
調査山会&初歩講習終了
今朝も冷え込みが厳しく、山会への影響を危惧したが、比較的早くに気温が上がり、杞憂に。
勿論、先日の春日ほど気温は上がらなかったが、手先・耳先がかじかむ程ではなかった。今回は初歩講習を兼ねたので、小中学生も参加したが、彼らなぞは暑いと騒ぐくらいであった(笑)。
さて、調査山会。
予定通り、山地内遺構と新設道路との現況を実見し、無事終了した。その詳細は以下の通り。
上掲写真:中世の山城、如意ヶ嶽城(大文字城)の登城路でもある、東山縦走路で遭遇した謎の土壇。最近まで古(いにしえ)から変わらぬ道と森が続いて筈。一体何物なのであろうか。

若王子境内の辛夷(コブシ)の花。ここらでは珍しいか
若王子より山科越へ
今日は開催地が近くの為、朝遅めに集合し、出発。
目指す防災路は東山連峰の向こう側、即ち東面にあるので、峠越えすることに。最も低い鞍部である北山科越えの古道を目指すが、最寄の南禅寺が観光客で混んでいるので、北方の若王子から入山し、山中を南下してそこへと向かった。

入山前の準備体操を終え、入山口へ進む山会参加者

若王子山中にある墓地。新島襄と八重の墓もある
家の狭間の入山口からはすぐに登坂となり、斜面にとりつく。やがて斜面が落ち着き平坦地続く林に出た。その中に同志社や市営墓地が現れる。

恐らくは古跡と見られる人工地形が続く、平坦な山中の古道をゆく

間もなく写真の如く、巨岩が多い場所に出た。
南禅寺奥之院である。
一帯には不動明王を祀る滝行場などがあり、普段は少し陰鬱の気が漂う場所なのであるが、天気と冬枯れの明るさの所為か、その感じはなかった。
ここから、進路を東へ採り、山科越えの古道を進む。

新しく造られた堰堤
以前の大雨を契機としたものだろう。当時は行場辺りも水流の被害があった。しかし、もう少し目立たないものでもいいのではないかと思う。
谷は短く、その集水域は極めて小さい。まして、歴史的寺院の境内、古道の跡なのである。

山肌の苔より水が滴る、奥の院最奥の聖地
山科越えの古道を進むと、山肌から水が滴る水場を通過。南禅寺谷の水源の一つで、水に関る諸神の石碑・石塔が祀られていた。

「七福思案処」。左の登路は東山縦走路で大文字山、右の降路は山科への道
峠より『今昔』の道ゆく
やがて緩坂の道は、なだらかな峠に達した。標高約180m、通称「七福思案処」と呼ばれる場所である。
比較的標高が低く、交通効率もいい為、日ノ岡の東海道が開かれる以前の古代は、こちらが主道であったとする説もある。
ところで、この「七福思案処」。何故こんな名があるのかわからない。最近付けられたものだと思うが、もし根拠と共に存知の人がおられたら、ご教示願いたい。

峠で休息し、東は山科方面へ進む。さほど急ではない下降と登坂を繰返し、やがて切通しの峠に至った。
毘沙門堂西奥の谷で、安祥寺川源頭の一つ。ここも今日の調査・確認地点。地形図に確りとした道路が描かれていたので、林道が付けられ峠風情が破壊されたと危惧していたのである。
しかし、実態は写真の通り。以前のままであった。勿論、切通しも人為に違いないが、いつ頃から施されたのかは不明。私はその要所性から、かなり古いものではないかと思っている。
『今昔物語』に、在原業平(825-880)が気安く都と北山科を往復する描写がある。そこまで古くはないと思うが、そのころから往来があった可能性は高いとみている。
ここを東へ下った支流谷には、平安古刹の上安祥寺跡や、地元で「業平谷」と呼ばれる場所も存在する。

御陵奥山から見る山科盆地眺望。地元の人間しかこない休息適地で穴場的場所
古道峠の健在に安堵し、峠横の尾根筋を南へ進み、見晴しの良い山上にて昼食休憩に。
山科盆地北縁の鏡山山地上で、かの天智天皇陵の奥山に当る。

防火道から新道分岐探索
昼食後、尾根筋を戻り、切通し北の尾根筋を登る。ほとんど人の通らない場所であるが、樹々も冬枯れしているので、難はなし。
やがて縦走路の支尾根に達し、その裏の林道に下降する。写真のものがそれで、戦後比較的早くに出来たもの。

古い林道を辿り、近年出来た「防火管理道」なる車道に入った。
今回の主目的は、大文字山上の遺構群付近に出来た新道と、それの遺構・自然への影響を探るというもの。新道はこの防火道から延長されたとみて、このルートを選んで踏査することとなった。
写真は防火道の途中にあった貯水槽と案内板。説明によると、山の背後にある南禅寺や銀閣寺などの貴重文化財を山火事から守る為に敷設されたとある。
こころがけは悪くはないが、こんな水槽2か所で1km以上も離れた山裏の仏閣をどうやって守るのであろうか。そして、その為に数kmに渡って山が削られ、膨大な自然環境と動植物が犠牲になったが、それとの釣合いはどう見ているのか。
確かに山火事は起こり得るもので、危険である。しかし、乾燥した海外のように広大・長期化した例を聞いたことがない。
ここは山中といえども平安京と大津宮に挟まれた歴史的後背地である。多くの重要遺構があり、未調査・未発見のものも多い。また、都市近くに息づく貴重な自然資源でもある。
どんな名目でも、これ以上、負荷の高い方法による変更は止めるべきである。

