2018年12月02日

鴨東巡街

朝日に輝く京都・粟田神社の鳥居と「感神院新宮」の扁額

厚い歴史と、政治・文化の要地を巡る

今日は久々の平会(ひらかい)。山ではなく、主に平地の歴史・地理・民俗等を巡る集いの開催日である。

久々とはいえ、今春(6月下旬なので初夏?)以来の開催で、例年盛冬・盛夏は避けるため、まあ、いつも通りというか、予定通りか。

11月から続く温暖な気候の中、朝から京都市街中東部の東山区へと向かう。集合場所の左京区南部から自転車で南下し、間もなく同区内へと入った。

東山は我々にとっての身近な地域。そして祇園・八坂神社などで知られた観光地であったが、市街地としての厚い歴史や、政治・文化の要地としての特性を有す特異な地域でもあった。今回は事前の要望により企画したが、個人的にも楽しみとするところであった。

さて、何に出会えることやら……。


上掲写真: 朝日に輝く東山区北辺の粟田神社の鳥居と「感神院新宮(かんしんいんしんぐう)」の扁額。感神院とは祇園社、即ち現八坂神社のことで、同社の分祀として創建されたとの由来を窺わせる。しかし、古代この地に居した粟田氏の氏神であった伝承もあり、その場合は途中で祇園社(延暦寺)の支配下となった事情を示すものともなる。


京都・東山三条交差点に残る京阪京津線旧路跡
東山三条の交差点北東に残る京阪京津線旧路跡。駐車場の斜めの区画やそれに続く家屋の並びに痕跡が窺える。旧路は95年前に廃され、その後同線は山麓の蹴上までの三条通上に路面化、そして平成9(1997)年の地下鉄東西線との共用化により地上から姿を消した

古跡を辿りつつ北から東山入り

その下流部が東山市街と深く関わる白川(しらかわ)を辿りつつ同区内に入ったが、途中、明治期の疏水工事で廃されたその旧路跡や明治初めまで河畔にあった「悲田院村」の跡等を観察した。

そして、今は宅地の路地と化した京阪京津線の旧路を辿りつつ、古の東海道、即ち現三条通に出た。写真は東山三条の交差点北東角に残る京津線の痕跡。

かつて三条から続いた路面軌道から、北東斜めに宅地へ入る形の京津線旧路は、大正元(1912)年の開通から同12年までの間、未拡幅であった同地以東の東海道を北に避けるように蹴上まで設けられた。

100年近く前に廃され、既に古い町家が並ぶ路地等になっている為、かつて複線鉄路があったことに驚きの声も上がる。


京都・三条通一筋南の小道沿いの古風な民家
三条通一筋南を並走する小路沿いの古風な民家。軒下の干し物は住人氏への配慮により一応画像処理

その後、中世以前の古い東海道の可能性があるのではないか、と個人的に注目している三条通一本南の小路を東進。

写真は沿道の古い町家。目敏い参加者が見つけたが、今時外戸に障子貼りとは珍しい。木製の欄干の風情も良く、何やら長逗留している幕末の浪人者でも顔を出しそうな雰囲気である。


京都・三条通一筋下の古道
ホテルにより遮断される直近の三条南古道(西、即ち下手・都側を見る)

小路は、恐らく江戸幕府により有事用に配された山麓寺院群の門前に沿って高度を上げながら続くが、やがて蹴上の都ホテルにて途切れた。

ここが古い東海道の跡ではないかと考えるには、以下の理由がある。

・近世東海道より、平安京三条との南北位置に良く対応していること
・近世東海道が新道を指す「今道町」を通ること
・大規模な屈曲等の、近世以前の防御改変がみられること
・日ノ岡峠へ向かうための傾斜が緩やかで交通効率が良いこと
・古い地図に、更に続く道や、道跡を窺わせる字界や郡界があること
・宇治拾遺物語にも街道沿いと記される、刀工街「鍛冶町」を通ること
・地元に旧路との伝承があること


京都市街東部にある三条南裏路地から三条通へと抜け下りる町家路地

まあ、この小路は歴史的風情や可能性を持っているだけでなく、うらぶれた間道(かんどう。抜け道)的風情も、その特質であった。京都の人間でも意外と知らない人が多く、参加者からも感心の声が聞かれた。

