2014年03月23日
御土居春巡
史跡「御土居掘」を探る
百花が咲き競う「花の春」4月。その目前たる週末好日に京都市街にて、久々の平会(ひらかい)を開催した。
毎度の解説で申し訳ないが、山ではなく平地を巡る会なので「平会」である。一応初読の人の為に……。その平会、今回は京都市街に残る史跡「御土居掘(おどいぼり)」を対象とすることとなった。
随分前から、やりたいと思ってはいた御土居掘巡り。少々ブーム的な時期もあり、敢て避けていたという面もあったが、今回は最近御土居に興味を持った人々から促されての開催となった。満を持して、といえば大袈裟になるが、個人的にも喜ばしい企画。さて結果や如何(いかん)。
幻の戦国大遺構
御土居掘は、天正19(1591)年に、かの戦国の覇者、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁。土塁とその外側に並置された水濠を伴ったもので、総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設であった。
しかし、その規模に比して、その設置目的についてはよく判っておらず、軍事用途や洪水防止、美観目的等々の諸説が唱えられている。ただ、古くから総構(そうがまえ)や総曲輪(そうぐるわ)等の、軍事名称で呼ばれていたので、外城壁として扱われた可能性は高いと思われる。
為に、古代から完全な羅城(都城城壁)設置が発見されていない日本において、最初で最後の、それとなる可能性もある、貴重なものでもあった。しかし、近世(江戸期)まで大半が保全されたそれも、近代以降破壊が進み、更に戦後の乱開発により、残存は僅かとなってしまった。
一時は地元でも知らない人が多かった、幻の戦国大遺構。今日は資料片手に、皆とその痕跡を辿ることとなった。今も存在する場所と、そして消滅し、その幻影だけを追う場所と……。
上掲写真: 御土居掘の最大残存遺構「大宮御土居」跡に建つ、「史跡御土居」の石碑(京都市北区)。土居(土塁)の切れ目(古い破壊跡?)部分にあり、昭和5(1930)年の史跡指定に際して設置されたものとみられる。堀跡から流れ込む湧水の影響に因り沈降したのか、埋もれた遺構、御土居掘を象徴するような姿である。
御土居掘全図(京都市文化観光局「史跡御土居」〈1991〉より転載)。赤い線が、嘗て存在した御土居掘全線。幅約20m深さ約4mの水濠と、同約20m高さ約5mの土居が、総延長約22.5kmという大規模で構築されていた。その囲繞範囲は、京域である市街は疎か、紫野や壬生といった耕地・農村や西陣・鷹峯台地も含めた実に広大なもの。当時の記録によると、天正19年1月より工事が始まり、同4月には「大略」完成するという、信じ難い速度で為されたという。
御土居掘簡略断面図(大正期の調査図を基に筆者作成)。犬走は場所により洛中側に見られる例もある。土居上には、構築当初より竹が密植されていたという。土留めか防御用か定かではないが、江戸期には随時公儀によって伐採され、一般への払下げも行われていたという。
加茂川中学付近に残る御土居東北部遺構。整形はされているのではなかろうか
遺構少ない東部より巡検開始
朝9時に市街東部の河原町丸太町に集合して御土居掘巡検を開始。ここでいう「巡検」とは、江戸期に施設管理の為置かれた「土居奉行」が施設を巡察した意等とは違い、実地踏査・観察の意。歴史地理学等に於ける専門用語的語句である。
集合場所を南北に貫く、繁華街路たる河原町通にも、嘗てかなりの区間、御土居掘が存在したが、江戸前期に廃された為、殆ど現存しない。寛文10(1670)年、賀茂川際に寛文新堤という堤防が築かれ、そちらに役割が移された為とみられている。
