2024年09月29日
'24奥黒部行(四分之四)
山行最終日。先ずは登頂から
奥黒部行4日目。
山行は今日が最終日となる。昨晩は、日没後も暫く談話した女子組や他の登山者同様、20時頃に天幕内の寝床に入ったが、意外に長く寝られた。
高地の夜に身体が慣れてきたか、はたまた連日の重荷行に疲れてきたのか……。まあ、寝たように感じただけかもしれないが、起床の3時半になっても調子が良かったので、良しとしよう。
日出前の暗中、天幕内で朝食等の準備をし、4時半過ぎに天幕を片した。本来は暗中の撤収や行動を避けていたが、今日は12時間行動の予定で、中途日没の危険もあったので仕方なし。
上掲写真 珍しく(というか仕方なく)早朝登頂に挑んだ黒部五郎岳の圏谷内の岩。石灰岩のように見えるが、地質図では火成系の斑糲岩(はんれいがん)か閃緑岩(せんりょくがん)という。右背後に見えるのは奥黒部一の高峰・水晶岳(黒岳。標高2986m)。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
朝5時前の黒部五郎小舎。山小屋の朝は早い。その窓内には既に活発な人の動きが見え、玄関前には出発準備をする人、また既に五郎岳に向かい出発した人の照明が暗中に続いていた
今朝は珍しく予定の5時、正確にはその1分前に出発出来た(笑)。これも最終日の緊張感、または時間行程的に後がない危機感の所為か。先行者と同じく頭灯を点してすぐに登坂となる道を進むが、この様に、程なく薄明るくなってきた。岩の多い道に、高山特有の遭難防止用の円印が続く(中央)
更に進むとまた明るくなり、見上げる先に山頂が見えてきた(中央)。ただ、時間・距離的にまだ遠い筈。電灯をしまい、また進む
圏谷と岩の殿堂へ
足下がはっきりしてきた登山道を独り無心に登る。すると、やがて山頂直下の著名な圏谷が、写真の如く現れた。
そして圏谷内の横断に入る。岩だらけの、広いクレーター底をゆくが如し。しかし、空模様が少々怪しい。実は、昨晩小屋の予報で今日15時から雨が降ると知ったので、その懸念や先を急ぎたい気持ちがあった
圏谷横断中、突如背後が明るくなった。雲間からの日の出である。左に見える岩は有名な雷岩か
日の出により、前方に聳える黒部五郎の主峰塊も朝日に照らされ忽ち明るくなった。何やら、劍(つるぎ)に似た雰囲気。同じく、岩の殿堂と呼ぶに相応しい雄々しい姿である
圏谷横断の先には、その縁に続く急登のつづら道が現れた(中央右の岩上から斜め左に稜線へ上る筋)。少し気が重くなるが、急に天気が良くなってきたのは幸いであった
黒部五郎岳山頂に続く枝道からみた縦走路峠の「肩」部分(中央)
五郎岳肩での再会と好天の山頂
予想通りキツく、そして落石も案じた圏谷縁の急斜を登りきり山頂横の肩部分(縦走路峠)に出た。標高は2760m超、夜露に濡れた天幕類が重い!
ここから山頂までは高さ70m程の緩やかな枝道登りのみなので、他の人同様、荷を置き身軽に往復することにした。そこでは私より早く出発していた女子組とも再会。挨拶し、互いに撮影協力をするなどした。
ただ、彼女らはここで満足し山頂には行かないため、暫く話したのち別れた。それも個人の好み、スタイルであろう。ここまでくれば、もはや山頂と雰囲気や景色は然程変わるまい。
肩の岩陰に重荷を置き、記録用GPSが作動中の電話と撮影機材のみ持って山頂に至る。奇跡的?に天候が良くなり本当に良かった。薬師岳再失敗が最後に報われた気分である。いずれ登るつもりの「気になる山」、笠ヶ岳(右奥の鋭角峰。標高2897m)等の周辺景も申し分ないものであった
そして眼下には先程横断した名物的圏谷の全貌も。雲ノ平周辺に残る火口でも隕石孔でもない、その名の通り、日本では珍しい氷河浸食による地形であった
また、山頂北方には山行初日に接した薬師岳(左向こうの山体)に、その右奥の立山連峰等も見えた。あたかも、初日の好天に戻った気分である
更に、山頂西南には霊峰・白山も(中央奥)。雲海に浮かぶ姿だったが、これも初日同様であった
長大かつ雄大な主稜線歩き
到着後すぐに先行者が去り独占状態だった黒部五郎山頂から、荷を置く肩へ下り戻る。そこにて少々行動食を摂り、また先へ進んだ。
次の目標は、薬師岳手前の主稜線上では最高所となる北ノ俣岳山頂である(写真中央最上部)。肩から見たそこへの道程は、なだらかであり、また長大かつ雄大に感じられた。
黒部五郎山頂の肩から西北に続く稜線をひたに下る。稜線上のとある鞍部に達し、また登りとなって暫く、後ろを振り返ると、はや遠くなった五郎岳の肩やその隣に突き出た山頂が見えた。黒部深部も遠くになりにけり――。少々そんな感慨を覚えた
黒部五郎・北ノ俣間の稜線上から見えた(撮影は望遠)黒部源流谷とその左の雲ノ平や背後のワリモ岳に鷲羽岳、右の三俣蓮華岳等の奥黒部の高地
同じく稜線上から見えた雲ノ平とその背後の水晶岳(中央最奥、左の峰)
続く稜線上の再会
途中、稜線上の最低鞍部・中俣乗越(なかまた・のっこし。標高2450m)を越え、標高2622mの赤木岳に至る。
その手前では、高天原で交流した夫妻組と二日ぶりに再会。彼らは私と逆方向から黒部五郎を目指したので、この区間ですれ違うことは双方承知であった。挨拶し、暫し語らう。夫氏はビールの飲みすぎで腫れた顔を、黒眼鏡を外して自虐的に見せ、和みを供してくれた。
そして、赤木岳では休息中(お菓子タイム?)の女子組に追いつき、また少し交流。私はそこで休まず、少し先の駐車場への分岐に近い北ノ俣岳山頂で昼食予定だったので、更に進んだ。今度は私が追いつかれる予定のため、お別れは暫しお預けで……。
