
溶岩が成す境界要地「夜久野」へ
今日は朝から友人と京都府北西部に出掛けた。
目的地は、兵庫県との境を成す「夜久野(やくの)」。そこに在るという溶岩台地や京都府唯一の火山を巡検しようという、地学紀行への付き添いであった。
夜久野は、京都と山陰地方を結ぶ鉄道山陰線や国道9号線が通り、古くは旧但馬・丹波の国界でもあり、古来畿内と西日本日本海地方を結ぶ要地。「野」という地名から、なだらかな高燥斜地を想像していたが、実は広い谷地が溶岩により塞がれて形成された場所であることを教えてもらった。
そうした夜久野の地学的特異性は勿論、元々地政学的・歴史地理学的にも当地に興味があったので、期待して向かうこととなった。
上掲写真 京都唯一の火山「宝山(たからやま。田倉山)」中腹より見た夜久野ヶ原東部(京都府側)。低い山地に囲まれた平野に、手前または右側から二層以上の溶岩が押し出し台地を形成しているのが判る。
国土地理院1/25000地形図の夜久野ヶ原中心付近。上部(北)に標高349.7mの三角点をもつ山があるが、そこが夜久野溶岩台地の生みの親とされる宝山。即ち、ここから四方八方に溶岩が流出し、古くは「二国嶽」と呼ばれた最大比高100mに及ぶ台地が形成された。なお、この図は縮小・拡大・移動が自在なので、以降記述に沿って参照してもらえれば幸いである

高内集落の西に立ちはだかる夜久野台地東端。中腹に単線の山陰線が通る
先ずは歴史地理的発見
京都から車で北行し、府北部の主要都市・福知山をかすめて夜久野台地東部に至る。麓には高内(たかうち)という集落と、東流・福知山に至る由良川水系の牧川があり、その西に小山の如く、防壁の如く立ちはだかる台地突端があった。

石畳残る古い山陰道の跡
今の国道から外れる高内集落から続く旧山陰道は、台地下の耕地の農道として行き止まったが、写真の如く、台地を上る小道として続いていることを発見した。良く見れば石畳の設えさえあった。
半間程の幅だが、確かに山陰線の踏切を経て上方へと続いている。徒歩にて辿るとやがて道はつづらを成して台地崖を上り、その上方へ出ることが出来た。
路端には古い石積みがあり、頂部には城戸の如き切通しもあった。何の予備知識もなく来たが、前近代に遡る山陰道と関連するものに違いないと感じた。ひょっとして、上部に関所か古くは城塞でもあったのか。
また、つづらになる前に真っすぐ崖を巻き進むような分岐もみられ、更に古いルート・遺構の可能性も窺えた。

推定古山陰道跡には本日の主目的たる、多孔質の溶岩片もあった

推定古道の上部、即ち夜久野台地上にも、やはり土道が続いていた。

土道を更に西へ進むと農地や湿地が現れた。今は完全に農道化しているが、この先は9号線重複部分まで続いていた。地形図にも、黒線の小道としてその効率の良いコース採りが窺える

そして、十字路の脇に天保年間(19世紀前期)の紀年のある道標兼用の石佛が現れた。帰宅後に調べたところ、やはりこの道は近世以前の山陰道の有力候補らしく、地蔵が指さす左(北)の道は丹後宮津へと向かう西国巡礼路「成相道(なりありみち)」に合するものという

古山陰道の南近くには現代の山陰道、国道9号の切通し登坂があった。古道の坂は「面坂(めんさか)」というらしく、明治17(1884)年にそれに替えて通されたとされる新道がこれか。後代の改修もあろうが、硬い溶岩をこれほど深く長く掘り取るのは容易なことではなかったと思われる。
因みに、最初の官道・古代山陰道は『延喜式』等の研究から、福知山を通らず篠山経由で夜久野南数kmの遠阪峠を越えていたという。夜久野が主路と化したのは中世以降で、『上夜久野村史』は面坂ではなく北回りで台地を越えるルート、『夜久野町史』はその説を踏まえて面坂ルートを近世路として推定している。

牧川沿いの柱状節理の崖
各所に残る溶岩地帯の証
今日の主題は地学紀行の筈が、乗っけから歴史地理的となったが、その後また高内に下降し、近くの路端にあった柱状節理の崖を見学した。案内板も設置され、それが溶岩由来であることなどが解説されていた。個人的には崖上に通された灌漑水路への興味もあったが、その後の行程や時間を気にして止めた。