東部唯一の廬山寺遺構
その中で唯一、寺の私有地(築山?)として今に残った廬山寺遺構(上京区)を、先ずは観察。墓地端に低く残る小山状のそれを、河原町通とを隔てるフェンス越しにみる。堀もなく、残高低いその姿を説明しても、皆あまりピンとこないようである。改変が激しい為か、致し方あるまい。ただ、馴染みの、こんな路傍に貴重な遺構があったことには、一同感心。
廬山寺は寺町通に並ぶ寺院群の一つ。御土居掘は、それら寺院の敷地東端(洛外側)に連なっていた。よく知られるように、寺町は、洛中防衛の為、秀吉により寺社が強制集築されて生じた地区。非常時に、防火・大型の公共施設たる寺社の軍事転用を狙ったものである。
その状況を考えると、やはり御土居掘の軍略的設置を思わざるを得ない。因みに、古い絵図にはこの区間に堀の描写がないことから、当初より土居のみの建造だと定説化されているが、私は上記の理由などから、実は水濠、もしくは空堀があったのではないかとみている。
賀茂川を頼るには遠く、または新堤完成以前の乱流・広河原状況では水深も浅く、防御性も著しく下がったであろう。天下を制したとはいえ、未だ四方油断ならぬ状況であった豊臣時代。御所にも近いこの場所の防御が片手落ちの状況だったとは考え難い。
先生差置いて
廬山寺をあとにして、河原町通を歩いて北上。そして、出町柳の枡形(ますがた)商店街辺りで、若狭・北陸方面への出口であったという「大原口(おおはらぐち)」跡を見学。
市営駐車場やらマンションやらの再開発で、御土居を含め、古(いにしえ)の痕跡は一切ないが、古図などと照合しつつ解説。商店街が寺町にあった大寺「立本寺」跡に開かれた通にあることや、名の由来となった防御的屈曲路、枡形(凹形路)が商店街の東前、御土居と新堤との間にあったこと等々である。
言うまでもなく、御土居掘を含めた解説は大半私の役割であるが、今回は少々気恥ずかしい。それは、地元に、その研究の第一人者で、保存啓発活動をされている中村武生氏がおられるからである。先生差置いて、の気分か。まあ、その昔、授業や巡検で氏より直接教えを受けた身なので、少しは許して頂けよう(笑)。
東北部遺構
大原口よりバスに乗り、更に北へ。着いたのは、遺構の東北部であった。堀川通が、北西から東南へと流れる賀茂川に突き当たる辺りである(北区)。開削されたその跡を跨ぐ堀川通にも大きな起伏が見られるのが、車中からでも解る。
近くの、加茂川中学校の隣には御土居掘の東北端である、への字形に屈曲した遺構も残存している。何れも雑草が払われ、美麗な外観となっているが、高さが低く、近年の改変が窺われた。また、堀跡を継承した暗渠河川の存在も確認できた。
この辺りの御土居は、加茂川の溢水に対する堤防的役割もあったとされる。事実、現在のような河川改修が行われる前の昭和初期に、大雨による溢水の市街浸入を防いだという。
加茂川中学付近の遺構横に続く、暗渠化された堀跡継承河川。この辺りは、東北端付近にしか遺構残存はないが、町界や道路、家の区画等にその痕跡が残る。近年の開発による景観急変の証でもある
北の遺構残る大宮交通公園
一行は、御土居掘西北端を目指し、堀跡暗渠等を辿りながら西へ向かう。新旧の地形図を確認しながら、今はなき遺構をなぞった。そして、園内に遺構が残る大宮交通公園に立ち寄る。
写真はその時のもの。「ん?遊園地でただ遊んでいる様(さま)ではないか……」。確かに。これは園内のゴーカートに参加者のT君が乗車したもの。
実は、偶々そこに居合わせた他家のお母さんに、男の子との同乗を依頼されたのである。当初頼まれたのは、なんと私(笑)。しかし、気恥ずかしい為、車好きのT君にバトンタッチとなった。
