
冷涼と自転車の助け借り、池跡巡り完遂へ
今日は春5月以来の平会(ひらかい)。
平地の名所旧跡等を巡る集いであるが、春と同じく、自転車による実施となった。場所はその機動力を活かして少々遠方で広範な地を設定。
そう、そこは、まだ暑い9月初旬に下見を兼ねて巡った旧巨椋池(おぐらいけ)跡であった。9月も広大なその跡を淀の旧城下域を含め詳細に巡ったが、徒歩と暑さにより池跡要地を全周することは叶わなかった。
今回は冷涼な気候(寒い?)と自転車の機動力により、それを補完しつつ更にその旧観に迫ろうという企画となった。
前回にも解説したが、巨椋池は京都府南部に昭和初期まで存在した池。その昔「大池」と呼ばれ、東西4km、南北3km、周囲16kmという広大な面積を有した。琵琶湖から流れ出る宇治川を主な水源とし、賀茂川を併せた桂川や木津川という、淀三川が流入する近畿中部の一大低湿地に存在した。
池というより湖と呼ぶに相応しい規模。かつては地域を特徴づける大きな存在であったが、干拓されて久しい今はその姿を知る人も殆どいなくなり、田圃や宅地となった現地にその姿を想像することも困難となった。
正に古の幻を追い、それを体感する平会に適った存在。その結果や、如何(いかん)……。
上掲写真: かつて巨椋池の東部池中を縦断していた大池堤(東堤防)跡を北上する際に見た干拓地水田。水が干上がり、底にひび割れが走る様が干拓直後の巨椋池を彷彿させる。

現代の京都市街と巨椋池跡(国土地理院・地理空間情報部より利用確認済。同院「明治期の低湿地図」を加筆・編集。転載・二次利用不可)
旧巨椋池と京都市街の関連は上図の通り。中央上寄りにある京都駅の南8km程の場所にあった。現代の地図に明治23年測図時の池や旧河道・湿地が濃い青色で示されているが、中央下寄りの大きな水辺が巨椋池である。
左上の桂川、池上の宇治川、池下の木津川が集まり、左下端の天王山・男山の狭隘部手前で淀川となるが、それらの水が滞留するが如く形成されているのが解る。

明治中期の図にみる巨椋池(大日本帝国陸地測量部編 二万分一仮製地形図「淀」(藤氏蔵)の一部を加筆・編集。転載・二次利用不可)
上図は私が原版所蔵する明治23年測図の仮製地形図である。季節等による変動はあると思うが、明治末の改修で池が宇治川と分離され水位が下がる前の姿なので、近世の姿に近いものとみられる。
一応池についての基礎情報を下記しておくので必要な人は参照あれ……。
巨椋池について
「地理環境」
現在の京都市伏見区南部から宇治市西部、久御山町北東部に当たる地の、東西4km、南北3km、周囲16kmの規模で広がっていた。水域面積は794ha、水深は大部分が0.9m以下で、広く浅い池であったが、浅くなったのは明治末の改修によるものとされ、それ以前は増水時に4、5mに達することも珍しくなかったという。
宇治・木津・桂の三川合流地である男山と天王山の狭隘部付近に形成された山城盆地最大の池沼で、それら河水の遊水地的役割も果たしていた。底部標高は9m前後、琵琶湖や丹波山地、伊賀高原等の近畿中部の水を集める畿内中央低地に当たり、古来水陸の交通要地として栄え、漁業や狩猟・農耕等が盛んであったが、洪水常襲地であり、その後の干拓の要因となった。
「歴史」
その成立については、更新世後半(約130万年前〜1万年前)に砂礫の流入や隆起により縮小した「山城湖」の名残とするものと、盆地へ流入する河川が扇状地を拡大するなかで生じた副次的湖水とするものの2説があり、前者が一般的になっていた。
しかし、近年の土質調査や花粉・化石の解析、植物性遺物の年代測定や考古学調査の結果から、約1万年前は北部の横大路沼共々まだ存在せず、縄文後期(約4000〜3000年前)に池の輪郭が出来、縄文晩期から弥生前半(約3000〜2000年前)頃に湖化したとされる。
だが、弥生期も比較的小さく、奈良期に拡大し、平安期にまた縮小するという変遷がみられるという。それらの原因は土砂の堆積にあり、元来山林伐採による人為的土砂流入により狭隘部の水はけが悪化して池が生まれ、その後変化を繰り返したとする説が有力となっている。
「巨椋」の名称は『万葉集』(7世紀後半〜8世紀後半編纂)が初出で、9世紀には古代豪族「巨椋連(むらじ)」、10世紀には「巨椋神社」、12世紀には「小倉荘」の名が文献に登場。画期は文禄年間(1592〜94年)における豊臣秀吉の大改修で、宇治橋下流から池に流入していた宇治川が太閤堤で伏見城下へ誘導され、その他の堤や街道を兼用した堤も作られ、池と周囲のその後の景観が決定づけられた。
近代明治には43(1910)年の淀川改良工事により宇治川と完全に分離され、水位低下や水質悪化、漁獲減少、マラリア多発等を招く。そして昭和8(1933)年に干拓工事が始まり、同16年に完了して地上から消滅した。