やがて北ノ俣岳山頂着。時間は10時だが、休憩する先行者が多く、また風が強く寒かったので、撮影のみし、もう少し進むことにした
北ノ俣岳山頂北にある神岡新道分岐前の木道と奥黒部の山々
さらば有縁の人、そして奥黒部
そして、結局少し進んだ分岐で休むことにした。風はあったがマシで、またこれ以上進んで(下って)も結局ここに戻らねばならぬので決定した。
ハイマツ際に荷を下ろし、独り彼方の奥黒部全景を眺めつつ、今回の山行最後の簡易手作りバーガーと即席珈琲で早めの昼食を済ませた。
これから奥黒部の外輪的な主稜線を逸れ、外側に下るので、黒部深部の山々は見納めとなる。よって、今一度名残りの観望を行う。先ずは今来た黒部五郎岳方面を見る。朝は天気が良かったのに、山頂ははや雲に覆われている。これから登る人は気の毒だが、やはり高山は朝登る方が良いのか
こちらは初日目指した薬師岳(中央)方面。曇天ながら山頂は見えている。この4日間の山行でこれら奥黒部の山谷をぐるりと周ることが出来た。雨にも遭わず有難い限り。午後からが心配だが、まあ後は下るだけ……
名残りの観望をし、撮影等を行っていると、女子組が現れた。このまま稜線を進み、富山・折立へ下る彼女らとはここで本当のお別れとなる。
地元の山への勧誘を受けるなどして名残りの交流となり、そして最後は、何度も接した縁の記念に、集合撮影も頼まれた。思い出の、高天原縁の水晶岳を背に。
さらば有縁の人、さらば奥黒部。またいつの日か……。
雲迫る下山
女子組と別れ、荷をまとめて独り下山路に入る。分岐から50m程進んだ写真の下降始点からは、麓に押し寄せる厚い雲が見えた。
見えているのは寺地山等の標高2000m以上の場所のみ――。
まずい、予報に反し、寺地山から先の尾根は既に雨に降られているのではないか。長い泥道の悪化を憂い、またその手前にある転倒必至の木道濡れを恐れた。
ハイマツの中の急斜道を急ぎ下り、湿原帯の下りに入ると、進む先の寺地山後方尾根の雲が晴れてきた。助かった、どうやらまだ雨は降っていないようである。まだ油断出来ないが、少なくとも直近の木道歩きは乾燥状態で遣り過せそうである。そして、その通り木道を通過して湿原を下りきると、避難小屋分岐の傍で今日最後の休息をとった
ところが、寺地山からの尾根道に入ると、また雲が迫ってきた。予報の15時よりまだ早い時間だったが、今度こそ危ういか
背後・最後の一撃?
長く足下の悪い樹林の尾根道を進むが、往路より水気が減じて歩き易い。どうやら、あれから雨が降らず、乾燥が進んだようである。ただ、いつも滑りやすい特有の堆積岩のような石には最後まで気を遣わされた。
登り返しが多い道に疲れてきたが、雨のことや元来腰掛ける場所もないため我慢して進む。すると、後方から喧しい鈴の音と足音が接近してきた。
主稜線から下る時少し間を置き1人追ってきたが、その人物が尾根道以降走り始めたらしい。そのまま横を通過してもらおうとしたら、後ろから挨拶され、話しかけられた。30代前後の女性で、何時山に入ったのかと訊く。私が木曜(9/26)からだと言うと、「おおっ、一周」と返してきた。
彼女自身は、私と同じ起点から薬師と黒部五郎を1泊の野営で踏んできたらしい。中々の快速である。背嚢は野営装備に見えぬ小振りだったが、最新の軽量化がされているのか。
ところで、彼女の話ぶりが気になり、ずばり大陸語で出身を訊くと、まさに広西の人であった。私も訊かれたので、地元(広く日本人の意)と答えたが、こんな奥山でいきなり母語を返されたので、驚いた様子であった。
容姿的に南方民族(壮族?)のようにも見えた彼女は、身の熟し等から長く日本に住む人と思われた。その後、互いに無事を述べ合い、別れる。分岐から独行し対向者もいなかったので、野獣を警戒していたが、喧しくも軽快に走り去った彼女が露払いしてくれたようで気が楽になった。
しかし、私も少々驚かされた。外人で喧しい京都から奥山に来て漸くそれから逃れたのに最後に捕捉された気分に(笑)。コロナ以降、諸費高騰のせいか高山で外人を見なくなったが、こんなマニアックな登山に参入している人(しかも女性)がいるとは、正に背後かつ最後の一撃であった(笑)。
下山。麓の余韻楽しみ帰路へ
下りの筈なのにやたら登り返しが多く、いい加減怒りさえ覚える尾根道を進むこと2時間強。漸く出発地で終着地の飛越トンネル駐車場に到着した。
時間は14時45分。急いだせいか、予定より2時間以上も早く到着できた。また、結局雨にもやられず、幸いであった。ただ、休憩を省いたため、背嚢の固定帯が当る肩や腰、そして下りで圧迫される足の指から血が滲んだ。
これは今後の課題を明らかにした。今回は歩行距離60km弱、登坂累計5000m弱に達したが、猛暑での歩行鍛錬の所為か、体力的には問題なかった。それより荷の重量や装備の適合・用法に問題あることが判明した。これらは、山行の安全と楽しさのため、早急に改善せねばなるまい。
さて、来た時より車が減った駐車場で着替え等の準備をして一先ず車行で麓集落まで下る。駐車場はまだ伊吹山頂を凌ぐ高所にあり、携帯電波も届かない奥山のためである。
昨年の事故の反省から今日はどこかで充分寝て帰る予定であった。一旦電波がある集落まで行って下山連絡を済ませ、以前から気になっていた食堂で地元産獣肉料理を食す(ここもまだ標高900m程の奥山集落)。大変美味しく、かつ良心的な価格であった。ここでも、またお店の人と交流。
やはり、急いで帰らず麓の余韻を楽しむのは良いことである。山や土地へのより深い理解にも繋がるだろう。そして、飛騨山脈及びその麓集落と別れ、土産購入や入浴のため、更なる下界へと向かった。
山よ、人よ、有難う!
