2017年09月09日

畿央水跡行

京都南部の東一口(ひがし・いもあらい)集落近くの旧巨椋池底の栽培地で見た、在りし日の巨椋池の名物「蓮の花」

近畿中部の水集めた池跡へ

数日前に急に決まったのだが、友人と旧巨椋池(おぐらいけ)跡を巡ることとなった。

巨椋池とは、京都府南部に昭和初期まで存在した池。その昔「大池」と呼ばれ、東西4km、南北3kmという広大な面積を有した。琵琶湖からの宇治川、丹波山地からの桂川、伊賀高地からの木津川という、淀三川が流入して出来た近畿中部の一大低湿地であった。

今日は水辺観察をライフワークとする友人に誘われ、その痕跡を辿る。巨椋池がはっきり描かれた明治中期の仮製地形図を所有している関係等で、以前から平会(ひらかい)開催を考えていたので、その下見も兼ねることとした。


上掲写真: 嘗て巨椋池の名物だったという蓮の花。東一口集落近くの旧池底の栽培地にて。そろそろ散り時か。


首都圏の高架駅の様に生まれ変わっていた、京都市街南部にある京阪淀駅
首都圏の高架駅の如き様に生まれ変わっていた京阪淀駅

三川の要地・淀から出発

友人とは京都市街南郊の京阪淀駅にて待ち合わせることとなった。かの淀競馬場で有名な地である。その人出のお蔭か、以前は旧市街に埋もれるようにあった古い地上駅は、大規模な高架駅に建て替えられていた。

高架化したことは、大阪への往復等で以前から知っていたが、降り立つのは10年ぶりだったので、少々驚く。落ち合った友人も同様の感慨をもったようである。

淀は、巨椋池の西北にある三川の合流地で、近世初頭の城下町整備等で池とも深い関りを有しており、至る所に水の痕跡を持っていた。今回は地域の中核都市であったここから探索を始めたのである。


京都市街南部にある淀駅と納所(のうそ)集落の間に残る、宇治川旧路の拡幅を伝える「淀小橋増築碑」
淀駅と納所(のうそ)集落の間にある「淀小橋増築碑」

友人共々出発すると早速曰く有り気な石碑が現れた。読むと、宇治川にあった淀小橋が明治初期の河川拡幅時に延長されたことを記念するものであった。

そう、今では想像もつかないが、嘗てはこの付近を宇治川本流が流れていたのである。淀小橋とは淀城下北方の納所と城下を繋ぐための、北の玄関橋であった。

市の碑文解説によると、橋の旧台石を材料としているとの伝承があり、元は淀城址に置かれ、再開発を機に小橋跡近くのここに移されたようである。

しかし、美麗すぎて複製のようにも見える。再設置を前に洗いや研磨が行われたのであろうか。


京都市街南部の淀北方、旧京街道際に立つ、かつての船着場跡を示す「唐人雁木旧趾碑」(左下)
淀北方、旧京街道に立つ「唐人雁木旧趾碑」(左下)

友人は先ず宇治川旧路跡を見たかったらしく、その為の目印として淀小橋跡を探した。

その為に、基準となる納所の「唐人雁木(とうじんがんぎ)跡」に至る。駅前の納所交差点から千本通(旧京街道)を北に入ったすぐの場所で、堤防跡を想わせる坂上に碑が立っていた。

唐人雁木とは、近世以前に、船で淀川を遡ってきた朝鮮通信使等の外国使節が上陸した船着き場である。石段による接岸設備「雁木」があったとされる。

即ち納所の交差点辺りは川底で、石碑辺りに雁木があったのであろう。現在は車道用に坂が交差点まで均されているが、本来は石碑辺りで河岸となっていた筈である。

とまれ、ここの東隣りにあった小橋跡を探す。古図では京街道はここで雁木と接しつつ一度内陸側に折れて再度鉤形に折れて河岸の小橋と接続していた。戦時を意識した遠見遮断の一種であろう。