T君は、当初個人的にゴーカートに乗らんとするも「大人はダメ」との拒絶を受けたので実に嬉しげ。対するお母さんも、自分は怖くて乗れず、子供の単独乗車は禁止されていたので、助かり顔であった。双方、利害一致!である(笑)。
もとい、これでは遊園地での出来事紹介となってしまう(笑)。交通公園内の遺構の姿は、開催告知下部の写真を参照頂きたい。
壮観、大宮御土居
続いて、更に西に移動し、鷹峯台地の縁に至る。そこで現存最大規模の遺構と出会う。北区大宮にある、通称「大宮御土居」である。写真は、東端より見たその姿。道路からの残高は10m程、全長は200m程か。その壮観に、一同声をあげる。
道路は鷹峯の寺院地区へ通じる古道を継承したもの。恐らくは、江戸期以前に切り崩された箇所かとみられる。右端の芝地は堀跡。武者走り(犬走)にも見えるカーブミラー下辺りの窪みについては不詳。御土居掘は、ここから西へ向かって、一気に台地に乗り上げる。
原初の御土居掘の姿を濃厚に想像することが出来る、貴重な遺構である。
大宮御土居西端。左が北(洛外)で、鷹峯台地を切り崩して造られた堀跡と土居の姿がよく解る。台地上だけあって、他所に比してかなり高い場所にあるが、抜かりなく造られている。往時、相当な労力が投じられたであろう。高所だが、付近に湧水があり、水濠が実現できたことにも感心
大宮御土居には許可なく入ることが出来ないので(私は、昔講義で中村先生共々縦走?したことがある)、隣接する招善寺より部分見学したり、西端近くの西野山児童公園から回り込んだりして見学した。
消えども名と跡残す
大宮御土居をあとにして、また西へ向かう。近年開発された宅地の中、その痕跡を辿りつつ。
写真は、そこにあった住居表示。町名はまさしく「南旧土居町」。上下2本の横路に挟まれて家屋が並ぶが、そこに御土居があった。地図に描写はないが、その下(北側)に隣接する同幅の「北土居町」に水濠があった。
遺構は消失しても、地名や道路・家屋にその痕跡が残る好例である。
古の長坂口?
西北端遺構
住居表示のすぐ西側は鷹峯街道であった。中世より存在するとされる杉坂越え(山陰・西国方面行)の道、「長坂道(杉坂)」の候補路である。
外地と繋がる重要な街道故、ここには御土居の切れ目、即ち「口」があった。よって、ここは史料上に見られる「長坂口」の有力候補地となっている。番屋があり、都への出入りを制御する関所のような存在だったことも判明している。
但し、口があったことが確実に判明しているのは江戸期以降のこと。建設当初である豊臣期にそれがあったどうかは不明である。街道は前近代まで、これより上手(洛外)で、わざわざ台地を降りて、山越え区間と接続していた。これらのことから、個人的にも当初より口があったことには懐疑的である。
南北に走る街道の西には御土居掘の遺構が残存していた。写真がその姿である。以前隣接していた飲食店等がなくなり、周囲は公園的に整備されていた。石による土留め等の改変も多く見られれたが、残高は5m程もあって、水濠跡も確認出来た。
ここは御土居掘の西北端にあたる要地。残存が見られることは喜ばしい。
西北部遺構の向かいにある和菓子店「光悦堂」。実はここも御土居の跡
花より団子
餅は2度美味い
要地見学もそこそこに、一部の参加者が早速向かいの店を覗いている。店の名は「光悦堂」なる菓舗。まさに花より団子か。まあ、昼も近いので許そう(笑)。
光悦堂の看板商品「御土居餅」。地元の文物に根差した商品で、由来なども記されている素晴らしい御菓子。有難くも、お裾分けが回ってきたので、早速賞味。軟らかく、美味い!