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」3日目の記事はこちら。
2024年09月28日
'24奥黒部行(四分之三)
黒部源流経て五郎岳麓へ
奥黒部行3日目。
日本最奥温泉最寄りの高天原山荘では、寝られないとの思いに反し、意外とすぐに寝ることが出来た。前泊の車中泊を含め、数日振りにちゃんとした布団や毛布ある環境だったからか。
ただ、熟睡したのは消灯の20時から22時までの2時間のみで、そのあとは結局寝られず、外で星を観たり、布団でじっとしていたりした。
それには一晩中続いた同房者の鼾の問題もあった。皆疲れているので、お互い様のことだが、一晩中は異常。周りの迷惑になることは無論、自身も寝ていない筈なので、激しい運動である高所登山に来るのは危険である。無呼吸症候群の可能性もあるので、まずは診察を受けるべきだろう。
さて、狸寝入りを続けていても仕方ないので、早発の人らが準備を始める4時頃に布団を出て、山荘前の露台で月を眺めるなどする。今日は行程や時間に余裕があるので、朝はゆっくりすることにしていた。
外はまだ真っ暗だが、三日月と逆向きの月が出ていて少し趣があった。写真は露出の関係で満月のようになっているが……。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
小屋前の卓で顔見知りとなった他客と話したりしていると、空が明るんできた。しかし雲が多い。右奥の水晶岳山頂にも不穏な雲が載っている。前夜受付と小屋本部の太郎平小屋との無線連絡を聞いていたが、今日から降雨確率が増すとの予報だったため心配となった。とまれ湯を沸かして珈琲を飲み、朝食を食した。小屋食も5時から始まっていた
高天原山荘二階客室(大部屋)。大多数を占める小屋食の人達より早く朝食が済んだので空いた部屋での準備となった。外は明るくなったが、階段前に一晩中ランプが灯されていたのは有難かった
小屋泊と小屋の存在見直す
今回自分が泊った大部屋は満室のようだったが、二人分の区画を使えたため荷物置場等が確保でき快適であった。
コロナ禍以降の標準かもしれないが、これなら経費上昇分を含め倍額以上の値上げは腑に落ちる。また雲ノ平山荘同様、近年建替えられており、美麗な空間や生分解式水洗便所等の設備を考えると更に不満は減じた。
コロナ禍を機に、これまでの詰込みで安かろうから、質の時代へと舵をきったのであろうか。ここには野営場がないため仕方なく泊ったが、結果、小屋泊や小屋そのものの存在を見直すことが出来た。
高天原から岩苔乗越へと続く亜高山帯植生に満ちた樹林道
朝7時に高天原を出る予定を前夜6時に早めたが、結局出たのは昨日と同じ6時20分過ぎ。起床してからあれだけ時間があったのに何故そうなったのか定かでないが、それだけ去り難かったのか(笑)。
とまれ今日の目的地・黒部五郎小舎目指して進む。昨日来た道を辿り、渡渉前の分岐から岩苔乗越(いわごけ・のっこし。峠)への道を進んだ。
そこは初め通る道で、3年前に乗越上から見て以来通りたかった、沢伝いの森の道であった。
秘境景勝地「水晶池」
分岐から足下が湿地的な樹林を進むが、暫くすると急斜を巻きつつ登る道となった。そして、それを登りきると植生が変化し明るい樹林となったが、同時に水晶池への分岐が現れた。
地図を見ると高さで2、30m下降しなければならないが、折角なので、というか、湖沼好きなので(ただし天然のものに限る)、行くことにした。
枝道を下降して辿り着いたのは写真の水辺。水晶岳の中腹、標高約2293mにある湿地である。今月初めには水が無かったとの情報があり懸念していたが、その後の雨で回復したようであった。
噂通りの秘境景勝地。紅黄葉が進んでいれば更に良かっただろうが、まあ仕方なし。また次回の楽しみとしよう。
自分以外、人も鳥獣もいない静かな水晶池畔で少し休息し、また乗越への本道に戻り先へ進む。然程急ではない効率の良い巻道である。そして、周囲は、この様に唐松やシラビソ等の高木が失せたダケカンバ等の低木の林となった。それらの、根が曲がった姿に、冬の豪雪を想わされた