京都市街南部・淀の住宅街にある、背後を国道で切られた狭い台地際に立つ「淀小橋旧趾碑」と宇治川旧路の河岸跡
背後を国道で切られた狭い台地際に立つ「淀小橋旧趾碑」

淀小橋と宇治川旧路跡

古図と現代図の両方を参照したが、小橋の位置は意外と判り辛い。後で通された京阪国道の切通し等が判断を狂わせていたのである。

今に残る古道を丁寧に辿り、漸く住宅街にて小橋と河岸の跡を発見した。岸上との高低差はかなりあり、正しく旧路の趣である。


京都市街南部の淀駅前に残る宇治川旧路跡の落ち込み

幻の小橋を渡るように、今は宅地の河跡低地を進む。そして、間もなく先程居た「淀小橋増築碑」前の駅前通に出た。

写真は駅前通と旧路の段差。ここが小橋の南袂かと思ったが、「旧趾碑」と「増築碑」がちょうど碑文に記された拡幅寸の166mとなることが帰宅後の図上計測で判明した。

駅前通整備の為に一部埋められたのか。しかし、拡幅を反映している古図を見ると、南袂手前の数10mに水の描写がない。よって、この段差は拡幅前の河岸を継承したものとの想像も出来た。

それにしても、増築碑は古図が示す南袂そのものに置かれている。対岸との角度も正確。再開発の余興で適当に置かれたのかと思ったが、密かに心憎い処置が施されていた。


京都市街南部・旧淀城下を通る大坂街道裏に残る、かつての水辺を示す段差

宇治川旧路判明後は、駅南の旧城下を通って巨椋池を目指す。

淀は中洲に作られた島状の都市。水辺の痕跡に満ちた場所なので、友人の希望で城下周縁を歩く。

宅地化が進んでいたが、やはり街外れには湿地跡らしき原野もみられた。淀の東から東北にかけては巨椋池からの唯一の流路があり、淀小橋東手前で宇治川と合していた。

写真は、淀城下の裏道から見た城内を通過する街道沿いの古い町家と向かい側敷地端の段差。街道は城下の主要道かつ繁華街でもあり、西側には水濠もあったので、水害や防御への対応か土手状となっている。

淀とその近辺の古い集落には同様が多くみられるので、私は以前から淀を「堤防都市」として認識している。


京都市街南部・淀郊外の川顔地区裏手に残る近世木津川河岸跡の段差
川顔地区裏手の近世木津川の河岸跡

淀城下を南へ進み、巨椋池からの旧流路で江戸前期までの木津川本流跡でもあった堀を渡り、南郊の川顔(かわづら)地区にでる。

ここも堤防街で、北は江戸初期まで淀城本丸近くに接していた木津川、南は明治初年までの同川河岸だったという興味深い地区。写真は道路両側に家が並ぶ地区の南側で、即ち江戸期の大半ここにあった木津川の北岸。

10年前に来た時は古い町家が多くの残る場所であったが、今回は建て替えや廃滅状態が多くみられた。残念。一応ここまでは京都市伏見区。これも京都の文化財の消失といえよう。


京都市街南部・淀の府道15号線の「大橋辺」からみた旧木津川・淀大橋の城下側袂跡

近世の長橋「淀大橋」跡

川顔地区の西北には、淀城の南出入口となる淀大橋の北袂跡があった。

写真は近世木津川跡を走る府道15号線からみた大坂街道。登坂となっている道奥が、川顔の道と交わる城下の主路端で、京街道・伏見街道との接点であり淀大橋の北袂であった。


京都市街南部・淀の府道15号線の「大橋辺」からみた旧木津川・淀大橋跡の八幡側と、近世の木津川川底跡に伸びる淀大橋跡をなぞる道
近世の木津川川底跡であり、淀大橋跡をなぞる道

そして、反対方向を見ると、先が見え難いが、この先の堤防集落・美豆(みず)に淀大橋の南袂があった。即ち、この道は嘗ての橋跡をなぞる。今では信じ難いが、近世ここに全長約300mもの木造橋がかかっていた。

因みに、この辺りの字名は「大橋辺」。現町名にも引き継がれている。


京都市街南部・淀南郊にある府道淀大橋上からみた宇治川の現流路
府道15号線を南へ下がり、現代の淀大橋を渡って出会う現宇治川

今日は穏やかだが、ダム制御等の近代治水がない時代での荒れを想うと恐ろしい。20世紀初頭まで、ここには川顔から続く北川顔という堤防集落があったが、宇治川の付け替えにより大半が消滅した。


京都市街南部・淀南郊の現宇治川南岸堤防からみた、旧巨椋池方面の東一口集落と排水機場
宇治川堤防から見た巨椋池排水機場(左端)と東一口集落(中央)

巨椋池へ

宇治川を渡り淀を離れる。南岸の堤防から競馬場や山城盆地全景を眺めつつ、東へと向かう。天気が良いのは有難いが、予報通りの暑さに見舞われる。

強い日射しに耐えつつ橋の袂から2km程歩くと、南眼下に目的の東一口(ひがしいもあらい)の家並が見えてきた。旧巨椋池の水が流れ出す唯一の「口」に隣接した集落である。難読地名として全国に知られたその名の由来は所説あって定かではない。