太閤堤の起点?三条大橋の欄干と近世以前のものとみられる袂の切石橋台
縄手、大和大路を南下して
今回の参加は左京組のみだったので、朝は区内のパン屋喫茶室(ここも廃滅するとの噂があり)に集合し、朝食を摂ったのち出発した。
左京からなので、どうせなら近世巨椋池と関係深い、大和大路(やまとおおじ)を南下することとした。
大和大路とは、東海道の出発点、三条大橋東詰から旧大和国、即ち奈良方面へ南下する道で、豊臣秀吉が途中の方広寺大仏や伏見への接続を兼ねて開いたとされる。伏見以南は宇治川水系に設けられ、近世巨椋池の景観を決定づけた太閤堤の一つ小倉(おぐら)堤上を通りつつ池中を南下する。
同じ頃開かれたとされる五条大橋東詰からの伏見街道と役割や道筋が途中から重なるが、通行量を分離するなどの理由で、比較的早い時期に出入口が分けられた結果ではないかとも考えている。
また、古くから四条以北の道筋が堤の意がある縄手(なわて)と呼ばれ、その理由が賀茂川の堤防兼用路であった為とされるが、小倉堤への接続を示唆する名である可能性も考えていた。長さ数キロに渡る湖中路の出現は、当時の京人に相当強い印象を与えた筈との考えからである。

三条大橋の擬宝珠に刻まれた「天正18年(1590年)」等の文字。下段には普請責任者で秀吉家臣の増田長盛の名も見える
現在の三条大橋の源的な橋が架けられたのは、豊臣時代の天正18年。その後、何度も架け替えられ、現在はコンクリ橋となったが、木造の欄干が添えられており、その擬宝珠には天正期のものが含まれているという。
西詰に残る石積みの橋台も近世以前の古いものと思われる。この橋台や東海道の盛土により、元はこれより北にあった白川の賀茂川への流入が阻害され、南の祇園から流入する現在の姿になったとの伝承がある。

