2016年11月21日

臨時構会

京都市街中央北部にある聚楽第西外堀推定域に建つ、築100年の洋館ギャラリーの外壁

臨時平会開催

難儀していた仕事に一旦区切りがついた今日。偶然休みが重なった友人ら計3人で市内の遺跡巡りを行うこととなった。

前日急に決まったので、さしたる用意もなく他の人も誘えなかったが、ちょっとした平会開催となったのである。


上掲写真: 途中立ち寄った、聚楽第西外堀推定域に建つ洋館ギャラリーの外壁。亭主氏によると築100年程とのことだが、簡素な屋根と壁の板貼り等が現代的な印象を与える。元の軽妙さに経年の重みが加わった独特の雰囲気も興味深い。


京都市役所北の広大な工事現場に現れた、近世・妙満寺遺構等の発掘現場

午前は所用中に河畔遺構一瞥

巡覧は午後からで、午前は残務処理や所用をこなす。

写真は、昼前に立ち寄った京都市役所から見た、庁舎北裏の発掘現場。先月紹介した寺町妙満寺の近世遺構である。

今月初めには、天明の大火(1788年)に焼け残ったと伝わる土蔵造りの祖師堂跡発見も報道されていた。


連なるベルトコンベア下の遺構面に、切り石の基壇跡や堀跡らしき野面積石垣が見える、京都市役所北裏の妙満寺遺構等の発掘現場
妙満寺遺構発掘現場拡大

連なるベルトコンベア下の遺構面には、切り石の基壇跡や堀跡らしき野面積の石垣があったが、詳細は不明。

興味深いのは、桃山期(16世紀末)以降の比較的新しい遺跡にも拘わらず、遺構面が深いこと。1.5m程あろうか。寺が西接した寺町通は、元東京極、即ち平安京整地面の東端なので元から土地が低く、近代以降に嵩上げされたのかもしれない。

つまり、賀茂川に続く河畔低地の名残か。事実、現存する寺町寺院の多くが、寺町通よりも下がった面に境内を展開させている。


急斜上に「犬走」の段をもつ軍事的性格が強く現れた、京都市街北部・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構

想定外の大工事で要害成す画期的新遺構

さて、午後から友人らと待ち合せて向かったのは、市街北部の鷹峯(たかがみね)。そこで発見された御土居堀(おどいぼり)遺構を見る予定であった。

御土居掘は、天正19(1591)年に、豊臣秀吉が洛中(当時の京都市街地)を取囲むように構築した防壁と水堀。総幅約40m、総延長22.5kmにも及ぶ大施設で、近代以降、特に戦後急速に失われた。その全容を探らんと、以前平会で痕跡を巡ったが、詳細はその記事を参照頂きたい。

今回発見されたのは、削平・埋没させられた御土居の胴部とそれに接する堀。御土居の基底部は他所でもよく見つかるが、今回のものは、犬走(いぬばしり)を伴った数mの高さを持つもの。その最大の特徴は、念入りに構築された急傾斜の姿であった。

それを以て、埋蔵文化財研究所は、御土居が防御目的に構築された可能性が高いという見解を示したのである。それは、これまで様々な説が出されていた研究史上、画期的なことであった。

私も当初から軍事目的、即ち城塞(御土居囲繞範囲中心の聚楽第の総構(そうがまえ。防御外郭))説を採っていた為、実見したかったのである。

写真は対面叶ったその現物。急斜の土崖が御土居で、その手前下が堀となる。確かに鋭い傾斜。急斜上の段は犬走で、崩落防止や防戦の足掛かり等とされた。本来の御土居はその上部に更に続き、総高9m程あったのではないかと見られ、幅も18m程あったと推定されるという。

鷹峯台地西部の緩傾斜段丘に盛り土整形して45度の急斜化しているらしい。従来は段丘上部に盛り土しただけと考えられていたので、予想外の大工事とのこと。

今日のメンツは皆以前の平会参加者なので、一同興味深く見学した。


鷹峯台地と紙屋川低地との高低差がよく判る、東からみた京都・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構
北花ノ坊町遺構を東より見る

