2019年06月19日

令和京焼会

京焼学習会の会場となった、京都・銀閣寺前の生活骨董の店「呱々」2階

京焼の奥深さに迫る
「京焼学習会 at 呱々&五条坂」開催


今日は、一応、京都市街及び近郊の歴史や文化を探査する「平会(ひらかい)」名目に含めた「京焼学習会」の日。

山ではなく平地探究の会なので「平会」、また京都市街のやきもの(陶磁器)「京焼(きょうやき)」を学ぶ集いなので「京焼学習会」となった。後々催事の分類が変わるかもしれないが、今は一先ずということで……。

写真は、学習会の会場となった、銀閣寺前の生活骨董の店「呱々」さんのひと間。古い町家を品良く、また個性的に改装した店舗の2階にあり、金継ぎ教室等の催事や、その他用の空間となっている。

交通至便な立地に在りながら路地奥ということもあり、ちょっとした隠れ家的雰囲気である。今日はここで午前中に座学を行い、午後から京焼、即ち清水焼(きよみずやき)の本場「五条坂」探訪に向かう予定であった。

朝10時に有志が集合し、資料に沿って京焼の歴史や特徴を学ぶ。今回は呱々さんたっての希望による京焼探究。京都に住む我々にとって身近な存在ながら、一目には掴み難いその奥深さに迫ろうとする企画であった。

講師及び道案内は、予告通り、やきもの好きで、東西の名窯・名工に関する記事を多く書いた私。京窯は古くからの都市域に在るため考古学的調査が遅れていたが、幸い近年の再開発により新たな知見が得られ始めた。

今日はそれら最新情報も持参して臨んだのであった。


中世古窯風の焼締め胎土に高麗青磁風の雲鶴文象嵌装飾を施した現代京焼の香炉(筆者蔵)
中世古窯風の焼締め胎土に高麗青磁風の雲鶴文象嵌装飾を施した現代京焼の香炉(藤氏蔵)。内外様々な技法・表現を採り入れながら、繊細確かな成形や都会的美意識で雅にまとめられた、正に京焼の典型作。道具屋の店先で見て瞬時に京焼と確信したが、後日まさに清水焼と判明した(笑)

京焼とは

ここで京焼について解説しておこう。「都のやきもの」京焼は、市内他所の窯が廃れた現代では清水焼を指す名と化しているが、本来は確かな定義はなく、時代や呼称者毎に変化する。ただ、平安遷都後も作られた「須恵器(すえき)」「土師器(はじき)」「緑釉陶器」等の古代・中世陶器は含まず、近世(桃山・江戸期)以降の産品を指すことが一般的である。

また、轆轤(ろくろ)を使わず、大阪起源説もある楽焼(らくやき)を含めない考えも根強い。16世紀末頃から洛中で作られ始めた「軟質施釉陶器(押小路焼(おしこうじやき)等)」が祖とされ、それに野々村仁清(にんせい)が瀬戸焼等の技を加えて17世紀半ば頃、確立させたとされる。

仁清の上色絵(うわいろえ。釉上彩)・金彩使いの高級陶器は尾形乾山(けんざん)に引き継がれて発展した一方、17世紀初期頃に粟田(あわた。粟田口)焼・修学院焼・岩倉焼・音羽(おとわ。五条坂)焼・清水焼・清閑寺(せいかんじ)焼・八坂(やさか)焼・御菩薩(みぞろ。御菩薩池)焼等が、唐物(からもの)写しや銹絵(さびえ)・下色絵(したいろえ。釉下彩)・染付(そめつけ)を特徴とする生産を始め、やがて仁清風の上色絵生産も始めた。

18世紀末に奥田頴川(えいせん)が磁器焼成に成功すると19世紀初期から清水や五条坂でその量産が始まり、色絵陶器と磁器が京焼の二大製品と化し、産地も色絵主体の粟田焼と磁器を加えた清水(含五条坂)焼に大別されるようになる。その後、清水焼が生産量で粟田焼を圧倒。他の窯の衰退や昭和初期の粟田焼廃窯により清水焼が京焼の代表・同義語となった。

清水焼とは

京焼の一種で、他の京窯が衰退した現代では、京焼と同義的に見做されている。本来は「清水寺領内の窯製焼物」を指したが、産地拡大と、付近の清閑寺窯や音羽(五条坂)窯らの拡大と、それらとの連携・融合により一帯の総称となった。

大正期には南接する日吉(ひよし)・泉涌寺(せんにゅうじ)地区、昭和後期には市街東郊・山科(やましな)の清水焼団地や宇治の炭山(すみやま)が新たに開かれ、特に前者が主力産地に。

清水・清閑寺・音羽の各窯共に仁清の御室焼(おむろやき)に先行する古い窯場で、江戸中期以前の古い物は「古清水」等と呼ばれる(古い京物軟質施釉陶器全般を指すことも多い)。19世紀初期から他の京窯に先駆けて磁器生産や量産を行い、その優位性を確立して京焼の代表的存在となった。

京焼の特徴

元は陶器から始まり、後に磁器生産も導入されたため、前近代から両方の製品を産出する。また、様々な人や物・情報が流入した都という土地柄か、その作風の幅はかなりの広さを持ち、貴人の嗜好・要望の影響か、器胎が薄く、造形や装飾等の意匠が雅で洗練されているという特徴をもつ。

