
奥北山の八丁集落址へ
「北山(きたやま)」は、旧山城国北部と同丹波国東部に広がる山地で、現在の京都府北中部に当たり、地理学的には丹波高地とも呼ばれる。
京都盆地の北に接するため、古くから木材や薪炭の供給地として、また山陰や若狭等の西国や北国への海道通る場所等として、京都市街と深い関りを有してきた。そして、近代明治以降は身近な登山や余暇活動の場所としても親しまれてきた。
今日は、そんな京都人にとっての馴染みの北山の深部へと向かった。場所は京都市左京区北端と同右京区東北端の山域。区界・旧市町界が走る辺境で、標高800m前後の稜線に囲まれた地帯であった。
そして、目指す先には、その辺鄙故に廃れた「八丁(はっちょう)」の集落址が潜んでいた。所謂「廃村八丁」である。今日は以前より気になっていたものの、奥山故に行く機会がなかった八丁探訪を目的に、梅雨入り前の奥北山の自然に親しむこととなった。
上掲写真: 廃村八丁がある京都市右京区(旧京北町)と左京区広河原境のダンノ峠の枯木(こぼく)。北山歩きの先達である森本次男氏や金久昌業氏ら戦前・戦中世代の著作にある、嘗ての「北山らしさ」を匂わせる光景である。昔の面影、そして往時と同じ静かな北山風情を味わえ、先ずはそれだけでも感慨深いものがあった。

広河原菅原集落と仏谷川。大堰川、即ち遥々嵐山へと流れる桂川の最上流部である
京都市北端広河原から歩行開始
当初は出町柳からバスで行く予定だったが、車の提供があったので、2台で分乗してゆくこととなった。
京都市街から北へ進み、岩倉・鞍馬と山間へ入り、やがて盆地縁の峠を越える。そこからは丹波高地の谷あいの集落を数珠つなぎに北上し、やがて広河原の菅原集落に到着した。
標高約470m。途中つづらの細道を上り標高760mの花脊峠を越えるも、1時間程で着いた。バスの半分程の時間か。

菅原集落から西へ続く仏谷川沿いの道を北上する山会一行
そして、土地の人に駐車出来る場所を聞き、八丁方面から流れる仏谷を少し入ったそこに車を停めて準備し、谷道を遡上しつつ西方へと向かう。時間は10時前。
天気は望み通りの快晴予報で、太平洋と日本海の気象中間地として乱れがちな現地の天候も申し分なかった。気温は涼しいというか、少し肌寒く、山行には丁度良いものであった。

仏谷上流の急登の尾根道をゆく
舗装と土の道を進むこと1q程で沢の分岐と出合う。その真んなか対岸から始まる尾根に乗り、そこから続く道を登る。距離は1Km弱、高低差210m程だが、ノッケからいきなりなので、一部の参加者からは弱音も聞かれた。

初心者等に配慮して、なるべく休憩を多くして対処し、約1時間でダンノ峠に到着した。標高は約760m。前述の通り、北山らしい静けさと昔の風情が残る良い場所である。
ここにて、少し長めの休息をとった。

八丁方面からダンノ峠に接続する古道跡
仏谷から上がる尾根道は比較的新しいルートらしく、峠との接続に古さは感じられなかった。その反面、峠の向こう側、即ち東の八丁側は、荷車や橇の通行も考慮されたような古道風情が残っていた。
因みに仏谷側は、明治中期の地形図によると、尾根ではなく谷に道があり、それが前近代からの峠道とみられる。近年水害等で荒れたのか。

ダンノ峠から登る北回りの尾根道
品谷山経由の北回り尾根道をゆく
峠での休憩後、八丁方面には下らず、南北の尾根筋を北行する。八丁と接続する谷道は帰り道として道を変えたのである。八丁の谷地の北を巻く尾根の古道を踏み、品谷山(880m)を経て北から八丁に入る道程であった。

北回り尾根に早速現れた台杉の巨樹

佐々里峠分岐の頂(863m)と標識
方々で巨樹をみる天然林の尾根道を進み、やがて進路は西へ傾く。ダンノ峠から1km弱程進み、山上の三叉路に出た。佐々里峠から続く道との分岐点である。
佐々里方面も豊な天然林が続き、噂通りの良さを見せていた。佐々里峠向こうの、秘境で名高い芦生(あしう)演習林の森に劣らぬ風情である。

分岐から進路は暫く西南となり、その後西となった。その西南行にて写真の如き秀峰をみる。最奥中央の尖った黄緑の山体である。それは、その方角から滋賀湖西に聳える比良山脈の主峰武奈ヶ岳(1214m)とみられた。

変わらず天然林が続く。尾根上一帯がそれであることは北山では珍しい。大概、境界の尾根筋辺りだけで、あとは植林地が多いからである。
樹種はブナ・カエデ・ホオ等の樹皮の白いものが多い。冷温帯樹林の典型か。そして、写真の如くそれらの大木も幾度か現れた。

