2017年05月14日
緑候津会
旧路たどり大津へ
去年の12月以来の開催となった今日の平会。
今回もまた希望を承けて自転車での巡検企画となった。場所は滋賀県大津。古くから京の外港、湖上交通の要として重きをなした街である。
京とそこを繋いだ近世東海道跡を経て、その旧市街へ目指す。
上掲写真: 今は国道や高速路・鉄路に「上書き」されてしまった旧東海道の、逢坂(おうさか)峠付近に残る日本画家・橋本関雪別邸。玄関前の井戸は江戸期の名所図会にも描かれた名泉「走井(はしりい)」。但し、後代設置で、本来的なものは奥庭にあるという。
朝は京都市街東部の老舗パン店併設喫茶室に集合し、優雅に(笑)店の自家製惣菜パンによる昭和的朝食を済ませて出発した。
写真は、南禅寺境内から東海道跡の現三条通へ向かう平会一行。向こうに見えるトンネルは、琵琶湖疎水の施設「インクライン」を潜る為の隧道「ねじりまんぽ」で、捩じる様に組まれた煉瓦が特徴的な明治期の土木遺産。街道と同じく、大津と京(都)を結ぶ、象徴的存在。
街道残る山科をゆく
国道と旧東海道の残存部を辿りつつ日ノ岡峠を越え、京―大津間に広がる山科盆地に入る。その北部には国道と分離された旧路が良く残されており、自転車行には有難い。ただ、各駅前を繋ぐ道路でもあるので、狭い割には四輪車の通行も多く、注意が必要。
写真はその北部・四ノ宮の地にある「徳林庵」。京六地蔵の一つで、古来信仰厚い通称山科地蔵の名で知られる佛寺。街道に面して開放的な造りのそこは、近世には飛脚らの休憩地となっていたという。正に古の「道の駅」。我々も峠越えの小疲労を暫し休めた。
徳林庵境内に残る古い釜と炉。旅人へ供された茶用であろうか
休息後再び旧街道を走り、京都東インターによる断絶越えて傾斜の強い旧道をのぼる。京都と大津の界・逢坂峠への登坂の始まりである
登坂途中の街道分岐「追分(おいわけ)」。現地名・駅名にその名が残る、東海道と奈良街道の分岐部
いよいよ国道沿いの山間登坂に入り暫しすると、写真の如くひらりと五月風に翻る暖簾が……。
橋本関雪の別邸「走井居」、即ち彼が開基の禅寺「月心寺」にて開かれていた週末限定の蕎麦店であった。食に目のない参加者の気掛かりとなり、境内拝観と休息を兼ねて寄ることとした。
月心寺と走井居の庭園
瀟洒な京風日本家屋にて庭を眺めつつ手打ち蕎麦を頂く。正に表の交通喧噪とは異次元の風情であった。夏なぞはさぞや涼しかろう。
写真には写ってないが、室町期の才人「相阿弥(そうあみ)」作という山肌斜面の石組みも見事であった。
建屋以外は近世の茶店跡らしく、有名な「走井餅」が売られていたが、交通事情の変化により閉業し、関雪が買い取り井泉と庭園の保全を兼ねて利用したという。
茶店は3月に行った男山門前のそれとなり、その歴史を継承している。
月心寺で頂戴した案内冊子
先程通過した追分の、近世の様子が描かれた図が添えられていた。今とは違う賑わいぶりが窺われて興味深い。
大津旧市街入り
月心寺を後にし、間もなく大谷(おおたに)の集落を越えて峠を越える。大きく掘り落とされた国道区間で、往時の面影はないばかりか、歩道や路肩がない場所もあり、危険ですらあった。
やがて大津の街が見えるあたりで横にそれて写真の場所を見学。旧東海道本線・逢坂山隧道の大津口(東口)である。明治13(1880)年に開通し、新たな隧道と路線に変更される大正10(1921)年まで使用された。日本人独力で施工した初の山岳トンネルとして貴重。
当初は単線であったため左のものが古く、右は複線化により18年後の明治31年に増設されたという。
旧東海道線隧道跡から更に道を下ると、間もなく現在の東海道本線と遭遇
複々線で、奥の複線にある煉瓦隧道が大正期のもの、手前のものは昭和の増設。
浜大津港での休息。湖面右端に写るのは遊覧出航する観光船「ミシガン」
残念ながら再開発の名の下に大規模な破壊が続く大津旧市街に入り、そのまま湖岸の浜大津まで下りきった。休息を兼ね、一先ず湖岸の芝生にて昼食とすることにした。
城郭跡の旧遊郭
昼食後、旧市街の散策を開始。自転車と、時にそれを置いた徒歩によるものであった。
写真は大津城の痕跡を探りつつ見学した旧遊郭街の建物。城も遊郭も旧市街の西側にある。遊郭街は前近代的趣が強く残る場所にあるため、城の痕跡とも近い関係にあった。
当然ながら、妓楼は現在は営業しておらず、その建屋も大半が無人となり荒れるなど、廃滅の危機に瀕していた。写真もその一例。元は贅を凝らした和風建築なのだが、既に水がまわり倒壊の兆候が目立って著しい。
妓楼建築によくある軒下照明
1階や2階の軒下にあり、間口にもよるが、3個程付けられることが多い。器具は戦前のものであろう。以前行った橋本遊郭跡では灯火管制の布が付けられたものさえあった。