有難く御土居餅を頂きつつ、遺構手前の空き地で小休止していると、参加者から呼び声が……。
なんと、遺構の出入り管理を委託されている光悦堂の人たちが、入口の鍵を貸してくれるという。外からしか見れない遺構への、接近が叶ったのである。ご好意に深謝し、見学者台帳に代表記入して早速柵内に入る。ああ、餅は2度美味かった(笑)。
御土居掘最高所
謎のヒント秘めるか
写真は、御土居上部で見学中の平会一行の姿。全長約50m、上部幅は5m程か、見晴しが良く、番兵にでもなった気分である。往時より規模が減じているとはいえ、やはりその壮大を想わずにはいられない。
なお、関連の史資料によれば、台地端(崖)に接する西北端部は、堀諸共崩落しているという。よって南折するL字の様は見ることは出来ない。
標高130mを超えるここは、御土居掘遺構の最高所にあたる。建設に非常な困難が伴い、往時は疎か最近まで辺鄙だったここまでその囲繞が及んでいたことは、謎である建設意図を知る上の、重要なヒントが秘められているのではないか、と思わされた。
違法破壊による遺構残骸(北区柏野)
迫力ある台地際遺構にて昼食
西北端遺構を後にして鷹峯街道を南へ下る。御土居が構築されていた台地西端に沿っているので、個人庭等に残る幾つかの遺構見学が期待できた。しかし今回は確認出来ず。外から見えなくなったのか、もしくは破壊されたのであろうか。
仕方なく、遺構を利用して設けられた「御土居公園」まで行き、在りし日のその姿を求めた。僅かな残存だが、ここも台地際に構築されているので、崖下の紙屋川との高低差が為す、迫力ある姿を想像することが出来た。
御土居公園にて遅くなった昼休憩を実施。出来れば、先程の西北部で済ませたかったが、飲食無用の決りのため叶わなかった。昼食調達に出かけた東京在住のY君が中々戻らない、といったこともあったが、まあ、一応皆寛げて次の移動への力を養えた。
違法破壊の警鐘的遺構
食後、また御土居掘跡に沿って南下する。全体の位置で言うと、西側のラインを上(北)から辿る。市街化が強まる為、遺構の残存は殆ど見られない。
写真はその中で遭遇した遺構残骸。何故残骸かと言うと、開発業者に違法破壊されたものが中止命令により適当に戻されたものであるという。残念だが、手がつけられない筈の国史跡が、簡単に破壊される恐れがあるという、警鐘的存在とも言える。
中村先生によると、類似の破壊が幾つもあるという。何れも戦後、しかも近年のことである。道徳的問題でもあるが、遺構地権者に対する行政からの庇護の無さも原因であるという。
美形御土居と石佛出土の謎
南下して暫く、「美形」の御土居と出会った。写真の平野御土居である。住宅街の中に隠れるように残存しているが、そこそこの規模があり、整備されていることと相俟って、存在感がある。
高さ5m程、全長は50m程か。見た通り、道路際で、整備されている為、観察しやすい。土居部分だけで言えば、最も解りやすい遺構ではなかろうか。但し、近年の整備と共に整形されているらしく、注意が必要な存在でもある。
写真左下に無数の地蔵(石佛)が並んでいるのが見えるが、これも後づけ(置き)。ただ、付近で御土居が壊された際に掘り出された関連遺物ではある。実はここに限らず、御土居の破壊に伴う石佛の大量出土の例(もしくは伝承)は多い。
有名な信長二条城と同様、神佛畏れず建材として使用したのか。または、逆に宗教的意味合いがあったのか。破壊の速度に研究が追いつかなかった為、どの様に埋蔵されているのかさえ未だ判明していない。御土居掘の謎の一つと言えよう。
構築当初よりの「口」
ところで、この遺構の手前(北)には寺之内通がある。豊臣時代の市街北限で、東部の寺町同様、秀吉の命により寺院が集められた地区という。小路だが往時は重要な街路であったこの寺之内。実はそれと御土居掘の接点には構築当初から口があった可能性が高いという稀少な場所でもあった。
それは、秀吉自身が寺之内から「大堀」と化した紙屋川にかかる「高橋」を視察にきたという一次史料が存在するからである。寺之内傍の堀上に橋があったのなら、そこの御土居に口があったことが確実視される。
構築当初、御土居掘には7〜10箇所程の口があったとされるが、正確な場所を含め詳しく判っていない。史料記載と、橋の存在という物理理由により確実視されるのは、ここと三条(粟田口)のみ、なのである。
但し、ここの口の名称については不詳である。私は、西郊鏡石通等を経由した、長坂口があった可能性も考えている。
現代に再利用
校内御土居と御土居の袖
