2008年06月03日

神宮幽明

第59回京都薪能のために平安神宮境内に設けられた能舞台と夕暮れに開演を待つ観衆

夕刻、京都市東部は岡崎の地にある平安神宮を訪れた。普段は18時で閉門となるその境内只中に広がっていたのは、照明が仕込まれた大舞台と、その周囲に着座した観衆の群であった。

久方振りの「薪能」

今日は毎年この時期に行われる「京都薪能」の日で、前後2日ある内の2日目。本来なら前日は6月2日に行われる予定であったが、生憎の雨で順延となったのである。薪能とは、簡単にいえば夕刻から屋外で行われる能や狂言の催しのこと。本来は興福寺の行事名であったが、今はこの意で使われることが多い。

刻々と変化する空色や外気が醸す特有の緊張感に惹かれ、以前より方々のそれへ出掛けていたのだが、演者や場所が別格のここでのそれを最上としていた。有難いことに、うちから自転車で行ける至便地でもある。しかし、ここ数年行くことが出来なかったので久方振りの観劇となった。

人の怨情を扱う「葵上」、世の表裏を現出する能楽

雨天順延の為に予定が崩れ中途観劇することとなったが仕方あるまい。本日の「取り」演目であり、未だ見たことがなかった「葵上(あおいのうえ)」には間に合ったのでよしとしよう。

『源氏物語』に取材した「葵上」は、生きた人間を生霊・鬼にも変えさせる「怨情」を扱った作品。シンプルな装置や所作で形に成し難い人情の機微を表す、能という表現手法に極めて相応しいと思われた演目であった。鬼面を付けて乱れ舞う六条御息所(後シテ)より、普段と変わらぬ生霊(前シテ)姿で静かに恨みを述べるそれの方に凄みを感じたのは私だけであろうか。


表題の「幽明」とは、幽界と顕界(げんかい)のこと。つまり世の表裏である。能楽によって現出されるそれを表した。


上掲写真: 平安神宮境内に設けられた能舞台と、開演を待つ観衆。後方に浮かぶ本殿が鏡板(かがみいた。後背飾板)代りとなっている。舞台両傍で焚かれる薪の松煙が夕風にかおる。見上げれば、天蓋を覆う密雲が残照に波立つ……。何かが始まる予感。芸能の原点。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 催事(友人其他)
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