やがて、谷上部の森林限界に達し、一気に視界が開ける。眼前には向かう乗越(のっこし。中央右奥)がある稜線も現れた。あと一息のようだが、この区間の行程中あと1/3程の距離と約300m程の登りが待っていた
標高2500m近くまで上がってきたためか、谷の対岸にはこの様な黄葉が見られた。今回の山行で最もな色づき。北向きの谷なので進行が早いのか
更に谷を詰めると渡渉箇所が現れた。これは最後のものだが、この前にも同様というか、より水量の多い沢があった。森林のない稜線近くにもかかわらず水が豊富なことに驚く。さすがは日本有数の水源地・黒部。因みに、この流れも下流20km程で黒部湖(黒四ダム)に入る。つまり、ここも黒部源流の一つであった
沢水が失せ、傾斜がきつくなると乗越付近の様子が明らかになった。変わらず背嚢の荷が重いが、あと少しの辛抱
雲ノ平付根かつ黒部源頭の地「岩苔乗越」
そして、岩苔乗越着。標高約2730mで、雲ノ平の付根に当る鞍部だが、それより高く、かの白山主峰も凌ぐ高所であった。
高天原からちょうど標準時間の3時間かかったが、途中寄った水晶池往復30分を含むので、先ずまず進行であった。
到着直前に、乗越が通例とは異なり最低鞍部になかったのを訝ったが、向こう側の黒部本流谷の道との接続関係に因ることを知った。
そして、これまで誰とも会わず。だが、岩苔小谷の道は高度差大きい長程にもかかわらず、歩きやすく、また湿原から樹林・湖沼・源頭までを含む、北アルプスの魅力を凝縮したような道程で、よかった。
岩苔乗越から見た、来し方の岩苔小谷と彼方の薬師岳や右隣の水晶岳。高天原も今や遥か下方である
こちらは同じく岩苔乗越から見た、これより進む先の黒部本流谷。奥に聳えるのは3年前に登った三俣蓮華岳(標高2841m)で、左斜面は同じくワリモ岳(同2888m)や鷲羽岳(同2924m)、右斜面は祖父岳(じいだけ。同2825m)や雲ノ平の端面である。黒部本流は蓮華岳下を右へ折れて雲ノ平の裾を周りつつ、やがて流れを北へ変える。なお、ここからは今日の目的地付近の黒部五郎岳(同2839m)はまだ見えない
黒部本流最奥を下る
岩苔乗越で少し休んだあと、黒部本流側の谷道を下る。こちらも、下部の渡渉地点までは今回初めてゆく道程で、楽しみであった。
そして、下り始めて暫くすると「水場」と記された写真の小標が現れた。流れが生じ始めた沢への誘導で、行ってみると、確かに水が汲めるほどの流れがあった。これぞ、最奥の黒部源流水か。
この水は、ここから100km近い距離を流下して日本海は富山湾に注ぐ。
黒部最奥谷の道を更に下ると沢水も増え、確かな流れとなってきた。かなりの高所にもかかわらず、南向きの谷の所為か、紅・黄葉は見られず
見晴らし良い谷なかをひたに下ると、やがて三俣と雲ノ平を結ぶ道の渡渉場が現れた。写真では見難いが、そこで釣りをしている男性も見えた
渡渉場近くの黒部源流碑付近から見た蓮華岳山腹の黄葉。渡渉場から先は3年前に通った道で、その際もここの黄葉に感心したが、今回はまだ早い感じであった
三俣・五郎間の巻道へ
標高約2400mの黒部源流碑から支流谷に進み、高さ150m程の樹林斜面を上がり、ハイマツ覆う広くなだらかな場所に出る。鷲羽岳と蓮華岳間の稜線地帯である。
そして、そこにある写真の三俣山荘に到着。標高は約2550m。ちょうど昼前のため、小屋前で昼食休憩をとるつもりであった。小屋向こうに、頂部に少し雲ある美麗な鷲羽岳が出迎えた。
高天原を暗い内に出て雲ノ平経由で五郎小舎に向かう同宿の女子組に、ここでまた会いましょうと告げられていたが、先に行ったのか、まだなのか、その姿はなかった。
昼食後、三俣山荘から三俣蓮華岳方向へと進み、野営場上部にある分岐(中央の標識)から黒部五郎への巻道に入る。ここからの道も今回が初めて。昨日会った逆向きにここを通過した兄さんによると、巻道と言いながら上下が大きく、楽ではないとのことだったが、如何か。ただ、時間・行程的にはこの区間が今日最後の道程だったので比較的気楽に進んだ。あとは天幕設営まで天気がもってくれるのみ!