即ち、削平された御土居上面部に当たる。ここから更に数mの高さがあったのなら、段丘下との高低差は中々なものに。

因みに、段丘下の家屋向こう100m程の場所に紙屋川が並走する。それを利用せず、別個に水堀が構築されていることにも、防御的用心が窺える。


発掘前の施設地面と御土居上面との関係が土の色で観察できる、東からみた京都・鷹峯北花ノ坊町の御土居堀遺構
同じく東側から

発掘前にあった施設の地面と御土居上面との関係が観察できる。御土居上部を削平し、その上に灰色の土を載せて造成されたのであろう。

こうして、破壊されながらも、御土居は近現代施設の地盤として利用されていたのである。


京都市街中央北部の聚楽第西外堀跡地とみられる森に続く路地と古い長屋群
聚楽第西外堀跡地とみられる森に続く路地と古い長屋群

聚楽第関連地へ

御土居の次は、それに関連する聚楽第関係地へ。特に最近の発見があった訳ではないが、移動の途中なので寄ることにした。


京都市街中央北部の聚楽第西外堀跡地入口にある、旧華族一柳家が建てたという木造古民家
聚楽第西外堀跡地入口にある古い家屋

元は旧華族一柳(ひとつやなぎ)家が建てたものだという。


賑やかな千本通裏とは思えない静けさと緑を保つ、京都市街中央北部にある聚楽第西外堀跡地
賑やかな大路・千本通裏とは思えない西外堀跡地

そして、旧一柳氏家屋横の土道から、堀跡を見学。そのものの姿はないが、森なかに窪地や土壇状のものが残る。中途半端に埋められた痕跡か。

10年程前に新聞随筆の取材で訪れ堀跡を直感したが、江戸期等の絵図や復元図になく、本丸推定地よりも遠かった為、当時は言及すらされない場所であった。

しかし、その後の調査により付近で掘肩等が検出され、堀跡である可能性が高くなったのである。


聚楽第西外堀跡との関連が窺われる、京都市街中央北部の古い平屋が建ち並ぶ不自然な街なかの窪地
古い平屋が建ち並ぶ、街なかの不自然な窪地

途中、森なかの洋館ギャラリーを見学し、その後、友人の1人が知る、近くの窪地にも行ってみた。なるほど、確かに周囲の土地より1m程窪んでおり、階段も付けられている。しかも、その北向こうには先ほどの森が……。

あとで調べたところでは、この辺りは西外堀推定地の南端辺りで、森なかのものが続いていたとみられるのであった。

車も通れない狭小路地の奥にあってこれまで気づかなかった為、個人的な新発見であった。


聚楽第南外堀跡と目されてきた、京都市街中央北部にある松林寺の窪地
聚楽第南外堀跡と目されてきた松林寺の窪地

続いて向かったのは、南外堀跡地と推定される松林寺境内。鷹峯・西陣台地の末端で、嘗ての水源地帯とされる出水通(でみずどおり)南の立地は正にそれに適うものであった。

境内には幅50m、長さ100m、深さ数mにも及ぶ矩形の窪地があり、正しく大堀の痕跡を思わせた。しかし、意外にも近年の調査では、その想像が揺らいでいるという。

しかし、こんな街なかに、人造と思われるこのような窪地があるのも不自然である。まあ、今後の調べを待つほかあるまい。


北からみた、聚楽第南外堀跡と目されてきた京都市街中央北部・松林寺の窪地
松林寺の窪地を北より見る

車裏の墓地が最も低くなっている。排水は大丈夫なのであろうか。


中心横一文字に堀跡が見える、京都府庁北側で発掘調査される上京総構遺構

最後は町衆の総構

松林寺を後にして本日最後の遺構、上京総構遺構に向かう。場所は聚楽跡地を東進した、京都府庁北側である。

到着時には既に暗くなり始めていたが、塀の隙間より見るそれは明瞭であった。写真中央の溝が水堀で、手前側に土塁や築地があったようである。

上京総構は、応仁の乱で荒廃した京が、上京と下京で復興した際にそれぞれ構築された都市防壁。これまで絵図や文献上には記載されていたが、現物が発見されたのは初めてであった。

その規模は幅5m、深さ3.5mで、東西75mの長さで発見されたという。構であることには間違いなく、更に続くとみられるその規模から、上京全体を囲っていた総構の可能性があるという。

聚楽第構築に伴う大名屋敷の建設で埋められたとみられるので、先ほどの遺構より古いものである。秀吉による京都改造以前の遺構は少なく、その様子もわからないことが多いので、興味深い遺構である。


前日の昼間撮影した、中心に堀跡が見える、京都府庁北側で発掘調査中の上京総構遺構
同じく上京総構遺構。前日通りかかった際、撮っておいたもの

以上の見学を以て臨時平会は終了。

出来れば、最近伏見で見つかった幻の豊臣城塞・指月城(しげつじょう。初代伏見城)の石垣遺構も見たかったのであるが、自転車では距離があるため、まあ仕方あるまい。

とまれ、急な開催となったが、よい巡検が出来た。皆さん、お疲れ様でした!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会
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