2017年03月20日

初登男山

京都・石清水八幡宮麓にあり、その参道の始まりとなる頓宮前の「一ノ鳥居」

交通不具合で予定変更

今日は、知人から貰った博物館展示の招待券をもって大阪南部に行く予定であったが、電車が事故で止まり、更にその後も混乱が続いて時間的に厳しくなったので中止とした。

しかし、既に乗車していたので、途中下車し、意外にもこれまで行ったことがなかった石清水八幡宮に寄ることとした。

最寄りの京阪八幡市(やわたし)駅は京都・大阪府境に近い場所。通常なら普通列車でも20分強で着くが、事故復旧後の混乱にあった今日は1時間近くかかった。

石清水八幡宮は府境の小山上に鎮座する社なので、駅近くからケーブルカーが運航。しかし、昔ながらの参道を味わいたかったので、徒歩での参観を試みた。


上掲写真: 石清水八幡宮麓にある頓宮前の「一ノ鳥居」。参道の始まりである。


頂部に京都・石清水八幡宮がある男山中腹の参道脇に続く神宮寺子院跡平坦地と、その縁の石垣

男山登拝

一ノ鳥居とその後続く頓宮境内を抜け、参道の登坂に入る。駅前案内所の係氏の勧めに従い、表裏2道ある参道のうち、表参道を選んだ。

写真は、急崖をつづらで登った後に参道脇に現れた石垣。階段状に続く山中の大きな平坦地端に当たり、明治初年の廃仏毀釈以前に栄えた神宮寺の子院の跡という。神仏習合の典型地らしく、その規模や数は実に大なるものであった。


頂部に京都・石清水八幡宮がある男山中腹の、参道脇に続く神宮寺子院跡平坦地縁の、「隅切り」が施された石垣端部
同じく子院跡石垣の角

角に面が付けられた、珍しい「隅切り」の処理がされている。方角的に表鬼門に当たるので、敢えて構築されたものか。

しかし、この端面から下方の見通しかなり良いことから、戦時転用可能な銃撃用櫓土台とも考えられた。もしくは、単に荷重耐性か、角用の算木石材の不足を補う等の土木的理由に因るものか……。

とまれ、男山は、京(のちには伏見も)・難波・奈良に通じる古道と淀三川に接する要地で、南北朝の昔から城が営まれた場所。色々な可能性が考えられよう。


頂部に京都・石清水八幡宮がある男山の、山上近くに現れた竹藪

山上近くになって写真の如き竹藪が現れた。

そういえば、男山の竹はエジソン最初の実用化電球のフィラメントに使われたものであることを思い出す。確か境内どこかにその記念碑がある筈。

思わぬところで小学校以来の知識を思い出した。


頂部に京都・石清水八幡宮がある男山山上の、本殿地区南端の出入口と石垣や土塀
山上の本殿地区南端の出入口

要害的山上部

やがて登坂が終り、山上の大きな平坦地端に出た。本殿がある中心地区である。

本殿の標高は120m強(wiki等にある140m強は誤り)なので、そこの高さはそれに近いものかと思われた。

写真はその背後、つまり本殿前参道の南端にあった出入口。八幡市南部に下る谷道の始点で、その位置や方角的に元来の要地と思われた。

気になったのは、右横の石垣と門状に設けられた古い築地塀。土塀は、その剥落箇所から、鉄砲防御の役割もある瓦の仕込みが覗いている。

因みに、一ノ鳥居辺りの標高は11m程しかない。つまり、男山は僅かな高さとはいえ、急峻な要害地形を成しているといえる。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮の本殿前参道南端の「三ノ鳥居」
本殿前参道南端の「三ノ鳥居」


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮の本殿前舞台の傍で催事の準備をする古代風衣装を着た人たち

広く平坦になった本殿前参道を進み、やがて本殿に至る。

修復間もない為か、朱塗りが鮮やかな本殿前には特設状の舞台が設けられており、古代風の衣装を着た人たちが何かの準備をしていた。

恒例の「桜まつり」に合わせた催事らしく(開花は全くないが)、この後、奉納の舞等が披露された。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮本殿地区を囲う信長好みの瓦仕込み築地塀「信長塀」
信長好みの形式のため「信長塀」と呼ばれるという、瓦仕込みの築地塀