黒部五郎への巻道は分岐から登りが続く。先程居た三俣山荘が忽ち下方に、そして小さくなり、鷲羽岳の雄壮・優美な全容を目にできた。確かに乗っけから本来的な巻道ではないが、地形図をみると、険崖を避け、なるべく直線的な連絡を指向した、有難い道であった
そして、巻道のちょうど中間で最高所の標高約2700m地点に達する。そこは、奥に見える三俣蓮華岳山頂から続く支尾根端部の広い石原となっていた。あとで画像を拡大して気づいたが、山頂に人が二人おり、こちらに手を振る姿が写っていた。気づかずに無視してしまった。申し訳ない限り
同じく巻道最高所から見た、午前通過した岩苔乗越下に続く黒部最源流谷
同じく巻道対面には雲ノ平(左端から中央に広がる台地)や、その地学的産みの親である祖父岳(右手前の峰)も見えた
黒部五郎への巻道最高所を過ぎると下りとなり、やがて山腹に続く道の果てに稜線との交点が見えた。画像では判り難いが稜線中央下に斜めに上がる道がある。巻道の終焉だが、これで今日の最終区間が終りになる訳ではなく、その後は稜線道となる。その距離はこれまでと同じ。即ち、まだ半分しか進んでいない。愈々天気が怪しくなり、吹き曝しの稜線を案じる
稜線は始めこそ狭かったが、その後緩やかな奥黒部らしい道となった。標高2650m前後の高所を進むが、特に寒さはなし。眼の前に迫っている筈の黒部五郎岳は濃いガスのため一向に見えなかったが、稜線道後半で急にそれが晴れ、姿を見せ始めた(中央奥)
そして、最後の急斜の下降に入ると、山頂直下の著名な圏谷(カール)と共に黒部五郎がはっきりとその山体を現した。また同時に、今日最終目的地で野営地である黒部五郎小舎の赤い屋根も確認できた(中央下)
五郎岳麓での語らいと夕照
やがて、予想外に長くキツい下降路を下りきり、黒部五郎麓の五郎小舎に到達。標高は2350m。三俣山荘から2時間強の歩行で、14時過ぎの到着であった。予定より早く、また、雨に降られずに来られてよかった。
三俣山荘以上の奥地にもかかわらず、意外と賑わう小屋にて早速手続きを行い、天幕設営や身拭い・着替え等を済ませた。
先ずは即席だが珈琲を沸かして一服。その後、今回の山行最終泊のため、また、昨晩湯当たりで飲めなかったため、記念的にビールを買って飲む。
補給困難な地にもよらず何故か他の小屋より200円安い600円だったが、沢水冷やしの所為か製造から日が経っていた所為か、味は良くなかった。
黒部五郎小舎から見た野営場(中央奥)。かなり遠くに感じるが実際は近い。幅広い鞍部の端にあるため当初は風と寒さを心配したが、問題なかった。元より例年より気温が高めということもあっただろうが……
ところで、三俣山荘で会えなかった女子組もこの小屋泊予定だったが姿が見えない。少々心配したが、夕方聞き覚えのある熊鈴の音と共に急斜の森から現れ、安堵出来た。
やはり暗中の雲ノ平への登り等が大変で、時間がかかったとのこと。彼女らは小屋泊だったが(元来テン泊装備だが途中で宗旨替えしたらしい。笑)、小屋前の卓で語らうこととなった。その後、夕食で一旦解散したが、食後また合流し、就寝まで語らった。
曇天だったにもかかわらず、18時前には素晴らしい夕焼けも現れ、小屋泊や野営の人達を喜ばせる。特に、複雑に雲を被った薬師岳の姿が印象的であった(右奥)。撮影しつつ、持参洋酒の湯割りを飲みつつ楽しむ
黒部五郎小舎前から見えた、残照に浮かぶ黒部五郎岳山頂(中央)
最終日の明日は、五郎岳への登頂から始め、その後長い主稜線歩きを楽しみ出発地に戻る予定であった。昨日同様、日没後も寒くない小屋前で、同じく明日下山する女子組と語らい過ごし、日を終えたのである。
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」4日目の記事はこちら。
2024年09月27日
'24奥黒部行(四分之二)
迂遠の道へ
奥黒部周回行2日目。
今日は前夜野営した薬師峠のテント場から一旦黒部川上流渓谷に下って対岸の雲ノ平に登り、その北方の高天原にまた下る予定であった。
本来なら標高の高い雲ノ平に上らずに済む渓谷からの巻道を選べるが、荒れ気味との情報があり、また雲ノ平山荘の人に以前受けた便宜のお礼をせんと、敢て長く負荷高いこの迂遠路を選んだ。
上掲写真 薬師峠の野営場を出て暫くして見えた今日最初の目的地・雲ノ平(中央奥の台地)。これから手前の薬師沢に急下降して遠路その麓の黒部本流まで進み、その後急峻な台地端を登ってその上面に達する。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
朝6時20分に野営場を出る。予定は6時だったが、また遅くなった。少し進んで振り返ると薬師岳の雄姿が。天気は曇りだが、その山頂(右端の白峰の左後ろの頂)ははっきりと見え、穏やかそうであった。時間があれば今難なく登れたと思うが、まあ仕方なし。またの楽しみに……
太郎平小屋の後ろにある分岐を来た道とは異なる左(東)に入り、急下降の道が始まる。なだらかな太郎兵衛平端面の下りである
急下降を経て沢筋に降りると、このような支流沢を渡る橋が幾つも現れる。鉄骨のもののあり、木柱のものもあった
黒部川本流と薬師沢小屋
沢沿いの道はかなりの高所を高巻く道があるなど予想外に多様であった。
最後に広い湿地に出たかと思えば、端部から細尾根の下降となり、写真の如く、その崖下に漸く澄んだ碧水を湛えた黒部本流が見えた。
そして、薬師沢小屋に下り着く。標高は1912m。同2350mの太郎兵衛平からの下降であった。下端に小屋がある細尾根は薬師沢と黒部本流の分岐・合流点となっていた
黒部本流に架かる薬師沢小屋前の吊り橋。足場が細く、乗ると揺れるので、苦手な人はここで進めなくなるかもしれない。それにしても、河水が別格的に美麗だ
溶岩台地・雲ノ平へ
さて、薬師沢小屋で約2時間の歩行の休息をとったのち、吊り橋向こうの雲ノ平への急登に挑む。黒部川対岸は即ちその台地の端部である。
慎重かつ素早く橋を渡り、非増水時の道である河原に降りて高天原への巻道である大東新道(だいとう・しんどう)の分岐から、この雲ノ平への急登を進んだ。
