2016年08月12日

避暑観覧

「京都夏の文化財特別公開」の一つ「和中庵」への玄関となる、京都市街東部鹿ケ谷のノートルダム女学院の聖堂入口

暑さ避け、近隣の建築公開へ

毎日猛烈な暑さが続く。

盆等の影響で、仕事に隙ができ、色々とやるべきことがあったが、こう暑くては手がつき難い。

今日は、午前中の涼しい内(あくまでも相対的)に仕事等を進め、午後から避暑がてら近くの邸宅見学へ出かける。

場所は、京都市街東部の鹿ケ谷(ししがたに)。俊寛僧都らの平家打倒密議で著名な郊外地であるが、今は山際まで宅地が続く市街地となっている。

その、山際の一角には、木々に囲まれた閑静かつ瀟洒な趣を持つノートルダム女学院の学舎があった。

今日の見学は、それに隣接し、今はその施設と化している旧富豪屋敷「和中庵(わちゅうあん)」である。


上掲写真: 特別公開の玄関となる、ノートルダム女学院の聖堂入口。簡素ながらも有機的で存在感を持つ設計は、他校舎も含め、戦後建築の隠れた名作に思われた。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ「和中庵」観覧の待合・休憩所とされた、京都市街東部鹿ケ谷のノートルダム女学院の聖堂内部
観覧の待合・休憩所とされたノートルダム女学院聖堂内

近所とはいえ、その僅かな道中でさえ暑い。

観覧の玄関口に入ると、係の人が、説明待ちを兼ねての聖堂内での休息を勧めてくれた。

観覧する和中庵は戦前築で空調もないため、冷房が効く聖堂を用意してくれていたのである。撮影に制限がないことも含めて、中々の配慮で、有難い。


「京都夏の文化財特別公開」の一つで、京都市街東部鹿ケ谷のノートルダム女学院内にある、旧藤井彦四郎邸「和中庵」の洋館玄関口

旧藤井彦四郎邸「和中庵」

ぽつぽつと人が集まり、やがて聖堂での観覧説明が開始される。

その後、各自で奥庭に移動し、和中庵へと向かう。

和中庵は、人絹・毛糸で財を成した近江商人家系の藤井彦四郎が、大正15(1926)年に起工し、昭和3(1928)年に完成させた邸宅群。

皇族も来訪・宿泊したという名邸であったが、同23年にノートルダム教育修道女会に譲渡されたという。2008年には修道院としての役割を終え、隣接する女学院に移管。

山麓の地形を利用して、洋館や和式客殿、茶室が巧みに配されている。敷地が鹿ケ谷越の道に隣接し、外からも、色ガラスあるその古式が見えたので、以前から気になっていた。

その後、建築関係の友人が、建屋解体の情報を告げ、残念に思っていたが、友人が工事に関連する可能性があったので、その際は幾ばくかの古物・古材の救出を考えていた。

しかし、紆余曲折の末、保存と活用が決定され、平成26(2014)年から翌年まで改修工事が施され整備されたのである。但し、藤井家の生活の場であった主屋は、残念ながら取り壊されてしまった。

写真は、洋館の玄関口。


「京都夏の文化財特別公開」の一つで、京都市街東部鹿ケ谷のノートルダム女学院内にある、旧藤井彦四郎邸「和中庵」の洋館前広場の土蔵

洋館前には広場があり、対面には写真のように土蔵があった。

幾つかあった内の一つのみの残存らしく、主屋はこの広場上にあったという。


「京都夏の文化財特別公開」の一つで、京都市街東部鹿ケ谷のノートルダム女学院内にある、旧藤井彦四郎邸「和中庵」の洋館1階の洋室(応接室?)
洋館1階の洋室。応接室か

和中庵洋館

土蔵内は入れないので、洋館に入場して各所を巡る。洋館1階から2階、そして2階渡り廊下を経て背後の客殿各部である。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷の旧藤井彦四郎邸「和中庵」の洋館1階にある、石貼りや雷紋木彫がある東西折衷意匠の暖炉
洋館応接室の暖炉

腰回りの石貼り上に雷紋の木彫がある、東西折衷の意匠。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷の旧藤井彦四郎邸「和中庵」の洋館1階別室前の謎の石質床板
洋館1階別室前の床板

大理石や滑石を思わせたが、均質なので人研ぎ(じんどぎ)や人工石板とも。しかし、貴石のような透明度があり、少々謎めいた素材。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷の旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、窓が多く床や腰壁に大理石が貼られる洋館階段室
洋館階段室

洋館中央にあった階段を上がり2階へと向かう。階段室は採光を意識した窓の多い明るい空間。一見簡素に見えるが、床や腰壁には大理石が貼られる豪奢な造りであった。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷の旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、漆喰天井装飾が見事な洋館2階広間
洋館2階の広間

洋館2階には舞踏会でも催せそうな洋室広間があった。修道院期には聖堂として使われていたといい、壁上には十字架の影が残っていた。

漆喰天井の装飾も見事。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷の旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階広間の総大理石造りの暖炉
洋館広間の暖炉

