
「如意寺遺構破壊疑惑」再調査
先月の3月26日に、如意ヶ嶽(大文字山)山中に新設された林道と、それの遺跡や自然への影響を調べる調査山会を行った。
その際、遺構の破壊らしき様子を確認したが、市の文化財保護課への問合せでは、担当者が工事前後に立ち会ったが影響はなかったという。その為、山会として再度の現地調査を行うことにしていた。
皆仕事等で忙しかったので、何とか日を合わせて、今日、午前中早くに撤収することで実施することとなった。
果たして、山中に眠り続ける800年の遺構は残っているのか……。
上掲写真: 市街のすぐそばにありながら、豊かな自然と貴重な遺構が数多眠る如意ヶ嶽山中を進む。前方の木立奥に何やら明るい場所が現れた……。

朝早くから山中へ。明るい場所とは……
朝早くに集合して、すぐに出発。幸い皆麓近くの在住なので、難なく集まることが出来、そして山中へ。
急斜だが、なれた道を登り、標高450m近くの峠を越えて稜線から新道に入った。そこから下降して辿り着いたのが、最初の画像の場所で、明るい場所とは上の画像の平坦地であった。
如意寺(にょいでら)大慈院跡。鎌倉右大将家、即ち鎌倉将軍、源頼朝寄進と伝わる寺坊跡であった。遺構は残っていたのである。
以前来た時は稜線からもっと近い印象があった為の錯誤であった。
一先ず、安堵……。

東西に並ぶ大慈院跡の礎石
最初に調査した時は真冬ながら下草が密生して地表面が確認し辛かったが、今回は何故か草がなかった。
埋文研か何かの再調査でも入ったのか、はたまた鹿の食害か……。

同じく礎石
誰かが手で土を払い除けたとみられる跡があった。これら、露出していた礎石の間隔は凡そ2.5mで、堂口の為か前面に一部2.7m以上の場所もあった。
この周囲に、少し小さめの縁側礎石が巡る筈だが、確認出来なかった。

大慈院西横の謎の平坦面
遺構の無事は確認出来たが、折角見やすくなっているので、周囲も観察することにした。
写真は、大慈院の平坦面から続く西側の平坦面。尾根を削った突出型で、上下2段あり、その総面積は大慈院平坦地を凌ぐ。
絵図や寺の記録にない謎の平坦地で、埋文研は戦国時代の如意ヶ嶽城関連の郭等も想定している。
私は面続きであることから、如意寺関連の遺構を想定している。

大慈院遺構下の西方院推定地の平坦地
ここも、初めに訪れた時より格段と見やすくなっていた。場所は大慈院直下で、絵図によると石段で接続されていた。
鎌倉時代作製の境内絵図によると、全山で唯一瓦葺の寺坊があった場所である。その特殊性から、古代、平安初期以前に存在したという、前身寺院「檜尾古寺(ひのおのふるてら)」との関連が指摘されている。

西方院推定地裏(東)で発見した水源
訝っていた水源を発見
ところで、以前からこの大慈院の立地に疑問があった。それは水場から遠いことである。本堂や深禅院等の主要施設は全て近くに豊富な水場を擁しているが、ここのみなかったことを訝っていたのである。
しかし、下草がなくなった今日、その疑問への答えが出た。それが写真の水源である。元々大慈院・西方院の東横は浅い谷地形であった。しかし、そこには水がなかったが、実は西方院裏から湧いていたのである。
西方院は、この谷で最も高所にある水源の傍に造られていたのである。このことも、何か暗示的で興味深い。

戦国期の如意ヶ嶽城関連遺構ともみられる東山の稜線の峠より、直下に造られた新道をみる(中央木立の下)
800年の遺構と自然をそのまま次代へ
一同安堵し、帰路に就く。
少なく見積もって800年前から存在した平坦地と遺構は無事だったのである。また文化財保護課に結果を連絡しておかなければならない。
しかし、城跡と寺跡の間を切る様に道が通されたことに留意しなければならない。水や風の流れが変わり、今後何かしらの影響を与えることも考えられるからである。
もうこれ以上我々の時代に余計な造作をせず、これまでの状況をそのまま次代に渡したいものである。もう、十分に壊してきたではないか……。
何か、多くの人にその稀少性を知ってもらえることが出来る様な、例えば「ヒストリカル・ハイキング」の場のような山域として、利用しつつ強固に保存できないものであろうか。

鹿ケ谷の急斜面に発見した石垣
情報求む。謎の石段
ところで、行きしなに、鹿ケ谷対岸の急斜面に古い石垣を発見した。写真のものがそれで、同様のものが何段にも続いていた。
あまりに急で、土地も取れない場所なので、もしかすると土留めか植栽用かもしれない。何かご存知の方がおられたら、ご教示頂ければ幸いである。

石垣のあった急斜面。かなり上方にも造られている