2016年12月18日

師走道会

古代京の都と嵯峨野を結んだという「千代の道」考察の攪乱者?「千代ノ道町」の電柱表記

晴天・温暖に恵まれて師走平会完了!

本日予定されていた平会(ひらかい。内容は「道会」「墳会」)は無事終了。師走ながら、快晴と温暖に恵まれた良い巡検が楽しめた。

今回は、古代、現京都市街北西の嵯峨野にあったという「千代の古道(ちよのふるみち)」の跡を求めつつ、広く嵯峨野・太秦地域を探索した。

果たして、その結果は……。


上掲写真: 「千代の道」考察の攪乱者?「千代ノ道町」の電柱表記。


明治22年測図仮製地形図に藤氏晴嵐が加筆した「千代の古道」推定路図
「千代の古道」推定路(クリック拡大)

今回の平会も、古い道を追う為、昔の地図を用意する。今の地図では近代以降、特に戦後に出来た新道や建屋の所為で、旧路の考察がし難い為である。

用意したのは、嵯峨野を初めて近代測量によって描き出した明治22年の地形図や、初の大縮尺図である大正11年の初版都市計画図等。

平安古道「千代の道」

ところで、「千代の古道」とは、平安初期以前に嵯峨野に通じていたとされる古道で、在原行平(弘仁9(818年〜寛平5(893)年)の古歌が初出だとされる。そして、それ以降、定家卿や後鳥羽院等の歌に詠み継がれててきた。

それらによると、嵯峨野北方の大覚寺北隣辺りにあった嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」へ通じていたとみられることが推察されるという。始点は不明だが、離宮との関連からみて、平安京か、そこから西にのびた道の分岐地が考えられる。

行平の時代既に「跡」と表現されていることから、嵯峨上皇の死後間もなくして廃滅に瀕したらしく、現在その跡を辿れる痕跡はない。推定されるルートも所説あり、そもそも文学上の記述にしか見られないものなので、実在はなく、概念的なものだったとする説もある。

一先ず主な推定路は下記の通りで、今回はそれらを辿りつつ、嵯峨野の古跡を巡ることとした。

1. 双ヶ岡南から常盤・広沢池を経て嵯峨院跡に至るルート(上図赤線)。
2. 太秦広隆寺前から大覚寺南に至るルート(同青線)。
3. 梅宮大社から現「千代ノ道町(旧字名・上街道)」「秋街道町」を経て大覚寺南に至るルート(同緑線)。

この他、鳴滝の中道町辺りからの広沢池経由のルート想定もあるが、明治図や元禄図に記載がないことと(道が廃滅しても部分痕跡が残る可能性が高い)、元より双ヶ岡(双ヶ丘)に阻まれて都との連絡が悪いことなどから省いた。


平安京西北端部とみられる、現妙心寺境内から続く平地面が西方の「西の川」で途切れる場所

初の自転車巡検は平安京端部から

前夜に予定を変更して、今朝は千本今出川の喫茶店で集合。皆で朝食をとりつつ、資料配布や打合せを行なって出発。

今回平会は初の自転車巡検。交通機関の都合に縛られることなく、自由に行動出来て好ましい限り。

そうして最初に訪れたのが、今日の開始地点に相応しい平安京西北端部。写真がそれで、現妙心寺境内から続く平地面が西方の「西の川」で途切れる辺り。

道は西の御室側に向かって急激に下がり、台地か整地面の西端であることがよくわかる。平安京の明瞭な西端遺構は判明していないようであるが、想いを馳せるには良い場所である。


京都市西北・花園と御室の境界にある、西の川と平安京側(右)の崖面
西の川と平安京側(右)の崖面

平安京東端に想いを馳せたあとは、御室の低地を南下して法金剛院(ほうこんごういん)に至る。双ヶ岡南東麓にある平安末期創建の古刹で、境内の裏山に古墳があり、南には遊猟地として知られた湿地が嘗て広がっていた。

今は寺の庭池として僅かに残るそれを見学して、往時の景観を想像する。戦後建設された新丸太町通や鉄道高架等が東西に横切る市街景となっているが、注意すると宅地の中などにも低地の様が窺えた。


京都市西北・鳴滝の住宅地端に登拝口が覗く文徳天皇陵推定地
住宅地端に登拝口を覗かせる文徳天皇陵(推定地)