ここも評判の悪路で、丸く大きな溶岩が滑りやすい。天気が良くなり気温も上がったが、深い樹林のため助かった。
恐らく今回の行程で最も傾斜角が大きく、そして長い急斜道を小休止の繰り返しで一気に登り、上部の湿地面にでた。標高は2370m超。峡谷から500m弱上ったことになる。荷物が重く疲れたため、ここで大休止。とはいえ数分。急斜前半で後ろに続いていた数組の登山者とはその後会うことはなかった。皆、非初心者風だったので、それほど負荷の高い場所といえた
最初の湿地面からまた深い樹林に入り、先へ進む。基本足下が湿地の緩やかな登坂が続く。地形図による予習で傾斜については知っていたが、森林も含む多様な場所であることに少々驚く。雲ノ平といえばテーブルランド(卓状地)の印象があるが、実際には浸食等によりかなり複雑な地形・地貌となっている。さて、森を抜け幾つかの湿原を過ぎるも最初の目的地は遠し。祖母岳(ばあだけ。標高2560m、右の樹林山)が見えて初めてその左下に雲ノ平山荘が確認できた。写真では見難いが。とまれ、まだ遠い(笑)
祖母岳麓の緩い谷地や広がり始めた湿原を進み、やがて溶岩(噴石?)台地上にたつ雲ノ平山荘が現れた。今日最初の目的地である
雲ノ平山荘。標高2550m、3年ぶりの訪問である。野営場から約5時間の行程であった。背嚢等を小屋前に置き、左の階段から中に入った
雲ノ平山荘玄関内部。受付兼売店があり、中の姉さんに以前お世話になった人を問うと、今年は来ていないという。仕方なく、訪問の言付けを頼む。薬師岳登頂に続き、この訪問も昨年同様空振りとなった。薄謝代わりのお菓子を持参していたが、非常食にすることにした
箱も食事も良い雲ノ平山荘
ちょうど昼前だったので、靴を脱いで山荘の食堂に入り、昼食を摂ることにした。食料は完備していたので本来不要だったが、今回宿泊で山荘を利用できないためのお詫び的気持ちがあった。
山荘内部は玄関部以上にその造りの素晴らしさが実感できた。近年建て直したためだが、家具調度品に至るまで良材や好意匠が駆使されている。現当主氏のこだわりか。
更に特異なのは、本棚に山の本がなく工芸や建築関連の図録が並び、現代美術・陶芸の作品が置かれ、現代音楽まで流れていることであった。
まるで写真家か建築家の友人宅にいるような雰囲気。個人的に当主氏とは話が合いそうだが、他の登山者や従業員とはどうなのであろうか。
食堂の外にはこの様に好眺望のテラス席もあったが、雲が厚くなり寒かったため、内席にて名物らしきジャワ風カレーを食した。下界より少々値が張るが、よく煮込まれた具沢山のその味は素晴らしかった。これなら下界でも得な価格といえた。制約多い奥山における努力と工夫の賜物か
小屋の雰囲気や料理の美味しさに因りつい長居となった雲ノ平での昼休みを終え今日最後の目的地の高天原へと出発する。雲ノ平山荘下の湿地にまた下り、高天原への分岐路が続く向かいの丘に登る。丘上からはこのように山荘を中心とした雲ノ平全景が見渡せた。またいつの日にか……
山荘は見えなくなったが丘を越えても雲ノ平的湿原景は続く。少し雨が降ってきたが、なんとか高天原までもってほしい
やがて台地縁に達し、樹林の細尾根の急下降となった。午前あれだけ登ったのに、また下がるとは勿体ないが、仕方なし
急下降の途中、また広い湿原があり、そのなかで今回初めてのナナカマドの紅葉を目にした
湿原を挟み前後二つの急下降を経て高天原峠に着く。二つ目の急斜は梯子場が連続するなど、なかなかなもので、登りは大変に思われた。また、足下も薬師沢小屋からの急登に似た溶岩道で、滑りやすく思われた。さて、峠からは尾根を外れて右の谷へと下る
高天原峠からの下り道を進むと、やがて谷沿いの水気多い湿地が続くようになる。今は木道で整備されているが、それが無い時代の通行困難がしのばれた
沢沿いの湿地を抜け、渡渉箇所が現れた。水量が多くともこの様な橋があるため難なく渡れるが、更なる増水時は大変であろう。高天原山荘は対岸地帯にあり、孤立しそうだからである
橋を渡って樹林を進むが、なかなか山荘は見えない。もうそろそろの筈だが……。その代わりに、この様な大きく開けた湿地が現れた。中々良い場所。山荘への道はこの縁を大きく周りつつ続く
今日の宿泊地・高天原山荘
そして、湿地を過ぎて乗越し的微高地に差し掛かると、突然建屋が現れた。今日の最終目的地で宿泊地の高天原山荘である。
標高は2120m超、なんとか天気も回復し助かった。15時前だったので、出発が20分遅れ、更に雲ノ平に長居した割には予定の30分前に到着できた。
左奥に水晶岳聳える高天原山荘前のアルプス的好眺望
最奥温泉へ
ここは野営不可で小屋泊を予約していたため受付で手続きをし、2階大部屋の布団横に荷物を置き小屋前の露台で先着者らと談話する。
皆、大東新道等の近道で早く着き、温泉にも入ったようなので、私も遅くならないうちに入湯することにした。
温泉場は歩いて20分程先にあるため進むが、この通り、草履で行けるような状態ではなく、更には途中幾度か渡渉もあった。
ほぼ登山道といえる樹林の道をひたに進むも温泉はなし。道を間違えたとの疑念がいよいよ強まった頃、硫黄香る広谷に達し、その畔の温泉小屋が見えた。日本最奥温泉とされる、高天原温泉に遂に到着である
高天原温泉の混浴露天風呂と沢の対岸にある男湯小屋(左奥)と女湯小屋(右奥)。銭湯でお馴染みの湯桶があるのが面白い
こんな時に限り……
温泉到着時はちょうど先客が皆出たばかりだったので、囲いのない混浴に入ることとした。ところが、服を脱いで身体を洗い始めた途端に女湯から女子二人が出てきた。
慌てて岩陰に隠れつつ洗いを済まし、湯船に入る。私は気にしないつもりだったが、うら若い向こうにとっては見苦しいだろうとの思いである。
露天の湯は洗剤なしでも髪がほぐれる程の素晴らしい質で、湯温も良かったが、女子組が中々去らなかったため、湯船から出られず、湯当たりを起こしてしまった。しかも、こんな時に限って日射しも強力になっていた。
何事も中々上手くいかぬものである。女子組が去って無人になった温泉沢で少々朦朧となりつつ着替えを済まし、小屋に戻った。
夕刻、高天原山荘前に現れた水晶岳のアーベンロート(夕照)