写真はそんな小路終端近くから、東海道即ち現三条通に下り抜ける、これまたうらぶれた町家路地。ただ、付近は既に無人の家屋が多く、取り壊しや改変の危機迫る、嵐の前の静けさの如き気配も感じられた。


陽を受ける紅葉ある京都・円山公園

自転車から徒歩散策に転換

小路探索の後は、来た道を戻り、青蓮院横から知恩院前に入り、次いでその南の円山公園に入った。ここで一旦自転車を置き、付近や更に南の清水(きよみず)地区を巡るのである。

知っての通り、これより南は道が細く、観光客で著しく混雑するための対策であった。


京都・大谷祖廟の参道

徒歩となってからは、意外と知らない円山公園裏・山手の料亭や寺院を巡る。写真は公園南横から東山山腹方向へと続く東本願寺「大谷祖廟」の立派な参道。この上手には同寺の廟所や墓地があった。

大谷祖廟は近世初期に西本願寺から分派した東本願寺が、寛永10(1670)年に独自に宗祖親鸞らの廟所を用意したことに始まる。本来の親鸞の廟所も、この「大谷」や「吉水(よしみず)」の地にあったとされ、それを復興した形である。

因みに円山公園は明治の廃仏毀釈で上地(あげち・上知。政府接収)された近隣社寺領を以て造られた。


京都・東山のランドマーク「八坂の塔」

大谷祖廟見学後、また下って高台寺横の河道等を探った。そして南下して(東山裾野を横断する形で)観光客で混みあう写真の「八坂の塔」下に出た。

本来避けるべきであるここに至ったのは、やはり塔がこの地域の象徴的存在であること。塔を管轄する法観寺は、聖徳太子建立説もあるが、古代この地にいた渡来系住人・八坂氏との関連を考える説が有力である。

現在目ぼしい伽藍は塔のみで、それも室町時代の再建だが、境内の発掘では飛鳥時代の瓦が出土するという区内屈指の古寺で、長きに渡り東山山麓のランドマーク的存在であった。因みに祇園社も6世紀後半頃から農業神として地元で崇敬され、八坂氏とも関りがあったと推察されている。


京都・東山山麓の霊山観音

山腹の鎮魂地「霊山」

八坂の塔からは混みあう路地を抜け、また山側に向かい、高台寺裏の霊山(りょうぜん)に至った。写真はその高台上にあった霊山観音。

広大な駐車場を含めた意外の広さに驚くが、元は佛殿等の高台寺主要伽藍と背後の曙稲荷の敷地で、昭和30(1955)年に大戦戦没者の鎮魂施設として造られた。本来は外観のみの見学であったが、参加者の希望もあり、暫し境内を参観することとなった。

昭和中期の雰囲気のまま、時が止まったような施設であったが、大叔父が比島方面で行方知れずとなっていることもあり、受付でもらった大きな線香を神妙に観音前へ供えた。


京都・霊山護国神社付近の新道坂

霊山観音の敷地南横には急坂があり、山腹へと続く。それを上り、道なりに南へ折れると写真の如く、更に急な車道があった。地図によると、この区間は戦後付けられたもの。

付近は維新前後に開かれた招魂社、即ち霊山護国神社の施設や墓地があり、かの坂本龍馬らの墓で有名な処でもあった。

南方清水寺方面へと向かうため、この坂を上る。二年坂(二寧坂)より山手にはこの道しか抜け道がないためである。


京都東山山麓にある正法寺参道

新道の坂を上りきると、東西上下に続く石段道と出会う。時宗寺院・正法寺(しょうぼうじ)の参道で、元は霊山の名の由来となった、平安期創建の霊山寺の跡地でもあった。

しかし、よくもこんな場所に無理やり寺を開いたものである。まさに、これも修行か、超俗か(笑)。


京都東山山麓にある興正寺本廟の裏道

正法寺参道を横切る車道はやがて西へ折れ、下りとなった。このままでは二年坂まで下がり混雑に巻き込まれるので、なんとか南行の方法を探る。

すると、急坂だが古道の風格をもつ写真の道が現れた。上ってみると興正寺の墓地に至り、その向こうは深い谷となり進むことが出来なかった。ここも、本願寺の一派の同寺が独自に親鸞の廟所を設けた場所であった。

その名は興正寺本廟。古図によると、古道は正に親鸞本廟への専用道であった。ここも、無理やり山腹を開いて造ったようである。高い人気と需要を誇りながら、土地が狭い霊山・清水地区を象徴するような寺である。