候補外ルートで嵯峨野入り

法金剛院からは、丸太町を西にして双ヶ岡西麓に入る。

個人的な千代の道最有力候補の、1の赤ルートの遡上も考えたが、商業地となっていたので、一先ず候補外の中道ルートを辿ることとした。

しかし、ここも比較的新しい感じの宅地となっており、風情には乏しかった。よって、道の写真を撮ることは早々に諦め、付近の古跡案内に注力することとした(笑)。

最初は文徳天皇陵。千代の道の跡が残っていたとみられる、平安初期の文徳帝の陵墓とされるが、築造形式・年代が合わず疑義が呈されている。

良く整備された長い参道を渡り、文徳池を経て陵前を参観。入口から距離・曲折があり、丘の突端を利用した豊かな緑と相まって、興趣ある風情を有している。


浩々と池底を広げる、水のない京都嵯峨野「広沢池」
浩々と池底を広げる、水のない広沢池

陵から中道ルートに戻って西進し、まもなく広沢池に到着。景色を得てただちに違和感が生じたのは、池の水が抜かれていたため。恒例の冬支度である。池端では、これまた恒例の池魚の直売も行われていた。

水はなけれど、浩々たる様が晴天に広がり心地よい。気温も上がってきた。

暫し皆で休息……。


耕地の只中にある、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基

六ツ塚となった七ツ塚古墳

休息後、池畔北東部にあるという、平安期の遍照寺(へんしょうじ)遺構見学を試みるも、竹藪の迂回の面倒と本題ではない為、途中で断念。

その後、近くの田圃中に点在する嵯峨七ツ塚古墳群を見学。その名の通り、7つの古墳からなる古墳時代後期頃に造られた小古墳群で、写真はその内の1つ。


農道の先に見える、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基
同じく七ツ塚古墳の1つ(左の、松がある小丘)


京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基の傍で見つけた、加工された石片?
七ツ塚古墳近くの路傍で見つけた、加工を受けた石片?

とても軽く、断面に細かな積層もある為、木材かとも思われたが、硬さはあった。錐状のもので開けたとみられる穴の隣にも同様の穴跡が。詳細不明、存じの方がおられらば、ご教授願いたい。


田に囲まれて近寄りがたい、京都市街北西・嵯峨野「七ツ塚古墳」の内の1基
七ツ塚古墳の1つ

田に囲まれている為、近寄りがたいもの。この条件で、よくぞ千四五百年間姿を保ったものである。因みに、宅地として破壊されたもの(場所)も確認した。よって、現在は七ツ塚ではなく、六ツ塚のみの現存である。

これ以上、減らされないことを願うばかり。勿論、負担大きい地権者にも便宜が図られつつ……。


水面に冬枯れの蓮のぞく、京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」の池
水面に冬枯れの蓮のぞく大覚寺の池

七ツ塚から嵯峨野北辺の山際に移動し、山麓の陵や朝原山古墳(古墳時代後期)を見学。

そして、大覚寺の池畔にて、少し遅めの昼食を採った。既に上着の要らない陽気となり、一同暫し芝生上に寛ぎ、食べ、語らう。


京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」南にある、大覚寺古墳群の内の、石室が露出した1基

大覚寺古墳群

昼食後は、大覚寺南の大覚寺古墳群を見学。写真はその内の1つ、入道塚古墳。石室が露出し、あまり高さもないが、これも古墳時代後期のものという。

畦を伝い、なんとか近寄れた(笑)。


京都市街北西・嵯峨野「大覚寺」南にある、大覚寺古墳群最南部の狐塚古墳の石室口
大覚寺古墳群最南部にある狐塚古墳(古墳時代後期)

こちらは、円墳の体裁保っており、石室の状態も良好。


朱の鳥居と柵で飾られた、京都市街北西・嵯峨野「広沢」の広沢古墳群の1基「稲荷古墳」

広沢古墳群

大覚寺古墳群の次は広沢池近くに戻って、広沢古墳群を見学。写真はその一つである稲荷古墳(古墳時代後期)。名の通り、上部にお稲荷さんが祀られ、後代・現代の聖地と化している。


京都市街北西・嵯峨野の広沢古墳群の1基で、広沢池前の公園内に僅かに残る広沢3号墳
広沢古墳群の1つ、広沢3号墳(古墳時代後期)

なんと、池前の児童公園内にあった。知らないとただの植え込みにしか見えないが、当時のものらしい。


京都市街北西・太秦の道端崖上にある地域最古級の大型古墳「仲野親王高畠陵」

広隆寺ルート探りつつ最大古墳へ

さて、本題に戻り、広沢池南からのびる古道を辿って、2の青ルートを探る。途中、古い分岐で江戸期の道標を見つけ、前近代よりの街道であることを再確認したが、直接千代の道に繋がるようなものはなかった。

写真は道端の崖上にあった大型古墳。平安前期の皇族、仲野親王の高畠陵として宮内庁管理となっているが、古墳時代中期(5世紀末頃)築造とされる地域最古級のもの。変形台形型の変わった形で、大覚寺古墳群等にも同様がみられるという。