温泉から帰っても暫く気分が優れなかったが、他客との談笑で徐々に回復する。先程の女子とも明日からの行程が同じということで仲良くなった。
そして日没前に露台の卓で調理をし、夕食を済ませた。小屋食をとる人の方が多かったが、私は用意してきたことと、節約のため自炊した。気候の温暖にも助けられ快適であった。
少し前まで3000円程だった素泊まりも、今や8000円以上となり、食事をつけると更に5000円も高くなる。ただ、食後聞いたところによると、小屋の夕食は頗る美味で、総合的に満足できるものだったという。「安かろう何かろう」の以前と異なり、質が上ったのであれば何よりである。
高天原山荘の窓辺を照らすランプ。この山荘は珍しく内燃発電機がなく館内の灯りをこれで賄う「ランプの宿」となっている。よって、静かで、宵以降、風情を増す
後悔抱え就寝
日没後、殆どの人が就寝したが、夜型の私が寝られる筈もなく(笑)、階下書棚前のランプ下で独り湯割りのウィスキーを飲む。
すると、1人の同宿年輩男性が合席許可を訊いてきた。ガイド付登山で訪れたというその人も寝られないらしく、ビール片手である。そして知らぬ者同士、暫し色々な話に興じることになった。
それは、ランプが消される訳ではないが、静かにする決まりの20時の消灯時間まで続き、その後、互いに床に入ることにした。
ただ一つ後悔したのが、「寝られない原因には心的なものがある」と告げられた時、とっさに「それは誰にでもある」と返したことである。
年輩者の深い事情に立入ることへの遠慮からであったが、知らぬ者へのこの場限りの吐露として聞くべきだったのではないかと悔やんだのである。
そんな思いも抱え、どうせ寝れまいと思いつつ床に入った。
「'24奥黒部行」1日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」3日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」4日目の記事はこちら。
2024年09月26日
'24奥黒部行(四分之一)
飛越新道からの奥黒部行再び
朝6時前、山間遠くに北陸の霊峰・白山(標高2702m)が朝焼けに浮かぶ――。
ここは標高1450mの奥飛騨山上の駐車場。岐阜奥地と富山奥地の県境隧道手前の登山口であった。昨年に続き、今年もここから奥黒部を目指す。
昨年、まさかの荒天化により中途撤退した3泊4日の奥黒部周回山行を再実施したのである。一応、初日は晴れ予報であったが、その結果や如何。
参考地形図(国土地理院提供)。縮小・拡大可。
有峰林道飛越トンネルの岐阜側にある北ノ俣岳登山口。今朝は高速PAの仮眠場所を3時に出て、5時過ぎにここに着き、出発準備を整えた。本来は5時半に入山する予定だったが、夜殆ど眠れず、暗闇の山間運転にも疲れたので20分程遅れることとなった
去年経験したここから始まる長時間の泥尾根道に気を重くするが、それより一番の懸念はこの熊予報。ただ、今年は昨年と違い、先行者2組がいたので、かなり気は楽になった
そして亜高山帯的樹林続く尾根道に挑む。3泊4日分、計15s以上の野営装備を担いで。ただ、既にライトは要らず、これも気を楽にさせた。去年は厚い雲の所為でこの時間でもまだ暗かったためである
またしても泥に足を取られるなどして約2時間。尾根上の寺地山に達し、その奥の標高2000m地点から、飛騨山脈、つまり北アルプスの主稜線が現れた。画像左奥の峰が薬師岳(標高2926m)、右手前が北ノ俣岳(同2661m)である。雲が晴れ、晴天となり何より
薬師岳の向こうには以前登った剱岳(標高2999m)も現れた。実に幸先良い出会いである
稜線下部の湿地帯で、水場がある避難小屋との分岐部。ここからいよいよ本格的な急登が始まるが、昨年視察した小屋には寄らず、そのまま進む
急登を一段上がって現れた、小池散る湿地。「餓鬼田」という地名がつけられているが、恐らくは古人が深山天上のここである種の「人工」を感じ、餓えた餓鬼が作った田に違いないと感じて名づけたのかもしれない
中腹の湿地が終ると、見上げるほどのハイマツの傾斜に。重荷を担ぎつつ、薄まる空気のなか、喘ぎつつ進む
好天・絶景の山上
そして山上着。
出発からちょうど6時間、遂に北アルプスの主稜線に乗り上げた。写真の如く、眼下に先程通過した湿原やその手前の樹林の尾根が見えた。
山上の向こうには薬師岳(左)や赤牛岳(中)、水晶岳(右)等の奥黒部の錚々たる峰々が見渡せた。去年は視界がなかったため感慨頻り。ここは北ノ俣岳山頂ではないが、その隣の標高2640mの頂で、古い石標もあった
そして、遠く槍ヶ岳(中央奥。標高3180m)も見えた
さて、山上で少々休息後、その裏手すぐの縦走路に合流し、先を急ぐ。目指すは中央彼方に聳える薬師岳方面。その麓の薬師峠の野営場に宿泊予定のためである。これより山脈主稜線上の縦走路を辿り、そこへ向かう
途中路傍にて簡単な昼食をとる。その傍には、最終日に登る予定の黒部五郎岳(中央奥。標高2840m)を背にしてチングルマが綿毛を並べていた。花ではないが、これも厳しい高山での一服の慰めか
北ノ俣岳から薬師岳麓まで主稜線は、稜線らしからぬなだらかな高原状となり、その上に縦走路が続いている。天気も良く、牧歌的風景。ただ、紅黄葉は見られず、周囲含め全くの夏山景であった。直近まで続いた猛暑は高所にも影響を与えたのか。涼しからぬ気温と共に、驚きを感じる
そして、13時過ぎに太郎平小屋に到着。だが、野営場の受け付けは現地との話を聞き、先へ進む
小屋から10分強進み、薬師峠へと下降。所謂テント場だが、昨年とは異なり、左の売店小屋に人がおり宿泊手続きや支払いが出来た。ここで来た道を聞かれ、珍しいのか道の状態等を訊かれた。相変わらずの悪路であることや、木道が雨で濡れると転倒必至であることを告げると、感謝された
薬師岳へ
昨年とは異なり先客多い野営場にて、数少なくなった良地に天幕を張る。正午辺りに比して雲が出てきたが、それでも時折射す陽は盛夏同様の強さがあり、暑かった。
設営後、他の登山者と話し込むなどしたが、予定より早く着き、天候も問題ないため、特に休まず薬師岳登頂を目指すこととした。
野営場から続く、花崗岩の大石散る写真の如き急登をひたに進む。
またしても!?