旧伏見城下と巨椋池北縁の太閤堤を結ぶ観月橋
宇治川渡り、旧湿地帯に入る
余談が多くなったが、一先ず大和大路起点を三条大橋と見做し、そこから出発。かつて大和大路が東海道と接触していた三条大橋東詰南側は三条駅のターミナルに改変されているので、その南端から始まっていた。
古道具や和装を扱う町家古街を過ぎ、祇園、建仁寺、方広寺、東福寺、旧師団司令部(現聖母女学院)と南下して伏見に入った。途中休憩を入れたこともあるが、やはり距離があり、結構時間がかかった。
観月橋で合流した参加者をかなり待たせてしまったが、待合せの返信を受けていなかったので致し方ない。交信を確認すると、こちらの応答にも勘違いがあったが、返信せずに集合することとは関係ないことであった。
前の山会でも連絡がなく、こちらが直前に確認すると「予定が変わった」と通知。それ以前にも「来る」といって来ないことが何度もあった。こういうことは二度とないように以前にも記した筈。
こう再三であれば、残念ながらもう後がないと言わざるを得なくなる。
少し話が違い恐縮だが、この機に再度表明しておく。「会」をつけているものは細やかながら公益的志に基づき行っている。客観的に大したことのない企画や規模でも、志だけは高くありたいと思っている。それを軽んずるのであれば、方々の邪魔になるので、何人であれ来ないでもらいたい。
さて、写真は伏見市街南端をかすめる宇治川に架かる観月橋。豊臣期に伏見城下と宇治川対岸の向島城を結んで架けられた豊後橋の旧跡である。

向島城址外れの旧湿地に広がる水田
向島城は伏見城の支城として太閤堤と同じく文禄年間(1592-96)に構築され、17世紀初期の伏見廃城と共に破却されたとみられる。
その場所は豊後橋を頂点にして輪の様に太閤堤が川南の湿地を囲った中にあり、明治期等の地図にも連郭式と伝わるその痕跡が窺えるほか、「本丸」「二ノ丸」等の地名としても残存する。
少々主旨から外れるが、向島の湿地跡も見学することに。城跡は現在市街化が激しいため、外れの湿地跡等を見たが、文禄以前は巨椋池内だった可能性が高い場所である。

恐るべき天下普請
向島外れの湿地跡から北東へ進み、太閤堤上に並ぶ集落と出会う。旧下島地区(現東泉寺町)で、文禄以前に存在した巨椋池の島跡にちなむ地名とみられる。堤用の土取り等により、堤防集落化されたのか……。
写真は湿地側からみた太閤堤上の旧下島集落。

太閤堤上に並ぶ旧下島集落や府道241号線、そして宇治川。堤防道路は現在でも向島と宇治を結ぶ要路となっている

太閤堤上からみた宇治川と対岸の桃山(木幡山)
民家の間から太閤堤上に出、眺めの良さにつられて暫し休息。対岸の丘陵がちょうど伏見城主郭部分であったことを説明した。
皆感心すると共に宇治川の水勢に驚く。今は堰やダムに制御された状態にも拘わらずの水量と流れの速さ。近代治水がない頃はさぞや恐ろしいものであったろう。
400年以上前に、豊臣政権がそんな水系を広範に改修出来たことに改めて驚かされた。水攻め等による地貌改変の心理効果を知っていた秀吉は、ひょっとしたら権威誇示の為もあり、この大普請を行ったのか。
古代文明の帝王らの治水事業を上回るような偉業を目指して……。

湖上の街道、小倉堤跡をゆく
太閤堤上を西進して観月橋まで戻り、そのまま向島西部に残る堤上を進む。堤は左に曲がりつつ宇治川を離れ、やがて南下する様相を呈した。即ち、大和街道であり湖上路である小倉堤の始まりである。
写真は干拓前に建てられたとみられる町家が多く残る地区。かつて賑わった奈良・京街道の名残りである。

近鉄向島駅近くから見えた巨椋池跡の田圃や宅地
南下を続け暫くすると、団地や新興住宅街となり、道も広く新しいものとなった。堤を想わせる若干の高さも有していたが、そのうち明瞭ではなくなり、やがて近鉄向島駅の傍に達した。
堤がもう湖上に出ていた場所で、線路向こうに池跡の田圃や宅地の広がりが見えたが、広がる湖水を想像するのは少々難しいか……。