品谷山への尾根古道上に散り続く白石
近畿的高地樹林らしい天然林の他、もう一つのこのルートの特徴は、白い岩石が多いことである。それは大小様々あり、樹下を明るくして道の清々しさを、なお一層のものとさせていた。硬質の石灰岩か。

一部荒廃したスモモ谷の古道を下る山会一行
やがて、眺望のない品田山に到着し、少し休んでまた西行し、品田峠(標高約790m)の名がある鞍部から、八丁の北に接するスモモ谷へと下った。
道は植林地等に続く明瞭な古道であったが、沢に水が現れてから崩落や倒木による荒れがみられた。それらを迂回し、また踏み越えて進む。
なお、沢には多くの魚影が見られた。アブラハヤのようである。期待したヤマメではなかったが、標高が高く、豪雪地である厳しいこの環境で、平地に劣らぬ繁栄をみせていることに驚かされた。

石積みで造られた炭焼窯跡
また、谷を下るにつれ、炭焼窯跡が出現。その数は多く、周辺や山上の天然林を使った嘗ての山仕事を想像させられた。

スモモ谷が八丁川に出合う手前に現れた建屋基壇や敷地跡
八丁廃村探索
そして谷を下りきると、写真の如き人家跡が現れた。廃村八丁への入域である。手前の石垣は土蔵か小屋跡か。野面積ながら確かなものであった。
時間は13時45分。かなりかかってしまった。

八丁川沿いに開けた旧八丁集落中心地
スモモ谷から八丁川沿いに入ると、奥山らしからぬ平地が開けていた。この辺りが八丁の中心地とみられ、6戸の内、4戸の家があったとみられる。
写真の右手には道跡、左には耕地や家の敷地跡があり、奥には後年築の三角トタン構造による山小屋があった。
山小屋は元企業山岳部の小屋といい、現在は「村長」を名乗る個人管理者が無雪期に常駐しているとの噂であったが、人影は見られなかった。昭和40年代から存在するらしい小屋は厳しい環境に良く保たれていたが、トタンには錆がまわってきており、近い将来での崩壊を想わせた。

道跡に接する建屋敷地の石組み
後年の補作かもしれないが、野面積と打込接(はぎ)が併用されている。スモモ谷でも大小数多く見られたが、この山域は森林資源は勿論、石材にも恵まれるという、意外の豊かさを有する地であることを知らされた。
因みに、この敷地の左川際に、嘗て名を馳せた壁に絵のある土蔵があったとみられる。

とまれ、北の尾根回りをして漸く八丁に辿り着いたので、土蔵跡近くの河原にて昼食休憩することとした。
噂通りの滞在適地。人が定住したことが納得出来るような、穏やかで温暖な地であった。ただ、標高は600mに達している。そして、少し日陰にいるだけで寒さが感じられた。冬の厳しさとその長さによる苦難も偲ばれた。
食後、慣れぬ長歩きで疲れ気味の参加者に荷を見てもらい、希望者による集落散策を行う。写真は中心平地下流口(西)の道脇にあった祠。素朴な石室(いしむろ)が2基あり、一方のみ古い石仏の安置がみられた。
当初安置が無い方は、形のない山の神等かと思ったが、昭和後期までにここを訪れた先達らの記録には2体あることが記されている。平成に入る前後に、どこかへ持ち去られてしまったのであろうか。

祠は川に下ってきた尾根の端部にあり、道はそれを切り通す様にして西へと続く。写真の如く整備された美麗の道が半間(1m弱)程の幅で弓削(ゆげ。周山)方面へと伸びており、小石による舗装の可能性も窺われた。
尾根のすぐ裏側は分教場と教員住居があった場所で、確かに道の両端にそれぞれ小さな平坦地と基壇の石組みがみられた。気になったのは、それらや道の為に尾根の岩盤がかなり削られていたことである。重機の無い時代、それが持ち込めない時代にそうした施工がされていることに驚く。
公の記録では分教場の設置は明治33(1900)年といい、大正13(1924)年まで存続したという。但し、廃校後の昭和初年にも教員らしき夫婦が教えていたとの証言がある。
因みに、戦後暫く残存していた教員住居は茅葺の古民家で、学校が出来る前の地形図にも掲載されている(もしくは前身建屋?)。古くは外来士族が営む寺子屋があったとの伝承があるので、それとの関連も窺われよう。
また、分教場の建屋は戦中の昭和17年に仏谷に移されたとの証言がある。

学校地区から美麗の道を少々進むと、横の斜面を逆方に上る石段と出会った。見れば、その途中には2本の丸太が門柱状にあり、更にその上には石碑が放置されていた。
記録や証言に云う、神社跡である。木柱は鳥居で、上部の横木が崩落しており、石碑は石段、即ち参道脇に立てられていた明治期の山林所有公認を記念したものであった。