平野御土居のすぐ南は、北野天満宮。その境内には紙屋川沿いに遺構が残っている。有料域で、梅観賞の人も多い為、外から窺うのみとした。天満宮の南は、台地の段差も無くなり完全な市街地となる。本来なら紙屋川沿いに御土居が続く筈であるが、廃滅している為、その跡のみ追う。
次に現れる遺構は、北野中学校内に残るもの(右京区)。校庭端のプール横にある小山である。実は、プールはその昔堀跡を利用して造られたといい、傍らの御土居はその観覧席として残されたという。改変はされているが、現代に再利用されている興味深い例である。
残念ながら今回は塀に阻まれ観ることが出来なかったが、参加者に同校出身者がいたので、共に他の人らに状況を解説した。
ここの御土居は南北ではなく、東西向きにある。その理由は、御土居掘がこの区間だけ、紙屋川の西に張り出していた為である。研究者の間で「御土居の袖」と呼ばれる箇所である。
張り出していた理由は判らない。関連寺院や水源の取込み、防御目的等々の諸説があり、そもそも後代の改造を疑う意見もある。私は御土居掘の囲繞域の中心で、司令塔的な聚楽第の真西に当ることから、防御強化を狙った「出丸」の一種ではないかとみている。
写真は「御土居の袖」の南下(洛外)近くで遭遇した「壺井」(右京区)。今は枯れてしまったようだが、嘗ての、この辺りの水資源の豊富さを証するような存在か。この事は、袖区間の堀水の事とも関連しよう。但しこの泉は、近くの西土手刑場へ向かう罪人が最後に飲まされた水という、少々暗い伝承を持つ。
この他にも、堀跡を継承した佐井通が影響した地面の窪みや、御土居跡を継承した同幅の児童公園や宅地段差等が観察出来た。
信仰対象として残存
「御土居の袖」を離れ、南下を続ける。市街地の小路をゆくが、その名も「西土居通」。御土居掘跡の西に沿う通である。もはや通の名のみで、往時を想わせるものは何もないが、やがて、いわくありげな場所が。写真の「市五郎大明神」という社である。
並ぶ鳥居辺りが堀跡、そして祠がたつ奥の森に高さ数m、長さ40m程の御土居が残存する。地元の信仰対象として残存した貴重な例である。早速、その徳を拝しつつ参観させてもらう。祠等の多くの造作物と、鬱蒼たる雑木に囲まれるが、確かにそこに御土居が横たわっていた。
北野中学遺構より南の西部と南部地区では、ここと四条辺りの民家庭に残るものが現存する。よって、比較的気軽に見学できるのはここのみ。元は(近代まで)、数キロにも渡って存在したにも拘わらず……。
市五郎大明神の境内南端。通に沿い並ぶ土留めの石組みに、土塁の存在が窺える
一気に南部へ
御土居停留所
市五郎大明神からは市バスに乗り、一気に南下して九条通は東寺に。そこにて、100年程前に撮られた東寺の五重塔と御土居掘の姿等を見つつ、暫し往時を偲ぶ。在りし日の御土居掘は、東寺を囲うように南端を成していた。
その後、自転車参加組の再合流を待って、東寺西側に在る、とあるバス停まで移動した。写真の場所である。覆いも何もない停留であるが、その名に注目。ズバリ「御土居」である。
この区間の御土居掘が1世紀前以降、何時頃廃滅したのかは定かではないが、停留の名に残ったのであった。周囲には、もはや見るべきものは何もないが、記念碑的に見学した。
往時の面影は何もない「御土居停」付近だが、史資料と照合すれば浮かび上がる痕跡はあった。それが、この町家の並び。前の路地と家屋背後の次の路地までの間に御土居掘があった。丁度東の土塁側を見ているので、町家の高さにその姿を想像出来なくもない
探索終了。1日で殆どを巡る
御土居停の見学を以て、本日の探索は終了。本来は最後に東南部の枳殻邸(渉成園)という庭園内の伝承遺構見学も考えていたが、閉門が早い為、割愛した。
枳殻邸付近は、その造成(江戸初期)の為に御土居掘の付替えが行われたことが判明している稀有な場所。そして、豊臣期のものが、園内の築山に残ると伝承され、その形状と向きからも信憑性が注目されている。興味深い場所であるが、またの機会にということに。それでも、残存する遺構の殆どを、今日1日で回ることが出来たので、喜ばしい限り。
さて、御土居停を後にして、帰途の為のバス停まで移動。その途上、おまけ的に羅城門跡地等も見学した。御土居掘に比して全国的知名度の高いそれとの急な出会いに、東京のY君などは少々興奮。
そして、皆で京都駅近くまで移動して、暫し喫茶休憩。その後、一旦解散し、希望者、可能者での打上げにて会を締めくくったのであった。皆さん、長距離の移動お疲れ様でした。有難う!
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