藪をかき分け、道なき尾根筋を進む
結局、防火管理道と新道の接点は発見できず、如意ヶ嶽北の池ノ谷方面の林道との接続を疑う結果となった。
地形図を検討し、最寄の尾根から直接新道へ向かうよう、急遽予定を変更した。
取り付いた尾根筋に道はなく、暫し藪漕ぎの登坂を強いられる。ちょっと驚いたかもしれないが、年少者らにはいい経験となるだろう。
しかし、間もなく主道と合流し、そのまま山上を目指す。踏みゆくは、上安祥寺遺跡段ノ谷の西尾根である。

上安祥寺西経塚遺跡
尾根道に現る古代や中世
そして、頂に到着し、一休み。一見、何の変哲もない雑木林だが、実は古代末の平安遺構。上安祥寺に関連したとみられる、経塚の跡地である。
経塚は平安末の末法思想流行に影響されて各地で行われた経巻埋納の施設。石塚の中に豪華な金属容器に入れられた経巻等が埋納され、現存するものは国宝級の文化財となっている。
上安祥寺のものは、寺の背後に横並びする3箇所の頂それぞれにあり、ここはその西端のものであった。遺構は3箇所とも古い時代の盗掘に遭っており、遺物はないという。若干小高くなっており、大小の石が露出して辛うじて古跡であることが窺える。
上安祥寺は古い土地思想との関連を想わせる、非常にシンメトリカルな造営がなされている。寺の後背に灯火の如く並ぶ、この頂・経塚もまた然り。
何か、我々や後代に残された、深い謎のようにも思われる。

尾根道上に施された、如意ヶ嶽(大文字山)城最南の防御施設と思われる堀切跡
その後、尾根道を更に北上して東山縦走路に出た。尾根を切るが如くに施された堀切遺構等を越え、大文字山を目指す。

東山稜線を越えて延長されていた新車道
800年の遺構破壊?新道調査
そして、遭遇したのが、はじめに掲げた画像の場所である。
尾根が大きく削られ車道が横断していたのである。山上近くに新道が来ていたのは知っていたが、尾根まで越えているとは思わなかった。
ここは東山の稜線で、山中では主路的な道である。また、先程紹介した通り、貴重な中世の城跡でもある。何の権利、どんな目的だが知らないが、酷いことになったものである。
また写真の如く、かなりの幅をとって開削されている、環境は言うまでもなく、上下に展開する遺構などへの影響は大丈夫なのか。

新道を辿って、懸念していた如意寺遺構へ向かう。
あまりの地貌変化で見つけ難かったが、それと思しき地に到着した。どうやら破壊されているのではないか。
写真がその場所であるが、以前見学した如意寺大慈院跡かと思われた。大慈院は鎌倉時代の絵図にも描かれたもので、彼の鎌倉将軍源頼朝寄進のものとされる。
源氏武家政権と、如意寺が属した天台寺門派との関連が窺える貴重な遺構である。

その近くに車両の行き違いを意図したような道の広がりがあったが、ちょうどこの辺りに一番広い遺構面があったような気がする。
新道は大慈院を含め、周辺遺構平坦面を根こそぎ利用して通されたのか。

近江へ向かう如意越古道(左上)の直下に通された新道。古道からみる穏やかな谷風情は格別であったが、それも今は昔。残念!
予想以上の破壊に無念を感じざるを得なかったが、今一度、関係機関に確認をとろうと思った。
そして、後ほど市の文化財保護課に問い合せてみた。答えは、新道は防火道ではなく単なる林道とのこと。建設前に林野庁等関係部署と協議し、遺構を外すように了解をとり、竣工後の実検でもその通りであったという。
こちらが遺構破壊の可能性について語ると、再度確認に行くとの回答を得た。しかし、それには気になる一言が付け加えらえた。
「正規の手続きを踏んでいるので、仮に破壊されていも破壊とは扱われません」。
?
たとえ手違いでも破壊は破壊であろう。800年もそこにあって、今後も守るつもりだったものが一瞬で消されるのは、そんな軽いことなのか。つまりは誰も責任を取らないというのか。それなら、何でもやりたい放題になろう。
担当の人が悪い訳ではないが、組織としての聞き苦しい見解に憤りを禁じ得ない。しかし、一応、保存の確認はしているとのことなので、こちらの勘違いも考えなければならない。
ということで、近々もう一度精査することにした。

遺構辿り、色々考えつつ下山
夕方も近づいてきたので、踏査を終え、旧如意寺境内を辿るように下山した。
途中、その熊野三所推定遺構を襲った土石流の痕跡が、漸く整理されているのを見た。倒木等は撤去せずにまとめられ、植樹による固定化を図っているようである。
まあ、運び出せる場所でもなく、仕方あるまい。この辺りは戦国期の城塞関連による改変が指摘されているが、少なくとも450年程地貌は変わらなかった筈である。
だとすると、100年に1度とも言えない雨で流されたのは、植林等の環境改変が影響したともいえまいか。まあ、あくまでも推測だが、新道のこともあり、色々と考えさせられる。

下山した鹿ケ谷よりみた西山の夕日
そして、急坂を下りゆき、市街麓の鹿ケ谷に下山した。
まあ、再確認という課題は出来たが、一先ずは予定をこなすことは出来た。
皆さんお疲れ様でした……。
2016年4月18日追記: 再調査の結果はこちらの「続新古巡察」のページへ。