続いて「成相道」の途上であり、溶岩台地の北口ともなる水上集落を経て上夜久野駅に向かう。水上集落では民家の古い石垣に溶岩が利用されていることが確認出来た

上夜久野駅西方の山陰線と台地崖
上夜久野駅周辺の謎
写真手前には台地を潜る長い夜久野トンネルの入口があり、台地南西麓に通じている。単線ながらトンネルの入口は2つあり、南側の使われていないものは明治44(1911)年の開業当初のものという。ここにも、交通の障壁たる溶岩台地に対する難儀の痕跡があった。

上夜久野駅東方の山陰線路盤近くより駅前集落と下部に広がる谷地を見る
トンネル付近の山陰線は当初台地を掘りとって造られたのかと思ったが、駅前で突如谷に落ちる川の流れや、その他不自然な地形を見て、不可解の念を禁じ得なくなった。
地形図を検討すると、どうやら、元々あった谷を埋めて駅や路盤が造られているように思われた。そう考えると線路の掘りこみは沢筋であった可能性が高い。その証拠に、線路上部に沿う車道に代替的な暗渠河川があり、線路傍にも排水ポンプらしき設えがあった。
難儀な地質・地形故に、色々と知恵や労力を用いたのか。

次はいよいよ台地上にあがり、京都府唯一の火山・宝山を目指す。写真は地形図の中心にある府県境辺りからその姿を見たもの。頂部にカルデラ状の窪みがあり、手前側が崩落してるのが判る
宝山登頂参観
因みに、この中心地は図中右下から黒線車道として接する古山陰道や、同右上の水上方面へ伸びる成相道等が交差する要所で、傍には旅人に湯茶を供して「茶堂」と呼ばれた放光院も立つ。

宝山の登り口の駐車場から徒歩で山上を目指す。道は急だが、写真の如く遊歩道的なもので、道程も高低差もさしたるものではなかった。ただ、予報より早く雨が降り始めたのは気掛かりなところ

山頂は遠くから見た通りの輪状で、平坦な場所であった。確かに噴火口的地形ではあるが、一帯植林されており、火山的雰囲気は皆無であった。まあ、30数万年前に活動した場所なので、致し方あるまいか

山頂の輪を巡り、登り口とは反対方向から噴火口跡と推定されている窪地に下降した
ここも針葉樹が密植させられた場所であったが、地形の観察は行い易かった。ただ、枝打ちされぬ荒れた風情と、噴火口近くまで通された車道により谷側(山体崩落地)が破壊されていることが気になった。身近に火山跡を観察できる近畿では貴重な場所で、上手く整備すれば、大きな観光資源と化す可能性が窺われたので、勿体なく思われた。
夜久野の溶岩台地は、30数万年前にここが3度程の噴火を起こして形成されたという。そして最後の噴火の際の噴出物(スコリア)により、今の宝山が出来たとされる。ただ、崩落部の形成原因を始め、まだ未知のことが多く、その活動全容は解明されていないようである。
因みに夜久野の地名由来には、薬草生育地「薬野」の異字化、8世紀初頭の山火事、屋久島(史書記載名は掖玖・夜久)人の居住、古代官道の「駅」の転訛等の諸説があり定かではない(駅説は古代官道から外れていたため可能性は低い)。別に火山に関するという説もあるが、噴火は有史の遥か以前のことなので、それへの信用は低い。ただ、古代湖等、有史以前の環境を示唆する古地名は全国に数多あり、個人的に関心を持っている。

丹但境界付近にある二国神社の鳥居と境内
旧国界・分水界をゆく
本日の主要目的地であった宝山踏査を無事小雨で乗り切り、台地上の道の駅で夜久野蕎麦を食して暫し休息。雨は止まず少々強まりさえしたので、タイミングがよかった。食後は同じ敷地内にある郷土資料館に寄るが、町内個人の化石コレクションが主体で、残念ながら地学や郷土史に関する資料は乏しかった。
その後、台地南部の二国神社という社に向かう。溶岩流が南縁の山地に当たって止まった辺りで、現府県境で古の但馬・丹波国界付近に在る名の通りの神社であった。友人はこの裏手にあるという分水界を見たかったらしいが、その平地分水界は地形図よると、両方共丹波由良川水系であった。