総大理石造り暖炉があり、1階のそれより豪奢で余所行き的雰囲気があった。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階広間の総大理石暖炉の装飾
洋館広間の暖炉装飾

大理石の縁保護の為の金具か。真鍮製と思われ、その意匠には大正モダンを思わせるアールヌーボー風が見られた。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階広間窓上の色ガラス(緑のダイヤガラス)
洋館広間窓上の色ガラス

ダイヤモンドの粒を意識したとされる型板ガラス「ダイヤガラス」が使われている。粒が大きいことから、輸入品か、国産初期のものとみられる。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階広間天井の象のような漆喰(石膏?)飾り
洋館広間天井の漆喰(石膏?)飾り

象のように見えるが、果たして……。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階広間床にある雷文等のチーク材象嵌
洋館広間床の象嵌飾り

周囲には雷紋がめぐらされているが、角の意匠に独特の工夫がみられる。

象嵌の木片をはじめ、室内の木材には全て高級南洋材のチークが使われている。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館と客殿の渡り廊下から見た、重厚さを感じる洋館裏面
洋館の裏面景

洋館2階からは渡り廊下を通り、裏手にある客殿へと向かう。写真は廊上より洋館裏手を撮ったもの。正面とは違った重厚さが見られて面白い。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館と客殿の渡り廊下から見た、直下の人工渓流跡
渡り廊下直下の人工渓流跡

渡り廊下の下には、敷地端の谷底を流れる桜谷川を分流させた川があったという。客殿傍の段差上には、その「源」となる滝の跡もあった。即ち、嘗てここからは滝と渓流を眺めることが出来たのである。

地形を利用した、中々大胆な作庭・仕掛け。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館2階から客殿に伸びる、土塗りの垂れ壁付きの純和風渡り廊下
洋館より客殿側へ伸びる渡り廊下

土塗りの垂れ壁がつく純和風で、東福寺「通天橋」を意識したものとされる。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、洋館と客殿の渡り廊下から見た、段差上に建つ客殿
渡り廊下よりみた客殿

和中庵客殿

客殿は洋館裏の段差上にあり、あたかも山上殿舎の雰囲気である。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、客殿端部にあった書斎らしき眺望の良い部屋
客殿端部にあった眺望の良い部屋。書斎か

客殿は段差上なので、洋館2階は即ち客殿1階と接続される。客殿は寺院に似た木造平屋の大建築であった。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、木々の向こうにノートルダム女学院の校舎が見える客殿南庭
客殿の南庭

木々の向こうに、瀟洒なノートルダム女学院の校舎が見える。この庭と左校舎までの間に桜谷川が流れる谷がある。

庭端に見える円い水槽状の物は、谷から人工滝へ水を揚げるサイフォン装置か。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、3室の和室広間で構成される客殿主室
客殿広間

客殿の主室は、3室の和室広間で構成されていた。寺院や城郭御殿を思わせる実に大きな空間。


「京都夏の文化財特別公開」の一つ、京都鹿ケ谷・旧藤井彦四郎邸「和中庵」の、客殿入口にある、一部が網代壁の納戸らしき小部屋
客殿入口の納戸とみられる小部屋。通気の為か壁面が一部網代(あじろ)となっている

参観完了。少々我儘な所感

客殿の見学を終え、元の順路を辿って参観を完了した。山裾・谷地とはいえ、暑さはやはり並みならぬものがあったので、再度聖堂での休息をとったのであった。

女学院の粋な計らいで残存し、そして公開された和中庵。戦前建築の妙や豪奢を堪能することが出来たが、どこか物足りなさも。

それは、古人の生活の痕跡や工夫が知りたかった私個人の感慨であった。保存され公開されたのが、迎賓館的な洋館と客殿であった為で、極論すると今回その興味が満たされたのは、客殿の納戸くらいであった。

実は、それらの興味の対象は解体された主屋に多くあったのではないかと思う。そこは私的な生活の場であり、終戦直後から修道院とされた為、大規模で現代的な改修も受けていなかったと思われるからである。

そういうことでは、主屋が解体されたことは非常に残念に思われた。洋館や豪奢な家屋は他でも結構保存されているが、生活遺構的な建築は少ない。

しかし、限られた保存の条件においては、どうしてもそれらの順位は低くならざるを得ないであろう。誰も責めることの出来ない難しい問題である。

後日、別の公開地で、ここの感想を求められた際、一瞬応答に躊躇したのは、この所為であった。

確かに貴重な建築ではあったが、造られた当初から既に死んでいるような空間であったことに引っかかりながら、それを言葉に出来なかったのである。

随分な所感となったが、公開建築自体に不満がある訳でなく、ちょっとした我儘のようなものである。十分素晴らしいものであり、他人にも是非勧めたいと思う。

出来れば、将来滝と渓流も復活させてくれれば更に言うことなし、なのであるが、これも我儘か(笑)。

こんな我儘三昧も、偏にこの暑さの所為や否や。
まあまあ、諸々、平にご容赦を……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記
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