京都・清水寺南門外に続く古道踏襲車道

喧噪と陰鬱混じる葬送地「鳥辺野」

南への通り抜けが叶わず、興正寺本廟の境内を東に下り、結局二年坂に出ることとなった。時間的にも良い頃合いため、遊山の人ごみが著しい。

途中最後の抜け道を試みるも、塞がれていることが地図で判明したため、仕方なく三年坂(産寧坂)に入り清水寺前に至った。

そして、工事の幕で覆われた清水本堂の舞台下を通り、境内南外れの門外に現れたのが写真の場所。山の林道風情だが、清水門前の松原通(旧五条通)から続く古道でもあった。

この道は、この先、山間の清閑寺下を過ぎ、古くからの要路・渋谷街道と合流し、山科と接続する。即ち都や鴨東(おうとう。鴨川の東)地区と、東国及び北国を繋ぐ古道なのである。

ただ、境内の喧噪が急に途絶え、奥山の陰気が今も感じられる場所であった。『今昔物語』にもこの付近に人を誘い殺す怪しい館があったと記す。そいうえばここは葬送地・鳥辺野(鳥部野)であった。付近の山林にも新旧の墓石が数多眠っている。

そのような、道のこと、土地のことなどを解説後、人ごみから逃れた落ち着きと共に、暫し昼食休憩をとった。


京都・西大谷にある大谷墓地

昼食後、清水境内に戻り、表門南の道を東へ下る。そして、すぐに一同声をあげるような、写真の墓地景と出会った。所謂「大谷墓地」である。

本来の「大谷」はここより北の祇園社裏辺りだが、17世紀初めに西本願寺が麓に独自の親鸞廟所「大谷本廟」を設け、ここを西大谷と呼んだため、その名が使われるようになった。

これも、真宗聖地としての東山人気を物語る光景か。因みに、墓所の下部には親鸞の荼毘所跡もあった。


京都・清水五条地区の景観破壊

清水焼にみる観光公害と伝統の行方

墓地を東に下って市街地に出、幅広い現代の五条通に達した。

ここは、江戸期以来、清水焼の販売店や窯元が集中する京焼のメッカである。そこを見学するが、現状は実に寂しい状況にあった。

写真は五条沿いの町家店舗や裏の工房が破壊された跡である。その全体面積は写真に写っている数倍に及ぶか。工房が隣接する懇意の窯元に聞いたところ、ホテル建設による買収だという。


京都・五条坂のやきもの路地
工房や長屋が密集する五条坂のやきもの路地。買収空地の隣である。ここはまだ風情が残ってはいるが……


京都・五条坂の登り窯跡

買収空地隣の路地に入る。今日は路地内の工房は休みだが、事前に話は通しておいた。

路地は一見変わらぬ風情が残っているが、既に入口付近の長屋が改変・民泊化されており、最近まで営業していた別の工房の解体も始まっていた。

写真は路地内に残る貴重な登り窯遺構。既に天井がないが、昭和40年代に公害防止の法や条例が出されるまで使われていたようである。戦前、付近で20を超える登り窯が稼働していたされるが、その内の一つか。

知己の窯元も普段この路地内で生産活動を続けている。登り窯は使えないが、轆轤(ろくろ)成形や絵付等の手作業により、実用的で美しい器を生み出していた。しかし、後継者や経営的な事情等により、いづれ廃業せざるを得ないという。


やきもの店や倉庫等が並ぶ、京都・五条坂の路地

参加者には路地裏に眠る貴重な窯跡等の実見により感心されたが、個人的には産地の荒れ様に複雑な心境となった。

やきもの店舗や倉庫等が居並ぶ写真の路地も、小時から知る五条坂の典型であるが、一体いつまで保たれるのか。気づけば、ここ以外で同様の風情はほとんどなくなり、またここも方々に廃滅の気配が漂っていた。

現代的な国道沿いに並ぶ伝統家屋のすぐ裏で、素晴らしいやきものが手づくりされていることこそが、京都の重要な観光資源であり魅力ではないのか。今押し寄せている観光客も、本来はそんな奥深い京都に期待していた筈であろう。

それが、今見捨てられようとしている。

そして、その隙を衝き、観光客用の宿や娯楽施設が無計画に増殖し、方々で街や暮しを破壊している。これでは誰のための街か、何のための伝統か解らない。一体行政は何をしているのか。

