2018年04月07日

近代残影

舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道と、巨木ある原始林

舞鶴への1泊行

今日は午後から知人の車に同乗し、京都府北部の舞鶴(まいづる)へ。

4月の新学期を前に、同地の友人を訪ねたのである。いつもながら機会や空を利用した急な行動となったが、友人もちょうど良い時期だったので、好意に甘え、1泊の訪問をさせてもらうこととなった。

舞鶴は京都市街から北へ100km程離れた海辺の港町。近年全通した高速路を辿って2時間程で到着し、別用のある知人と別れ、友人と落ち合った。

夕方ではあったが、まだ陽があったので、友人の提案で郊外山上にある砲台跡を見学することにした。舞鶴といえば、近代明治から昭和の終戦まで運用された軍港が有名である。

かつて日本海側における最重要拠点であったそれを守るために往時周辺が要塞化されたが、砲台はその一部であった。

これも予定にない急な参観となったが、近代遺産として興味深いものなので、期待して向かうことにしたのである。


上掲写真: 急遽向かった舞鶴要塞の一部「葦谷砲台」へと続く山中の道。そこには樹齢数百年とみられる樹々もある豊かな自然林が広がっていた。人家・街道から遠く離れた半島僻地のため元は人が入らない、入れない秘境だった証であろう。そんな場所に突如近代施設が他に先んじて設置されるとは誰が予想できたであろう。正に歴史のダイナミズム。


葦谷砲台の入口石組と内部施設
葦谷砲台の入口石組と内部施設

旧舞鶴要塞「葦谷砲台」跡

舞鶴東郊を北上して山中に入り、幾つか隧道を潜って、やがて林道の果てのような場所に辿り着いた。そこから先は道が荒れ、舗装もなくなっていたため、車を降りて歩くことになった。

ここ暫く随分な陽気が続いていたが、今日は一転して寒さが戻ったので、上着を着こんでの再出である。土道の林道を登るとやがて巨木ある自然林が現れたのは、前述の通り。

そして、下界の明るさが戻ったような山上に到着すると、石組等が用いられた大規模な人跡が現れた。葦谷砲台跡である。砲台は舞鶴東部の標高200m超の山上を大規模に改変して設けられていた。


葦谷砲台内の井筒状遺構
葦谷砲台内の井筒状遺構

山上を刳り抜いて造られたとみられる砲台は、正にこれ一つが堅固な要塞であった。石組や煉瓦の質や施工状態は、地方の僻地とは思えぬほどの抜かりないものであった。

舞鶴市の説明によると、明治30(1897)年に着工し、同36(1903)年に完成して、その後、終戦まで運用されたという。明治36年といえば、彼の日露戦争前年である。迫りくるロシアとの対決に備え、急ぎ整備されたに違いない。

写真は花崗岩で造られた井筒のような設備。弾薬庫らしき施設前にあり、中に水が溜まっていたが、内部が井筒より広いため、井戸型をした貯水槽とも思われた。とまれ、伝統と近代の技術を組み合わせた明治の日本らしい、精緻な設備である。


砲側にあった待避所とみられる堅固な施設
砲側にあった堅固な施設

後方にあった弾薬庫とは別に、前方海側には待避所とみられる堅固な施設が点在していた。施設の合間には砲座跡らしき窪地や砲座用の構造を持つ石組側壁が設けられていた。


葦谷砲台の下部砲座と待避所前方を守る土手上に広がる海の見える平坦地
下部砲座と待避所前方を守る土手上に広がる、海の見える平坦地

施設の横、砲座の前方にある土手の階段跡を登ると海が見える平らな場所があった。下の砲座や施設を守りつつ状況を窺える造りである。


葦谷砲台の上部砲座跡

そして、平坦地の後方一角には写真の如き別の砲座跡が現れた。それは確認出来ただけで3座あり、水平射撃用の露出砲台のように思われた。下部の砲台は、角度撃ちで榴弾を飛ばす28サンチ砲用か。


葦谷砲台の上部砲座横にあった観測・指揮用と思われる施設跡
上部砲座の1つにはこのような待避所が併置されていた。観測・指揮用の施設か


葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる
葦谷砲台の上部平坦地より日本海(若狭湾)をみる

葦谷砲台の位置は舞鶴湾口の東側にあり、湾内に侵入する艦船を迎撃出来る場所にあった。似た条件の場所が幾つもあるなかで、艦砲攻撃や陸戦攻略が難しいこの場所が選ばれていることに、ただただ感心。


葦谷砲台から続く尾根上にあった人為的窪地

ただ、少し海から遠く感じられたので、平坦地から前方に続く尾根を辿って他の施設を探してみた。

山中の畑や電波塔を過ぎ、約200m離れた森なかの小頂部に至ると、やはり人為的な窪みと石材等が見つかった。樹々が無ければ平坦地側より良く海上が観察出来るため、別の砲座か観測所の跡かと思われた。

その他には、平坦地の直下、畑の手前に土塁に囲まれた広い平坦地があり、何かの施設跡である可能性が感じられた。


IMGP6325.jpg
舞鶴湾口の夕景

明治150年に相応しい参観終了

やがて陽も陰ってきたので、引き返すことに。急ではあったが思わず近代遺産に触れることが出来て良かった。明治150年の年に相応しい参観である。

しかし、重機や自動車が無かった明治期に、よくもこんな僻地・高地にこれだけ重厚な施設を造れたものである。しかも短期間に。立地選定を含め、これも近代西洋を猛追する日本の姿が垣間見られるような遺構であった。

その後、市内に戻り、友人宅で手料理等を頂きながら積る話に花を咲かせた。友人はこの春転居しており、その新居がまた軍港時代に関連する興味深い遺構でもあった。

色々な体験を有難う、感謝!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行
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