また、集落の左右には大型の建屋があり、左は巨椋池排水機場、右は久御山排水機場と記されていた。遮水と排水により干拓された(されている?)巨椋池を象徴する施設であり、地区存立の基幹的存在である。


京都市街南郊にある、旧巨椋池の池中に伸びるかつての堤防道(縄手)両側に家が並ぶ東一口集落
旧巨椋池の池中へ伸びる堤防路両側に家が並ぶ東一口集落

東一口も堤防集落であるが、「大池堤」と呼ばれる池中を横切り淀と宇治・城陽方面を連絡する特殊な通路兼用堤(縄手)に存在する。

同様のものに向島(むかいじま)と小倉(おぐら)集落を結ぶ大和街道(縄手通)とそこに置かれた西目川と三軒家集落があり、同じく伏見城下の整備に伴い16世紀末に豊臣秀吉により築かれたとされる。

それ以前は小倉同様に巨椋池に突き出た半島上に「一口村」として存在したらしく、築堤後、旧地は西一口となり、東一口が分離新設されたという。半島側は孤立水域となった為、舟運・漁業民を縄手へ移したのであろうか。


京都市街南郊にある、旧巨椋池内の堤防集落「東一口」の民家裏に残る旧巨椋池池畔を示す段差
東一口集落の町家奥に見える池側との段差


京都市街南郊にある、旧巨椋池内の堤防集落「東一口」のなかで威容を誇る、旧山田家住宅の長屋門と切石積みの漆喰塀
東一口集落内で威容を誇る、旧山田家住宅の長屋門と切石積みの漆喰塀

巨椋池の重鎮・山田家住宅

東西方向へ1q程も続く東一口集落を進むと、その中程で突如城塞の様な家屋が現れた。

池中の辺鄙、しかも個人宅ながら、ただならぬ威容を誇るのは旧山田家住宅であった。巨椋池西岸の御牧郷(みまきごう)13カ村と巨椋池漁業を取りまとめた元の大庄屋家で、今日の重要な目的地の一つである。

国の有形文化財にも指定されているここは、当地を管轄する久御山町に寄贈され、修繕を経た今春から一般公開が始まっていたのである。


京都市街南郊の旧巨椋池内の堤防集落「東一口」に残る旧山田家住宅主屋の式台付玄関
旧山田家住宅主屋(しゅおく)の式台付玄関

周囲より更に高く造られた山田家に、豪壮な長屋門をくぐり入る。受付にて小額を払うと係の人から主屋の説明を受けた。


京都市街南郊の旧巨椋池内の堤防集落「東一口」に残る旧山田家住宅の、主屋北側の3間続きの畳部屋
主屋内部北側。3間続きの畳部屋で、北面する縁側越しに庭園と接する

建屋は長屋門と主屋が現存しており、共に江戸後期の1800年前後の建造という。主屋は南半分が近年の改築を受けており、現在の公開は北側に限られていた。

巨椋池漁業との関連を窺わせる鯉や網代柄の欄間彫刻や京狩野絵師による襖絵もあった。


京都市街南郊の旧巨椋池内の堤防集落「東一口」に残る旧山田家住宅の、奇岩・貴石が多く使われる主屋北側の庭園
旧山田家住宅の庭園。奇岩・貴石が多く使われている。嘗て塀の向こうに巨椋池の広大な水面が見えたという


京都市街南郊の旧巨椋池内の堤防集落「東一口」に残る旧山田家住宅の、敷地内に残る蔵跡の基壇
旧山田家住宅敷地内に残る道具蔵・衣装蔵・味噌蔵跡地


京都市街南郊の旧巨椋池内の堤防集落「東一口」に残る旧山田家住宅の、長屋門内に展示されていた近世初期の巨椋池の堤図

長屋門内では、嘗て巨椋池漁業で使われていた漁具や巨椋池に関する展示が行われていた。

写真は、近世初期、即ち豊臣政権が改修した頃の堤防や巨椋池・周辺河川等を示した図。中央の大きな水色が巨椋池で、その左右に池中を渡る大池堤や大和街道(小倉堤・太閤堤)が太線で描かれている。