大津遊郭では珍しい洋館風建築
タイルやレリーフを含めた意匠が素晴らしい。恐らくは前面だけの「看板建築」で、骨格や奥の間は木造和風だと思うが。使われずにあるのが勿体ない。
旧遊郭街只中を流れる小川と古い石垣
大津城の堀との関連が指摘されているものである。遊郭街に限らず、旧市街西側に多く残る。勿論、防御施設としての堀は、本来もっと幅があった筈なので、廃城後狭めれれたということが前提であろうが。
「大津城縄張推定復元図」(大津市編『図説大津の歴史 上巻』1999年刊より)
幻の大津城
大津城は、坂本城の廃城に伴い天正14(1586)年頃に城下町共々代替建設されたものである。羽柴秀吉による近江支配の一環とみられ、豊臣系大名が入れ替わり城主となった。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、城主京極高次(きょうごく・たかつぐ)が西軍の猛攻に暫し耐えたのち開城したが、結果的に東軍の勝利に貢献。戦後は膳所築城に伴い廃城となり、その跡は港湾施設や町家域となった。
存在期間が短く、絵図や縄張図も伝わらない為、幻の城と化したのである。
上の復元図は、平成10年頃までの研究や実地調査に基づいて作られたものだが、史料が乏しい為、発掘調査が進む本丸以外の精度は高くないと思われる。
ただ、興味深いことに、国宝の彦根城天主は解体修理時に発見された墨書により大津城の転用材が使われていることが判明している。
また、外堀の幅が36m程もあり、全体としても縦横500m以上の規模があったことは確実とみられている。そうでなければ、15000人もの西軍を釘づけすることは不可能であろう。
とまれ、堀跡はそのまま埋められている筈なので、今後の発掘で明らかにされることを期待したい。
遊郭街外れの路地
壊れ、寂れゆく大津旧市街
人のみが通行可能な路地が多くあり、その中には人家の中を通って抜けられるものもあった。公私混ざり合ったアジア的・前近代的街並み――。
しかし、この付近も再開発による道路拡幅と取り壊しの嵐が吹き荒れていた。古くからある寺院でさえ、その猛威に曝され破壊を受けていた。
その後、東部の商家域で、大津祭の鉾町でもある市街東側を経て湖岸埋立地の喫茶店で休息。本来なら旧市街にある古い喫茶店に行きたかったのであるが、商店街を含め壊滅状態にあった。
そもそも町家域の商業的雰囲気が消え、急激に雑多な住宅街へと変わりつつあった。かつて、都の祇園鉾町とも張り合った大津町衆の活躍故地としては寂しい限り。
明治23(1890)年完成の最初の琵琶湖疏水・第一疏水の水門(左)と閘門(右)。後者は水位差を減じて船の航行を易くする
最後は西郊長等地区見学
のんびり巡っていたので、はやくも夕方となった。市街西郊の園城寺(三井寺)・大津宮跡や東郊は芭蕉ゆかりの義仲寺(ぎちゅうじ)等にも行きたかったが、まあ次の機会か……。
最後は西部の長等神社や疏水施設を見学することに。長等神社前に残る素朴な近世版画「大津絵」の店も紹介したかったが、残念ながら閉店。店前での解説のみとなった。
そして疏水の方は琵琶湖に面する取水口まで行って閘門(こうもん)跡等の明治の遺産を見学した。
長等山に吸い込まれる様に流れゆく第一疏水の湖水
古の風情残る「小関越」を山科側へ下る
帰りは古代官道「小関越」に挑戦
そして、長等神社横から東海道の間道「小関越(こぜきごえ)」をのぼりつつ帰途についた。
ここは逢坂越より古いとされる、古代の北陸道の痕跡とされる古道。今は地元しか知らない細道と化したが、大津の古代を考える上では欠かせない道であった。また、緑多く、車輌も少ないので自転車や徒歩には良い趣も含んでいた。
しかし、登坂がきつい。当たり前であるが、主路となった逢坂越が近世から何度も掘り下げられて改修されているのに比べ、間道となったここはあまり手が加えられていない為である。
皆に良かれと思い計画したが、もはや自転車を押して登るほどとなり、見積もりの甘さを詫びつつ進んだのであった。
峠で一服し(昔あった湧水がなくなっている?)、更に古道風情が残る山科側を一気に下ったのである。四ノ宮ではまた徳林庵で休息。東海道・小関越共に絶妙の位置に寺があることを認識させられた。
そして、国道(新道)経由で日ノ岡峠を一気に越え京都市街に帰着。その後は予約してもらっていた知る人ぞ知る焼鳥店に入店が叶い、打上げ夕食会となった。
比較的ゆったりと行動したが、今日も内容深い一日とすることが出来た。皆さんお疲れ様でした。小関越の足労、ご容赦あれ!
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