本殿付近で一番目についたのが、本殿地区を囲う豪壮な写真の築地塀。やはり先ほどの古塀と同じく、瓦が仕込まれている。神社には珍しいもの。

本殿は、京郊東山の寺院群等と同じく、江戸初期(17世紀前期)に徳川将軍家光が整備したと伝わるが、やはり、有事の城塞転用が意図されていたのであろうか。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮本殿地区の北方にある展望台から見た、京都市街とその奥の比叡山

突出地形にある展望台

本殿参拝後、その北側へと回り展望台なる場所へ着いた。

写真はそこからの眺めで、東北方面の京都市街とその奥の比叡山の頂が見える。

そういえば、石清水八幡宮は平安初期(9世紀半ば)に、平安京裏鬼門の守護も兼ねて造られたものであったことを思い出す。

つまり、相対する叡山は、表鬼門の護りである。

展望台は三方の眺望に優れた突出地で、もし、古くからあるものだとすると、城塞の物見台に相当しよう。麓の街道や三川並びに都方面の動向が一目で把握出来るからである。

もし、この推理が正しければ、本殿台地とこの突出地の間には堀切の跡が埋まっている筈である。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮裏参道を下る途中に見た、郭的な森なかの大きな平坦地

北風が冷たく感じられた展望台を後にして、下山を始める。帰りは裏参道の名がつく、往路の北よりの道である。

表参道より細いつづらの道が続くが、木立の中には、写真の如く無数の平坦地が見られた。しかもその一つひとつの面積が大きい。

それらは、子院を兼ねた防御用の「郭」としての役割があった可能性も窺われる。

しかし、全山かなりの規模で改変を受けている。将来研究が進めば、観音寺城等に匹敵する山城として認識されるかもしれない。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮裏参道を下る途中に見た、霊泉「石清水」を祀る社

石清水の原点的霊泉

つづら道の途中で、石清水の名の由来となった石清水社に立ち寄る。

古代からの霊泉「石清水」を祀った社で、本殿創建以前の信仰原型を伝える聖地。

ただ、水量が減った等の為か、個人的には水源特有の生気・瑞々しさのようなものは感じられなかった。


京都八幡の男山山上にある石清水八幡宮裏参道を下る途中に見た、参道向こう側平坦地の松花堂跡

山内立地から見えた
松花堂のもう一つの顔


石清水社の直下には、彼の寛永三筆・松花堂昭乗縁の「松花堂」跡があった。

写真の参道向こうの台地上がそれで、何段かの平坦地となっている。ここの住職であった昭乗は、引退後の江戸初期に草庵・松花堂を建てたという。

それらは廃仏毀釈で破壊の危機に瀕したが、麓に移築され難を逃れたという。

裏参道は松花堂跡の入口である写真右端に下ったあと、左に進路を変え谷中を下り表参道と合する。実は松花堂跡はこの裏参道と背後の表参道狭間の尾根上に構築されている。

つまり、本丸的な本殿方面に上がる際の分岐要地であった。このことから、文人として著名な松花堂昭乗の知られざる顔、役割のようなものの存在も窺われた。


京都八幡の男山・石清水八幡宮麓の「城ノ内」という地名の古い街なかを流れる、男山とその城下の内堀的役割が推察される大谷川

下山。麓古街にも残る要害痕跡

下山後は、麓の街を散策。

松花堂が移築されている松花堂庭園にも行きたかったが、結構な距離があったため断念。「城ノ内」といういわく有り気な地名を持つ古い街並等を巡った。

写真はその近く、即ち男山山麓に沿って流れる大谷川。河岸上部には近代改修以前の古い石垣の姿も見受けられた。恐らく、これも内堀的役割があったのかもしれない。

この後、駅前の古い茶店で餅と茶による休息を過ごしてから帰宅した。

今日は予定が狂い、思わぬ場所の散策となったが、一先ずは色々な知見を得ることが出来た。見逃した松花堂を含め、また近々再訪したいと思う。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行
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