東一口は大池堤が巨椋池に入った辺りにある。


京都市街南郊の旧巨椋池跡から見た、池なかの堤防集落「東一口」と旧山田家住宅
巨椋池排水路の橋上より東一口集落と旧山田家住宅(中央)をみる

巨椋池復活時の証言得る

友人が蓮を見たいという為、一旦、東一口から干拓地へ下り、付近の栽培地へ向かう。その前に集落(堤)下で商店見つけたので、氷菓での一服をはかった。

店は堤下、即ち巨椋池の水際辺りにあったので、店番のおばあさんに訊ねると、池の記憶はないが、昭和28(1953)年の洪水は憶えているという。近くの宇治川の堤防が切れ、恰も巨椋池が復活した如き事態となった時のことである。

その時は店の1階は完全に水没したが、堤上の旧集落は無事であったという。店は写真の左端にあるが、その並びの家の2階下まで水が来たと考えると、往時の池を少し想像することが出来た。


京都市街南郊の旧巨椋池干拓地で見た、東一口から続く「大池堤」跡を踏襲した排水路堤防道と干拓地を横切る京滋バイパス

堤上に戻り、また東一口集落を東へと進む。

やがて外れとなり一面の田園地帯となった。戦中戦後の食糧増産期に年間4500tの収量を上げたという巨椋池干拓地である。一面の水面を作物の緑に変えるという干拓趣旨をみた。

堤の道は、その後も排水路の一つ「古川」の堤防と化しつつ続き、それを辿って巨椋池南岸地区を目指した。写真は堤の道(手前)と池跡を横切る平成の大縄手・京滋バイパス。


京都市街南郊・旧巨椋池「大池堤」跡を踏襲した排水路(古川)堤防路の西に見えた、干拓地内の堤状の高まり
南へ進路を変えた古川の西に見えた、堤状の高まり

大池堤の西にあった中池堤の遺構かと思ったが、後で調べると距離が近く、違った。古図になく、詳細は不明。因みに、この付近の中池堤はイオンタウンや第二京阪道路となっていた。


京都南部にある旧巨椋池干拓地南岸の伊勢田集落付近に残る池畔跡微高地

旧巨椋池南岸から東岸へ

旧巨椋池南岸の旧安田村辺りから進路を北東にとり、東岸は巨椋神社を目指す。

南岸辺りは市街地としての改変が著しく、巨椋池の痕跡を見ることは困難であった。ここが大池の水底であったことを自覚している住民はどれくらいいるのか、ふと気になる。

写真は唯一発見の推定痕跡。西小倉小学校の西隣の微高地で、明治図にある伊勢田西北にあった名木川(山川)辺りの堤跡かもしれない。付近には、明治図でこの辺りのみに記載されているのと同じ、茶畑の集まりも見られた。


京都南部にあった巨椋池を縦断していた小倉堤(太閤堤)上の旧大和街道(正面の高まりに続く道)と、それを切り通す旧国道24号線

巨椋池東岸の主要集落であった小倉にある巨椋神社にて休息後、大和街道を北上し、それが巨椋池を渡る場所を目指した。

写真は小倉からの街道が池中に出た辺りで、旧国道24号線によって寸断されている箇所。街道は一旦旧国道の路面まで下がり、また上がって京都方面へと続いているが、往時はそのまま堤防集落が続いていた。

この辺りの地名は「三軒家」。東一口同様の池上堤防集落で、今も道の両側に古い家屋が残っている。


京都南部にあった巨椋池を縦断していた小倉堤が槙島西方で寸断され生じた宅地の段差
旧大和街道の路盤(堤)の切れ目。干拓前は右の道がそのまま左へと続いていた

三軒家地区を北上すると、突如堤が切れ、屈曲下降を余儀なくされる場所に至った。高さ数mの段差となった北側下方には宅地が広がっていたので、干拓後の開発により撤去されたとみられる。

一応貴重な桃山遺構なのではあるが……。


京都南部にあった巨椋池を縦断していた小倉堤跡の段差下に残る巨椋池の池畔跡
三軒家地区南裏の巨椋池池畔跡。ここも堤防集落だったことが明瞭である

下見行終了。池の広大と風光明媚を夢想

街道の切れ目より暫し広大な干拓地を眺める。堤の高まりにより、僅かながら往時の水面を想像することが出来た。洪水や水質の悪化がない時は、さぞや風光明媚な場所であったろうと夢想する。

今日の巨椋池巡りはこれにて終了である。もう一つの要地・向島等も観たかったが、徒歩の為、時間的・体力的に難しくなった。

広い場所のため駆け足的な踏査行となったが、中々興味深いものとなった。平会の下見としても、自転車の利用が有効であること等の知見が得られた。

しかし、暑かった……。だがお誘いは有難い限り。お疲れ様でした。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行
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