更に進むと脇道となった箇所に再び堤が現れた。写真右側の高まりである。
道もその上に続き、また古い集落が現れた。西目川(にしめがわ)集落で、巨椋池上に3箇村あった湖上集落の内の1つである。
3箇村の内、西部の大池堤にあった東一口(ひがしいもあらい)集落は漁業株を持つ漁村であったが、西目川と残りの三軒家集落の役割は不明である。ご存じの方がおられれば、ご教示願いたいと思う。

小倉堤中央部に当たるも、その痕跡を全く留めない南落合地区の宅地
西目川集落を過ぎると碁盤目の新興住宅地となり、堤の跡は途絶えた。地面も完全に削平されており、国土地理院の対比図(レイヤーマップ)を基に自転車で跡を探すも徒労に終る。

しかし、南落合の南部にて、また宅地の高まりを発見した。写真中央に建つ、小高い家並である。

堤上に古い家並が残る三軒家集落
宇治川旧路を探り、錦秋の河畔で休息
早速、屈曲路を登ると、高台上に前回訪れた集落があった。小倉堤南部の堤防集落、三軒家地区である。
三軒家を過ぎると間もなく、旧巨椋池東岸(小倉堤は東に寄りつつ南下)の小倉集落に到着したが、そこからは一旦池跡を離れ、文禄以前の宇治川旧路を探りつつ、宇治へと向かった。
文禄以前は巨椋池に突き出た半島であった小倉集落東郊で旧路に関するとみられる低地や水路を見たが、やはり、戦国・中世にまで遡れる確かな痕跡を見ることは叶わなかった。

宇治河畔の紅葉下での休息
そして、宇治の中心部に到着し、その名所、塔の島辺りの宇治川河畔にて昼食休憩をとることとした。
折しも、紅葉に合わせた観光期の盛りで、街中に人が溢れていた。平会一行も、暫し河畔の紅葉下で寛ぐ。

手前は宇治川派流と塔の島、奥の山の窪みは宇治川渓谷。かつて琵琶湖から一気に渓谷を下った河水は、ここから山城盆地に出て巨椋池等の湿地を潤した。文禄以前は、ここから下流すぐの場所にある宇治橋西下から巨椋池へと注いでいたという。先程通った、小倉集落からの低地である

南岸から西岸跡へ
休息後は混みあう宇治市街を後にして、再度小倉集落に戻り、巨椋池探索を再開。集落を貫く大和街道を南下し、いよいよ街道とも別れて池の旧南岸に当たる伊勢田地区へと入った。
前回も記した通り、南岸は宅地化が激しく、その痕跡を見ることはやはり難しかった。ただ、対比図により、新しい府道近くにあった入江跡を推定できた。しかし、かつての風光明媚な様の想像は、もはや不可能であった。
唯一痕跡が見られたのが、前回も紹介した西小倉小学校西隣にある畑の高まり。対比図や干拓直後の航空写真との照合により、伊勢田新田を貫流していた名木川(山川)の河口部と判明。天井川だったので堆積土砂が想像された。
今回紹介する写真は、その北側にある微高地状の茶畑。前回は河口の浜かもしれないとしたが、対比図や航空写真により、浜か沖の堆積地であることが判明した。かつての好漁場であり、その権利を巡り、近世初期から漁家と農家の争論が繰り返された地である。

古川排水路西土手にあった古い祠と杜
名木川河口部の次は西走し、西岸跡に達した。前回とちょうど逆の道筋である。旧安田村辺りを流れる古川の土手を北上し、もう一つの池中路である大池堤を目指す。
今回は図や古写真により大池堤を継承しているのは、この辺りでは古川の西土手であることが判明していたが、途中で東土手にかわる際に渡河し難いことから、前回同様、東土手を進んだ。
写真は西土手上に現れた古い祠。大池堤を継承した土手なので、それに関わるものとみられる。ここは東一口集落を経て淀城下への入口ともなった場所なので、塞ノ神のようなものであろうか。また、大池堤が南岸から湖中に出る特殊な場所でもあった。
因みに古川は木津川に関連するとみられる古い流れだが、現在では整備されて干拓地等での排水路の役割も果たしている。