参道中段より見上げた社
参道を上がり、踊り場的な中段に達すると社(やしろ)が見えてきた。中段の平坦地には倒れた手水鉢や建屋跡があり、廃滅の観を強く漂わせていた。

参道を登りきると社が小さな社殿であることが判った。本殿とみられるそこは、石仏尾根の上方に位置していた。
写真の如く、社は元来外陣に囲まれていたと思われるが、今はそれも朽ち、直に外気に晒されている。傍に立て掛けられた板には「明治十五年」の文字。錆て最早復活の望めない鈴も転がっていた。
屋根に樹脂板の養生もあったが、内陣の崩壊も時間の問題であろう。

最西端の敷地跡とみられる出入口付近にあった石組み暗渠
道に戻り、西へ行く。途中屋根の無い小さな小屋がある敷地跡と出会う。小屋は分厚い壁や独特の屋根勾配を持つ、少々特異なもの。
証言では、戦中マンガン採掘用の火薬庫が隣にあり、その厠であったという。採掘には朝鮮人も従事したらしく、何処かで見たような大陸風の小屋は彼らの手によるものかもしれない。
因みに敷地跡の石積みは中心地等と同一のもの。明治等の地形図にも、ここに建屋が記されることから、元は民家があった場所とみられる。火薬庫があったという大きな敷地が母屋、厠側が蔵や倉庫跡か。そして、それらの前は耕地跡と思われた。
母屋・蔵・倉庫・耕地――。この1セットを基準に考えると、各戸の場所や建屋を復元出来るかもしれない。
厠廃墟の敷地から川を渡り、また大きく明るい平坦地に出る。古図等によると最西端の住居址があったとみられる場所である。
そこへの入口には石組みの堤とその下に開けられた暗渠跡があった。写真では解り難いが、手前の溝から続く石組み下に川辺に通じる大きな穴が開いている。灌漑用かとも思われたが、水面からかなり上部にあり、不明である。ひょっとして、川を堰き止めて通水させていたのか……。

西端住居址の小屋廃墟と残骸
中心地に次ぐ広さをもつ西端住居址には、写真の如き廃墟の小屋と建屋の残骸が散乱していた。情報によれば戦後造られた林業小屋や山小屋の跡らしい。
とまれ、ここも古くから建屋があった記録があり、その石積みも残ることから、住居址であることは確実と思われた。

巨樹のたもとの祭祀場的遺構
西端住居址から道は南東に寄り始め、写真の如き枯死巨木とその下の石垣と遭遇。石垣下には空間があり、門柱状の石の設えもあることから、何かの祭祀跡のように思われた。
また、その隣には建屋用の石積みも見られ、全面には広い耕地跡もあることから、住居址である可能性が窺われた。しかし、古図や証言等に、ここに家があったことが窺えないため、不明である。
ただ、先ほどの「1セットの基準」からすると、その可能性も捨てきれないと思われた。

廃村八丁の墓地
そして、最後に墓地が現れた。中心地からの距離は500m程か。廃村以前の戦前の墓碑のみが10m程の石段上に幾つか並ぶ。砂岩製のそれらには傾くものもあり、放置され荒廃した観が強かった。

集落址南端である八丁川と卒塔婆峠の沢との出合い
墓地を過ぎると沢の出合いとなり、古道以外の人跡は絶えた。八丁の最南端である。ここから先は、支流に沿って東行する古道が卒塔婆峠に至り、そこを越え下ると桂川水系小塩(おしお)集落へ出る。
時間の関係もありこれにて八丁散策を終える。色々と興味深い地であった。
18世紀初頭から山番として5戸が住み始め、最終的に6戸となり20世紀前半の昭和初期に廃滅した八丁。小さな集落だが200年以上ここで暮しを営んできた。きっと様々な歴史があり、そして暮しの知恵を育んだに違いない。
そんな里人の足跡と叡智を探しに、また再訪させてもらいたいと思う。
なお、八丁については様々な情報があるが、「廃村八丁の土蔵の歴史」というサイトが大変参考になるので紹介しておきたい。基本となる公的史料を始め、個人のネットサイトまでのあらゆる情報を収集した労作である。

八丁川沿いの古道を東行する帰路に就く
八丁離れ帰路へ
元来た道を戻り、中心地で休む仲間と合流して、八丁を後にした。時間は既に15時半過ぎ。
八丁川を遡上するように東行する古道をゆく。ダンノ峠へと続く「刑部谷(ぎょうぶだに)」と呼ばれる谷なかの道で、明治期の地形図等でも八丁と広河原を最短で結ぶ主路であることが記されている。
穏やかな谷の遡上で、清々しく気分も良い。