千客万来に浮かれている場合ではない。近い将来、薄っぺらな街になったことが露見し、多くの観光客から見捨てられる日が来るようでならない。


京都・六波羅地区の古いアパート
六波羅地区に残る古いアパート。建具や屋根の構造等から戦前築と思われた。段差は東大路西を南北に走るとされる断層か

六波羅・祇園地区

憂い深い清水五条地区を離れ、路地を北上して六波羅地区をゆく。ここも清水寺の門前街として古い歴史を誇る地域であった。

時に寺社の軍事力ともなった車借(しゃしゃく)や犬神人(いぬじにん)らの居住や、念仏聖の空也や一遍の活動、平氏一門の集住、鎌倉幕府の六波羅探題設置等が挙げられる。

特に重要なのが、此岸と彼岸の境とされた「六道の辻」等の鳥辺野入口としての役割である。そのため現在も六波羅蜜寺や六道珍皇寺(ちんのうじ)等の関連寺院があり、お盆時期等は独特の風習を保持している。六波羅や轆轤町という地名も、髑髏が由来とする説さえあった。


京都・祇園の茶屋街付近の路上でのからすみの天日干し
祇園の茶屋街近くで遭遇した唐墨(からすみ)の天日干し。末端価格は一体全部で幾らとなるのか(笑)

六波羅を抜け、建仁寺境内を通って祇園に入る。やはりここも遊山客で混んでいた。なるべく外れの路地を選び、自転車のある八坂神社・円山公園を目指す。

しかし、結構な距離や登坂を歩いたため、皆かなり疲労し、また時間もあったため参加者の知る喫茶室で暫し休憩することにした。良い意味で昭和的高級感に満ちたそこは、四条通沿いながら人の少ない別天地であった。


大和大路に面する豊国神社からみた京都市街の夕景

七条・今熊野地区

喫茶店での休憩後、円山公園に戻り、自転車で南の七条方面に向かう。

写真は大和大路に面した豊国神社からみた市街夕景。豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社で、元は秀吉が16世紀末の天正年間に造った大佛殿の跡地。

大和大路を南下した去年秋の平会でも解説したが、今に残る巨大な石垣や大佛殿の最新発掘結果について解説した。

その後、隣の三十三間堂境内南端に残る秀吉寄進の豪壮な築地塀「太閤塀」や南大門を見学。太閤塀は元来大佛殿の石垣に接続していたもので、秀吉が三十三間堂や周辺寺院を含めた宗教地区を再構成した名残りでもあった。

因みに、三十三間堂は平清盛が平安末期に後白河上皇に寄進したとされるもの。現存の建屋は火災後の鎌倉期に再建されたものである。後白河上皇はこの地に法住寺殿と呼ばれる離宮を営み院政の本拠地としていた。


夕闇迫る京都今熊野の剣神社

今熊野にて探索終了
鴨東の価値や役割を再認識

七条の豊臣宗教地区の次は更に南して九条手前の今熊野に至る。

写真は地区の山手で、山科に抜ける古道「滑石越(すべりいしごえ)」にも近い剣神社(つるぎじんじゃ)。白山神等を祀る小さな社だが、個人的に好みの場所だったので紹介した。

滑石越は平安末期の条里図に「交坂(かたさか)」と記された古道。渤海使等が平安京に入る際に使ったとされる古代の主要路で、近年その傍の西野山古墓が坂上田村麻呂の墓所であるとの新説も出された。

剣社で暗くなったので、これ以上の探索を中止。最後は帰り道にある新熊野(いまくまの)神社の解説をして今日の探索を終了した。新熊野神社も後白河上皇の関連地。永暦元(1160)年に創建され、上皇お手植えと伝わる境内の大楠の樹齢も合致し、その歴史を傍証する。

その後は左京区南部に戻り、参加者が予約していた信州料理店で打上げ。食後は近くで美味しい珈琲を飲みながら更に語らい日を終えたのであった。

今日は、東山区を巡ったが、京外の地でありながら早くから市街として成長した歴史ある姿を改めて認識した。また、交通や政治の要地としての多大な役割や、日本の歴史全体に与えた影響も考えさせられた。

平安京以外に都市と呼べるものが無かった時代から既に、貴賤様々な人々が集い、名実共に都市を形成した東山・鴨東地区。

まさに「京外要市」、または一時的には「京外首府」とさえ言えるような名が相応しい地域かと思わされた1日であった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会
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