北上暫くして小休止。
大池堤跡は、古川の2度目の屈曲点辺りで東土手に移っていたが、低く成形されているようで往時を偲べる姿ではなかった。
写真は休息場所傍の田圃より見た干拓地広景。巨椋池の広大が窺える本日一番の眺めである。果てに林立するのは向島の団地群。即ち、我々一行はその傍の堤跡を経て、湖岸を大回りし、ここまでやってきたのであった。しかもその間には宇治にも立ち寄っている。
今日は午後から15度くらいの温暖となる予報であったが、天気が優れず風もあって寒かった。もう冬なので仕方ないが、自転車で身体を動かしている為か、冷えきることはなかった。

休息後はすぐに東一口集落が現れた。ここは集落の土台として往時の大池堤が残っている。写真の如く、堤上の集落内の一本道を東寄りに北上。

そして前回も立ち寄った山田家門前に到着。近世における巨椋池漁業の総帥家とされる家である。変哲ない民家の先に突如現れた威容に一同驚嘆。
山田家の敷地は道路よりかなり高くなっているが、地元・久御山町編纂の資料によれば、明治の淀川改修以前の堤の高さだという。改修後は池の水位も下がり不要となったため、削られたとのこと。

干拓地の守護神
長く戸数も多い東一口を抜けると、宇治川の土手と共に巨大な建屋が現れた。巨椋池排水機場である。手前の前川等により集められた干拓地内の水を宇治川に排出する為の施設である。正に、干拓地の守護神的存在。
干拓以来、数々の洪水危機を経て増強が繰り返されてきたという。どこか山田家に通じる意匠であるのことも興味深い。

古川(左水面)と久御山排水機場
また、大池堤跡を挟んだ南側には久御山排水機場があった。
巨椋池排水機場の方が新しく見えるが、実はこちらの方が昭和中期に増設されたもので、干拓当初から稼働していたのは巨椋池排水機場であった。但し、平成17(2005)年に更新されたという。

巡検終了。淀から桂川北上し帰還
干拓地の守護神2棟との遭遇を最後に、巨椋池跡巡りは終了となった。
宇治川の土手を東進し観月橋に戻ることも考えたが、単調であると思い、淀経由で桂川河畔を北上して京都市街へ戻ることとした。
写真は途中立ち寄った淀城址。本丸の石垣上からみた天守台の石垣と内堀跡である。近年京阪電車が高架化したので、風情に劣ってしまったが……。勿論、渋滞緩和や事故防止も必要なことではあるのだが。

桂川の土手道を長駆して途中から伏見北部に入り、参加者馴染みの喫茶店で休息しようとしたが、満席のため、銭湯に入ることとなった。
近くの伏見街道沿いにあったその銭湯の名は写真の通り。今朝も旧師団司令部前を通ったが、伏見北郊はかつて軍都と呼ばれるほど陸軍施設が集まっていた。銭湯の名はその名残りである。とはいえ、内部は改装されて至って普通なのではあるが……。
一先ず風呂にて長い車乗の疲れを癒し、その後、小生推薦の中華屋に移動し、本場の食堂料理を堪能した。食後はまた北上して京都市街へ戻り、喫茶店での懇談会を経て日を終えたのであった。
今日の走行距離は約40km。比較的平坦な道程とはいえ、相当な距離であり、個人的には記録的自転車行となった(昔砂漠で同じ距離を1日かけて歩いたことがあるが……笑)。
皆さん、お疲れ様でした、色々と有難う!
「銀輪」とは良い表現ですね。「銀輪平会」もしくは「銀輪会」として独立企画にしてもいいかもしれません。
探索地で行動範囲を広げることは以前からの課題でした。色々と示唆を頂き感謝しています。
また、一緒しましょう!