刑部谷の褶曲岩盤
ただ、途中から主路は一旦別の谷に入って「四郎五郎峠」という急坂の峠を越す。故に初心者に配慮して刑部谷をそのまま遡上する別路を採った。
しかし、道はあるものの渡渉が多く、水量や下草が多くなる時期の通行は困難になるルートかと思われた。

刑部谷の滝
そして滝と出会う。北山らしい穏やかな滝だが、周囲が崖となる為、巻き道を探さなくてはならない。

朽ちかけの「巻き道」桟道
滝の巻き道は踏み跡の延長にすぐ見つかったが、少々崖を攀じ登るものであった。しかし、ロープや桟道が備えがあったので、特段難儀することはなかった。
ただ、桟道が朽ちかけていたので、今後の通行には注意が必要である。また初心者からは「最大の難所」との感想も聞かれた。

滝横の巻き道を慎重に通過

深い森なかに忽然と立ちはだかる刑部滝
最大の難所
しかし、最大の難所はそこではなかった。滝上に出ると、更に越え難い大滝と急崖が待ち構えていたのである。所謂「刑部滝」である。
一応、事前調査で巻き道があることは確認していたが、判り難い。右手の尾根に踏み跡とロープがあったが、実質土崖であり、一般向けとは言い難いものであった。

刑部谷右手(東)の土崖路。ロープ下の人の頭上1m程の所に下で待つ人が頭より小さく見えている。それだけ急で高いが、これでもまだ中途である
脇の奈良谷にも踏み跡が続いていたので、それを辿って巻き道を探すも見当たらず。仕方なく、偵察を兼ね山会主将と2人で土崖を登ってみることにしたが、やはり難路であった。
高低差は50m程。途中ロープの無い場所もあり、木の根、岩角を踏み掴んで進むしかなかった。慣れた者なら、慎重に行けば大丈夫であろうが、初心者等では途中で動けなくなる可能性もあった。
これはマズい。無理をさせても危ないし、かといって、また道を戻り四郎五郎峠を回るのも大変そうである。

奈良谷からの巻き道。これも急だが、滝横の道よりマシであった
一か八か、土崖の頂部の尾根を進んでみた。すると、脇から上がる踏み跡があった。一部にロープの補助もあるそこを下ると、奈良谷の道に比較的楽に下降出来た。やはり奈良谷からの一般路があったのである。当初見つけられなかったのは、崩落等により入り口が不明瞭だった為であった。
急ぎ皆の待つ土崖下へ向かうと、既に皆そこを登りかけていたので、呼び止めて奈良谷側に誘導した。それでも、その急崖を訝しむ人もいたが、慎重に登ってもらい、無事通過が叶ったのである。

高層湿地経てダンノ峠から下山
滝の巻き道である痩せ尾根の道を進むと、間もなくまた刑部谷に下降した。滝の上部であるそこは、滝下とは異なる広く明るい別界であった。
埋もれた堰止湖の跡等であろうか。今は乾燥しているが、普段は高層湿地状とも思われた広谷であった。それは暫く続いたが、その中心の最も広い場所に、象徴的な朽木の大木があった。先達らの記録によると樅の大樹らしく、幹の直径は1.5m程あり、千年級の樹齢を想わせた。
この心地よい場所は近隣から「段」と呼ばれていたらしく、ダンノ峠(段の峠?)の由来ともなっているという。ただ、京都辺りの一般的な地名づけでは、「段野(高層原野の意)」である可能性も窺われた。
標高は700mを超えるが、その名や地貌から、寺や集落等の人跡があったことも想像される。そもそも、著名人物から採られたとみられる刑部や四郎五郎という名がこの奥山にあることも曰くありげであり、興味深い。
ただ、何故か朽木向こうに唐突的に建つ現代的な大学建屋はいただけない。研究の為らしいが、もう少し配慮が必要なのではなかろうか。

ダンノ峠からの尾根新道を下った仏谷との出合い箇所
そして八丁川の源流をつめ、ダンノ峠と最後の下りを経て仏谷に下った。時間は18時前。難所で時間をとられたが、日没までに下ることが出来た。

仏谷川に沿って民家が点在する菅原集落を下る
奥北山と八丁に感嘆し再訪約す
やがて駐車場に戻り、荷を解いて18時半には菅原を出発。元来た車道を市街へと戻る。帰りの車行も暗くなる前に無事峠越えをすることが出来た。まあ、日没が遅い春なればこそ、の条件ではある。
そして、帰宅を急ぐ人以外の参加者と市街の銭湯で疲れを落とし、その後近所の蕎麦店で打上げ夕食会に。
今日は、一同奥北山の自然に感嘆すること頻り。また、未踏の地・八丁の良さも確認された。再度の訪問を約しながらの、打上げひと時であった。
皆さん、お疲れ様でした。有難う!