二国社の次は、また台地中心部に戻り、その付近の旧国界を踏査。中央部の平地を横切る境界は写真の如く、樹々のある小高い土塁の如き姿で長く続いていた。境界の緩衝地帯として開発から外された元の原野や、人為的に構築された防塁等が考えられたが、手がかりはなかった

その土塁状の高まりの北に何やら石が立っていたので近づくと、写真の通り古い石碑であった。「従是東丹波国福智(ママ)山領」とあり、これより東が丹波福知山藩領であることを示す明治初年頃までに建てられたものであった。友人はそれに柱状節理の六角溶岩が使われていることを指摘。確かにその通りで、現地の材料を上手く利用したものであった
その後調べたところ、国界の高まりの謎は解らなかったが、地形図を観察すると、両国の水系つまり円山川と由良川の分水界に沿って国境が引かれていることが判明した。よって、元から存在した台地の背的場所であり、両国の耕地開発により残った残丘的なものである可能性が高まった。

国界の次は、古山陰道の名残りとみられる、中心地から北西に伸びる道を辿り台地西麓にある石部神社に向かう。そこは台地斜面の途中から生じる谷の下部にあり、豊富な水源を擁する潤いの神域であった。溶岩台地の地下水が谷水や湧水として現れる場所で、境内には写真の如く清澄な池もあった。その西には広大な耕地が広がっている。恐らくそれらを育む水の聖地として古くから崇拝された場所であろう。実際平安初期の『延喜式』に記載がある「刀我(とが)石部神社」に比定されているという

気になる地形の正体は……
溶岩台地と水の関係を見たあとは、また中心地に戻り、その南方にある小山に向かう。これは国界見学同様、私の歴史地理的興味によるものであった。実は夜久野訪問前に地形図で奇妙な地形を見つけていた。
それは、中心地南部に見える228.0mの標高が記された三角点がある小山である。小山は台地南端に突き出た形状であるが、北の台地との付け根に不自然な谷の存在が観察された。
恐らくこれは城塞で、人為的掘切りで台地から切り離されているのではないか……。北には古山陰道や成相道が通り、崖下には現国道9号、即ち間道的谷道がある夜久野随一の要衝である。
これまでの経験や知識、勘を試すためもあり、敢えて下調べをせず、これを確かめに向かったのであった。
結果は写真の通り、その山中には山城特有の平坦地「郭(くるわ)」や土塁の跡が見られた。ただ、現地には何の案内もなく、確定はのちの調査後となった。町史等によると、やはり連郭式の城塞址で、城主は不明ながら16世紀後半の戦国末期に運用された「夜久野城」と呼ばれる城という。
戦国末の夜久野周辺では、高内を本拠とする土豪・夜久氏や、台地南西麓の磯部を本拠とした山名庶流の磯部氏、同北西麓東河(とが)の土豪・上道(うえみち)氏らが活動したが、但馬側の立地であること、その本城の造りと似ていることなどから磯部氏との関連が窺われる。実際、磯部氏の本城も、同様のものを地形図上に認め、発見できた。
雪の影響が少なく通年通行が可能だった為か、中世以降山陰道の主路と化した夜久野は、その要地性故に争乱の場ともなった。史料上では、南北朝動乱(14世紀)や応仁の乱(15世紀)での合戦が記録されている。
とまれ推察が当たったことは良かったが、ここでも貴重な歴史教材・観光資源が活かされていないことを残念に思った。

夜久野玄武岩公園の柱状節理
最後は夜久野を象徴する場所へ
雨の城塞探査後は、友人が最後の目的地に設定していた台地東南の玄武岩公園へ。写真の如く柱状節理を最も観察出来る、溶岩地帯・夜久野を象徴するが如き公園であった。
ここは元石切り場で、国界碑の如き六角柱の石材を切り出した跡地を公園化したという。学校教育で知っている人も多いだろうが、柱状節理は溶岩が冷え固まった際の割れ目により生じた岩石である。
公園は左右に採石面が見えるもので、その間に小川の川床があった。しかし、溶岩台地の末端を掘りとった場所に思えたので、小川は採石後に出来たようにも。そうなると、南西や南の谷から来る小川の水は元はどこに排出されていたのか。
ここにもまた、地学・人文的謎が感じられたのであった(存知の人は是非ご教示を……)。
玄武岩公園の参観を以て夜久野探索は終了。あとは元来た道を辿り、京都市街へと戻ったのであった。