られた存在だという。

そして、品質共々、その味も著名産地に劣らず、私も以前青肉種をもらった際、美味しさに感銘を受けたものである。


食べごろを狙い切り分けた赤肉の訓子府メロン
食べごろを狙い切り分けた赤肉の訓子府メロン

美味賞玩と暑気払い両用

果たして、宵口に食す今回の甜瓜の味は如何なものか。写真は3時間程野菜庫で冷やして切り分けた、その甜瓜。見ての通り、今回は赤肉である。

写真では解り辛いが、その色味や香りも素晴らしく、そして味も期待以上の美味しさであった。実は昨日切ろうかと思っていたが、一寸硬さがあったので延ばしたが、正解であった。また、井戸水くらいの冷却を狙った、冷えすぎない冷蔵準備も功を奏したと思われる。

ところで、個人的な思い込みかもしれないが、瓜類を食べると身体の熱が下がる気がする。昔、盛夏の沙漠の街に長く滞在していた時、夕方屋台で切り売りのそれらを買って、涼んでいたことを思い出した。

とまれ、今回のものは大玉で肉量もあるので、残りをしっかり保存し、1年で最も暑いここ数日の暑気払い両用で楽しませてもらおうと思う。

親類・生産者さん共々、美味しく、涼しい贈物を有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記

2020年08月02日

暑中要務

安祥寺山北尾根遺構の側面を破壊して通された林道とその崖面崩落箇所

猛暑押し山上へ

漸く梅雨が明けた後の、最初の日曜――。

長雨と引き換えに、予報通りの酷暑がやってきた。

コロナ再拡大のこともあり、本来ならうちで静かにすべきとも思ったが、裏山奥の大文字山(如意ケ嶽)山系で発見した古代遺跡や遺物への豪雨影響が気になり、耐暑鍛錬を兼ねて出かけることにした。

今日も最高気温が猛暑日に近い予報だったので、涼しい内に向かうつもりだったが、色々と都合が悪く、結局午前遅くの出発となった。

一応午前中ながら、山際でも既に気温30度の超過が感じられ、また陽射しも強烈であった。因って、登山口に着く前に早くも暑さに疲れる。

そして、山路の木陰に入っても登坂の労と併せて身体の熱も増し、山上に出る頃には気分の悪さを感じる程となった。本来は斯様の日に「激しい運動」とされる山行をすべきではなく、実際、前回あれほど多かったハイカーも激減していた。

私は比較的短時間・短距離の鍛錬という名目と、水分の備えを厚くして臨んだが、やはり無理は禁物との思いを強くした。これも、今後想定される山での暑さ対策の一環ではあるのだが……。

実は、去年久々に北アルプスに行ったが、秋にも拘わらず、2度の山行(立山槍ヶ岳)何れも高山にあるまじき暑さを感じたという影響もあった。

さて、暑さに喘ぎ1時間程で達した山上は写真の通り。去年遺構の一部を壊して通された林道の崖面崩落が見られたが(画像中央左)、その他はあまり変わりは無さそうであった。ただ、見ての通りの切りっぱなし状態なので、今後の崩落等が案じられる。

そして、前回発見した主な遺物の残存を確認し、その内の一部を回収した。実は、事前に市の文化財保護の担当氏と協議し、近々破損や喪失の恐れある稀少遺物を代理回収し、後日引き渡すことになっていたのである。

これは、あくまでも緊急的措置なので、くれぐれも遺物の持ち帰りはされぬよう……。小さく、地味な存在ながら、窃盗や文化財保護法違反に問われる危険もある。

とはいえ、預かる私も責任重大。先ずは現地で遺物に付く土を乾かし軽く除去し、その後破損せぬよう慎重に梱包を施したのであった。

貴重な遺物の無事に安堵し、その後また周囲を見回し新たな発見を試みるも、無し。そして、下山の途に就いたのである。


大文字の火床からみた京都市街北部
大文字山中腹に開けた「五山送り火」の火床最上部からみた京都市街北部。晴れ間と雲影が混在していおり、恰も今の社会情勢を想わせる

最後にまたも……

山上の尾根道を進み、下山経由地の大文字山山頂(標高465m)を目指す。稜線とはいえ、低山故に樹々に恵まれた木陰の回廊的自然路。渡りゆく風も心地よく、猛暑の巷と化しているであろう下界に戻るのが嫌になる。

大文字山山頂では前回よりかなり減ったものの、多くのハイカーをみた。その多くが何ら感染対策をとっていないこともまた同様で、山上での密集・大声昼食会がたけなわだったのも、また同じであった。

あと気になったのは華人系外国人が山上や麓で見られたこと。留学組と思しき一団もあったが、明らかに俄来訪らしき観光客もいた。前者はともかく、後者はどうして入境したのであろうか。とまれ、両者共誰もマスク一つの対策もなく、人の近くで大声を連発する者さえいた。

京都での新型肺炎感染も日々2桁となり、また市中感染が始まった観があるが、この様に危機感のない者が多い。というか、そもそも「お願い」ばかりに頼って抑え込める訳もなく、実際その通りになった。

別に難しい話ではなかった筈。適所に簡単な規制をかけていれば、こんな二度手間・再難儀は生じなかったのではないか。始めの怪我への対応や費用(または政治責任)を出し惜しみ、結果重篤化し、莫大な出費・損害を強いられるが如き愚行となるような気がしてならない。

国策事業「なんやらトラベル」で京都に来る人も、くれぐれも油断なきよう……。

しかし、このままでは、いつまだっても状況が改善せず、迷惑千万の死活問題である。早くなんとかしてもらいたいものである。

と、また最後にコロナの愚痴が出たが、真面目・善良な読者諸氏には、平にご容赦をお願いしたい!

なお、貴重な回収遺物は引き渡しまでのあいだ観覧可能なので、興味ある人は早めに連絡を……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究