京都市街北西・太秦の住宅街に府内最大級という石室のみ残る蛇塚古墳

巨石に圧倒、蛇塚古墳

太秦区域に入ったので、折角ならと、近くにある府内最大級の石室を持つとされる蛇塚古墳を見学することとなった。写真はその姿で、横長の巨石下部に見える白い枠は崩落防止用の鋼材である。

嘗ては全長75mの前方後円墳であったが、戦後破壊され石室のみが住宅街に残る。古墳時代後期の築造とみられ、被葬者は当時近隣に勢力を有した秦氏の首長とされる。

秦氏はこれまで見た古墳とも関連しているとみられる、古代嵯峨野を考える上で欠かせない氏族である。


京都市街北西・太秦の住宅街に石室のみ残る蛇塚古墳の内部
蛇塚古墳の石室内部

当初は周囲からのみの見学予定であったが、以前見学した参加者の1人が、手続きをしてくれて、幸運にも内部参観が叶った。


京都市街北西・太秦の蛇塚古墳の石室内部奥側の巨石と、撮影する平会参加者
蛇塚の石室(奥側)

天井の石は持ち去られたか。しかし、とんでもない巨石が使われている。正に圧倒の迫力。こんなものを何処からどうやって運んだのか。聞けば、この石室の規模は、政権中枢との関連が深いとされる奈良石舞台古墳に匹敵するものという。

それらのことから、地方豪族の所産とはとても思い難くなったのであった。秦氏関連ということで諸々決着されている観があるが、まだまだ謎は多いのかもしれない。


マンション裏の駐車場に接し、ゴミも多く、荒廃した観がある、京都市街北西・嵯峨野千代ノ道町の「千代の道古墳」

千代ノ道町ルート探索

蛇塚見学後、近くを流れる西高瀬川に沿って西行し、3の緑ルート探索を始める。このルートは東西路が多い所説中、珍しく南北を想定するものである。

その根拠の1つになっているのが、「千代ノ道町」という地名。しかし、同地は戦前「上街道」と地図表記されており疑問が生じる。また、北隣に「秋街道」という別路を指すような地名もある為、南北連続した道というより、それぞれに東西方向の街道があった可能性も窺われるのである。

写真は千代ノ道町内にあった古墳、千代の道古墳。想定南北路よりかなり東よりにあり、規模も小さい。良好に残存するという円墳らしいが、マンション裏の駐車場に隣接し、ゴミも多く、荒廃した観がある。


古い町並み風情が残る、京都市街西北・嵯峨野「高田集落」の夕景

南北路を梅宮社近くまで南下して、また戻った。写真は、その途中の高田集落。他と違い古い町並み風情が残っている。


「千代の古道」南北推定路から見えた、京都市街西北の嵐山・亀山・愛宕山等々の夕景
南北推定路から見えた嵐山・亀山・愛宕山の夕景

古道の確証得ず
新たな南北支路説考察


北上し、そして最後に1の赤ルートの未見部分も走破。しかし、何れも市街化が著しく、千代の古道の確証を得ることは出来なかった。何せ、1200年近くも前の古道である。ある意味無理なのは致し方ないことと言える。

一応、その他の史料から、改めて(まあ軽く)考察してみた。初出の行平の和歌によると、古道は「嵯峨の山」の付近で、「芹川」の傍にその跡を留めていたという。これを厳密に解釈すると、中世以前に芹川の名があった現瀬戸川辺りにあったと思われる(鳥羽の芹川とする説もあるが、嵯峨とセットなのでそれはあり得まい)。

明治図(上掲推定路図)左端に加筆字の「渡月橋」が見えるが、その橋の字の辺りで大堰川(桂川)に注ぐのが瀬戸川である。図では途中で切れているが、この河口辺りから大覚寺参道までの直線路を想定できる。

河口にある堤防上の東西路は、広隆寺を経て平安京二条大路と接続されていたとされる古道である。しかも二条大路は平安宮正面に接する基幹大路。広沢へ斜めに向かう道より迂遠となるが、行幸路としては最適かと思われるのである。

ということで、二条大路からの南北支路としての新たな千代の古道説を、一先ず挙げたいと思う。

自転車企画成功!

さて、一行の探索も終り、丁度日暮れに。清滝道の喫茶店にて一先ず休憩し、その後、中心市街へと戻り、参加者馴染みの中華屋にて打上げ夕食会に。そこは奇しくも千代の古道縁の二条通沿いであった。

初の自転車平会。広範に移動することが出来、中身濃い一日を過ごすことが出来た。自身としては予想以上の成功。また是非企画してみたい。

とまれ、皆さんお疲れ様でした。良い一日を有難う!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会
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