薬師岳といえば、去年山頂直下まで迫りながら荒天のため断念した因縁的場所だが、条件的に今年は大丈夫そうであった。
だが、なんと森林限界の稜線に出た途端、強風に晒されることとなり、慌てて防寒着を足す。すれ違う人から登頂の中止と危険を告げられる。
一先ず標高2700m付近の写真の薬師岳山荘まで行って様子を見るが、中止先行者の言う通り、山頂方面は濃いガスと強風で荒れていた。さっきまでは暑くてたまらない程だったのに、今や寒さで風邪をひきそうである。
今着ている雪山用の軟外套(ソフトシェル)に加え硬外套(ハードシェル。雨衣)を足せば突入出来なくもなかったが、前夜殆ど寝ていないにもかかわらず既に行動時間が10時間を超えていることや夕暮も接近していることから断念することにした。
恐るべし薬師岳。下山者からの情報では昼過ぎまでは頗る機嫌(天候)が良かったらしいのだが……。やはり高山は午前中に登るのが良いのかもしれない。特に山陰・大山の如く比較的日本海に近い山は。
その後、元来た道を駆け下り、野営場にて夕食や明日の準備等を行い、一日を終えたのであった。
「'24奥黒部行」2日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」3日目の記事はこちら。
「'24奥黒部行」4日目の記事はこちら。
2024年09月21日
'24奥貴船避暑
続く猛暑・熱帯夜
季節外的避暑敢行
9月も下旬というのに猛暑・熱帯夜が収まらない。
昨年も暑かったが、今年はそれ以上に思われ、実際、統計的にも最も暑い夏となりつつあった。昨日も、ほぼ37度まで上昇。恐るべき状況である。
そんななか、遅ればせながら恒例の奥貴船避暑泊を敢行。例年は、下界の暑さ故に避暑の値打ちある8月後半に行っていたが、今年は同行者等の都合がつかず、このように季節外れ的実施となった。
しかし、今日も京都市街は35度近い暑さ予報で、夜も熱帯夜とのことだったので、避暑の価値は十分に保たれそうであった。
上掲写真 京都貴船奥の芹生(せりう・せりょう)集落を貫く灰屋川(大堰川・桂川水系)畔に佇む樹齢数百年とみられる伏条台杉(芦生杉)。中世林業の名残りともされ、京都北山(きたやま)らしい存在。
涼を求める内外の遊山客で混む貴船を抜け、恒例の避暑泊地・芹生に至る。高所のため気温は低めだが、打ち続いた暑さや湿度の所為か、未だ夏の空気・感触を感じた
芹生の至る所で見られた、可憐な秋海棠(シュウカイドウ)の花
こちらは鳥兜(トリカブト)。一株だけ目撃した稀少なもの。毒草として名高いが、花の姿自体は独特で、趣がある
曇り、高気温ながらも避暑満喫
さて、到着した芹生は曇りがちだったが、居やすい気温のため恒例の川遊びなどをして避暑を満喫。そして、夜になっても、いつにない高気温だったが、下界とは異なり、空調要らずの快適さを享受できたのであった。
2024年09月18日
堂上躊夜
躊躇う満月
昨夜は中秋、即ち秋の名月の宵であった。而(しか)して今日は更に月齢高い十六夜(いざよい)、つまり満月の日である。
少なからぬ人が存知だと思うが、名月と満月が軌を一にするとは限らない。今年の中秋はまさにその好例のような機会であった。よって、月輪がより美麗な今宵の月も愛でることとした。
とはいえ、いつもの夕刻散歩のついでなのであるが、今日は月の出に合わせ遅めに出掛けた。そして、京都市街東部丘上の真如堂上に現れたのが、写真の十六夜月。
いざよう「(出現を)ためらう」の原義の如く、昨日の月の出より遅めのお出ましとなった。十六夜の月がいざようことを忘れていたため、名づけの古人の如く、正にそれを実感することとなった(つまり待たされた)。
堂上の月はその後、虹色の月暈(げつうん・つきがさ)を伴うこの様な姿となった。秋らしからぬ高気温と高湿の所為であろうか。珍しいものが観れたが、未だ止まぬ尋常ならぬこの暑さも早く収まって欲しいと切に思う