
節分といえば
2月3日節分。
例年寒さが極まる頃で、近日もその状況にあったが、今日は比較的マシであった。まあ、マシとはいえ、冬の寒さが感じられる気候であることには違いない。
夕方、仕事の手を止め、吉田社へ向かう。毎年恒例の正月連飾りの処分をする為である。半ば日課の、夕刻の運動・散歩を兼ねて歩いて出かけた。片道15分程ではあるが、ひと山越えることとなるので、一日座り仕事の今日なぞは良い運動になる。
境内に着き、はじめに、特別参拝が叶う「大元宮(だいげんぐう。正式は濁音無し)」を参拝。大元宮は吉田神道の根本神を祀る八角形の社殿周囲に旧令制国の神々が祀られている利益(りやく)多き場所。寺院でいうところの、御室八十八か所のようなものであろうか(笑)。
特に、うちは先祖三国の薩摩・大隅・日向が固まっているので至便である。
上掲写真: 暮れなずむ空と、特別公開中の大元宮社殿。後方に続く朱の扉の列が全国の神々の社で、大元宮の左右に並ぶ。

火炉祭リニューアル(?)復活
大元宮から、祭屋台が続く吉田山中の参道を抜け、本殿に至る。まだ時間が早い所為か、人は多くあるも、歩き難い程ではない。もしくは、近年中止となった火炉祭の影響か……。
火炉祭は、集められた大量のお札や御守り・注連飾り等を一度に燃やす神事で、吉田節分祭の山場的行事。そういえば、2年前突如中止となったことと同様に、最近急な復活が報じられた。
という訳で、本殿前の広場には、写真の如く、今晩焚く為の火炉と古札類の準備が成されていた。懸案の焼却灰処理の目途がついたようである。但し、以前のように写真や人形等の何でも受け付けられる訳ではなく、古札・御守りの類のみで、しかも包装物等は無しということとなった。
以前は何でも放り込まれていた状態だったので、喜ばしいというか、正常化したとすべきか(豚の貯金箱やおもちゃの様な物まで焚かれ、怪しげな青白い炎や黒煙をあげることも多かった)。
火炉祭史伝をミスリード?
とまれ、地元に馴染みある行事が復活したことは喜ばしい限り。しかし、気になることが一つあった。それは、火炉祭が室町期から続いているような報道がされていたことである。そのようなことは吉田社も公言しておらず、私も社家筋から、比較的最近、半ば客集め的に始められたとの話を聞いている。
因みに地元の京都新聞では「節分の深夜に行う火炉祭は、室町時代に全国の神々をまつる境内の大元宮前で実施したのが始まりで、古札を燃やしてお札に宿る神々に帰ってもらい、年の厄をはらって立春を迎えるとされる」と報じられ、他社でも同様の表現が見られた。
確かに、注意して読むと、室町期の大元宮前の火焚き神事と、現在の本殿広場の火焚きとは異なるものと解釈できるが、通常は同一のものと読み違える可能性が高いであろう。所謂ミスリード(誤解誘導)か。そう考えると、報道機関だけの責任ではなく、明確な説明をしない(しようとしない?)吉田社にも責任があるのではないか、ともいえる。
些細なこととも思われるかもしれないが、史学の徒としては看過し難い。我々は、噂や誤解・嘘の類が「真実」と成りかねないことを、経験上知っているからである。

大元宮への参道を進む、赤鬼と青鬼と黄鬼?の列
半氏子の箴言、ご容赦
注連飾りを神職の検分ののち預け、本殿参拝後、境内をあとにした。僅かな時間差だが、帰りには人が急増し、少々通行に難儀する程であった。
本殿前では恒例のお祓い受付をしていた知己の市議鈴木氏やその奥さんと話したり、帰路の参道で建築家森田氏の奥さんと偶然会って話したりする等の交流もあった。皆、吉田社縁の人達で、私も僅かながら氏子的な関係である。
今回はその縁の吉田社に少々辛口なことも記したが、親身故の箴言としてもらえたら、幸いである。