逆に、その作風や器種の広大さから、特徴が捉え難い焼物とも称される。端的に言うなら「一言では特徴を言い難い都会の焼物」とでも称せようか。日用雑器や器具等も生産されるが、基本的には茶陶(ちゃとう。抹茶器)や煎茶器(せんちゃき)・懐石食器等の高級陶磁器が主体である。

その技術的特徴は、轆轤の使用、素焼きの実施、陶器の白化粧下地の採用等がある。焼成に使われた登窯(のぼりがま)は京式と呼ばれる特有のもので、磁器と陶器の同時焼きの為の床傾斜の混在等が特徴となっている。


京都・五条坂の歩道をゆくアジア系観光客の姿と路肩の大型バス。岡田暁山前より

午後は巡検。五条坂へ

さて、鋭い質問も活発に出た午前の座学会が終り、予約したタクシーに分乗して南方は五条坂に至る。先ずは地元の気兼ねない名店「弁慶うどん」を賞味し、五条坂を散策した。

写真は五条坂坂下の起点辺りから西の賀茂川方面をのぞんだもの。歩道をゆくアジア系観光客の姿と、路肩の大型バスが昨今の状況を象徴する。

因みに、近世以前から続く五条坂は、戦中の建物疎開により幅約3.6mから南に向け約60mに拡幅され、多くの窯や店、陶工住居が破壊されたという。即ち写真右に見える古い窯元住居は助かった北側地区で、左の南側は現在国道1号バイパスとなっている。

ちょうど歩道が旧道の幅くらいで、バスの辺りに今や幻の戦前陶器街が並んでいたのである。


京都五条坂・岡田暁山窯の白磁表札と英文看板

30年前の店舗図手に
五条坂北を東上探索


残存五条坂北側陶磁街では、始点の大和大路(やまとおおじ)から終点近くの東大路までを探索した。事前に用意した平成元年製の陶磁組合(陶栄会)店舗図を手にしてである。

そこでは30年の歳月を経て残った建物や事業と、跡形もなく変化した両方の姿があった。大店(おおだな)ながら呆気なく消失したり、小店ながら逞しく残存したりする様子で、まさに栄枯盛衰・諸行無常の観があった。

特に組合会長も輩出し、地区の顔的存在であった陶業ビルが全館観光施設化していたことには驚かされた。

写真は、とある作家窯の玄関に掲げられた表札と看板。表札は陶家らしく白磁で作られており、看板は高級陶磁産地らしい英語表記があった。

興味深いことに、看板の屋号下には「SATSUMA KENZAN WARE and ART PORCELAIN ETC」と記された扱い品目の説明があった。それは、昔西欧で人気を博した絢爛豪華な薩摩焼風京焼「京薩摩」と、用の美を追求したアーツアンドクラフツやアールヌーボーの走り的な(尾形)乾山焼風、そして美術白磁等々の意味であった。

まさに何でも有りの、京焼を象徴するかの如き解説・売り文句である。


路地沿いに奥へとのびる、京都・五条坂北側陶磁街の現役大店
五条坂から北上する路地沿いに聳える五条坂北側陶磁街の木造大店。現役店舗らしく、往時の姿を保つことに少々安堵させられた。ただ、その奥に続く町家は宿化されていたが……。


京都・五条坂北側の丸幸陶器と谷寛商店跡の更地
安堵するのも束の間、次はこんな風景も。趣ある木造店舗が2店並ぶ角地だったが売却されたという。しかも、その後転売され、最近慌てて建屋が解体されたらしい。地上げの途中か。路地側の店は昔煎茶器を購入し、やきものに目覚めるきっかけをもらった場所のため、一層寂しく感じられた


京都・五条坂の路地奥に残る旧道仙化学の登窯廃墟

五条坂では途中路地の探索も試みた。しかし、そのうちの一箇所では表の店から人が現れ罵倒に近い注意を受ける。道路指定がかかりそうな道幅があり、あまり密やかな感じはしなかったのであるが……。まあ、観光客の多さと一部の人のマナーにより神経質になっているのかもしれない。

そして、東大路まで東上した後は、中程まで下り戻って、細く深い路地に入った。午後からの参加者も加えた10人程で見学したのは、写真の遺構。崩落した屋根部分を取り払って調査・再整備した京式登窯の廃墟である。

入江道仙という作家陶工が興した化学製陶所が所有していた窯跡で、明治後半頃に造られたとされる。資料片手に歴史や構造について解説した。

今日最後の重要予定が……

さて、この路地も廃業が多かったが、現役の木箱職人さんのほか若干の製陶関係者も残っていた。その一つが、今回見学予定の懇意の窯元さんである。しかし、その戸前に立った時、貼紙と手紙があることに気づいた。

なんと、身内に不幸があったらしく、今日から数日工房を閉じる旨が書かれていた。そして、私の名が書かれた手紙には、私と参加者に対する急な見学不能の詫びが丁寧に綴られていた。

致し方あるまい。皆に事情を説明して詫び、了解してもらう。楽しみにしていた人には申し訳ない限り。ただ、この見学は今日最後の催しだったので、それ以外は充実させることが出来た。よって工房見学のみまたの機会を探ることとした。皆にもその旨を説明し、お開きとしたのである。

最後は残念であったが、馴染みある存在ながら今一つ正体が掴み辛かった京焼と、時代の波に揉まれる産地の実情を知ってもらうことが出来た。呱々さんのご協力と皆さんに感謝。お疲れ様でした!

後日再実施した窯元見学の様子はこちら

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会
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