
芹生避暑2日目
京都市街北部・北山山地の標高600mを超える場所にある高位集落「芹生(せりょう・せりう)」。そこで前日から恒例の避暑泊を行ったが、前夜遅くまで起きていたにもかかわらず、沢音に誘われ比較的早く起床した。
写真の通り、今日も普段の数倍と思われる豊かな灰屋川の水量は変わらず、避暑に適う情景を供してくれていた。
ただ、いつものような、山地または高地特有の冷えは感じなかった。宿の女将さんが話していた通り、湿度が高いためか……。
何分、自然の行い故、致し方あるまい。また、空も厚い雲で覆われていた。ただ、これは予報通り、承知のことであった。

しかし、そんな天候の清流に、写真の如く朝から水しぶきが上る。昨日に続き、同行のF君が川に飛び込み、泳ぎ始めたのであった

そして、強く冷たい流れに逆らい元気よく泳ぐ。陽射しがないため、昨日より一段と冷たいらしいが……。しかし、結局それを羨み、私も着衣のまま少々泳ぐ(笑)。うーん、とんでもない冷たさで、数十秒が限界であった

帰路は他の北山集落を巡りつつ
水浴のあと、宿の好意で薪風呂に入れてもらい、冷えた身体を回復させる。その後は雨が降り出したこともあり、各々屋内で寛ぐ。そして、いつもの如く、午後遅くまでゆっくりさせてもらい、宿をあとにした。
帰りは、すぐ峠を下り貴船経由で京都市街に戻る元来た道を避け、他の北山集落の案内を兼ね、北行する別路を採った。写真はその際立ち寄った、大堰川(桂川)の本流沿いにある黒田地区の中心集落「宮」の春日神社。
春日といえば、奈良興福寺と密接に関わる藤原氏の氏神「春日大社」が思い出されるが、正に黒田が同氏の所領だった縁によるものだという。
境内左手前にある、一重と八重の花が混ざる珍しい「百年桜」で有名な神社でもあった。

黒田宮の春日神社の境内片隅にあった、建武4(1337年)に再建された「宝蔵」。地味な存在ながら、中世様式を伝える貴重なもの

古道際の隠れ里「氷室」
黒田からは大堰川の流れに沿って西へ向かい、芹生も含まれる旧京北地区の中心地「周山」を経て、中世以前発祥の京街道「長坂道」に入った。
本来は周山街道を南下して京都市街に戻るのが常道だが、同行の友人らが未知ということで、その経路を選んだ。
そして、その道筋にある杉坂集落を過ぎ、京都市街へ下る京見峠手前の急登の脇道に入った。その後、程なくして至ったのが写真の氷室集落。
標高400m弱、嘗ては同じく京都北山の山間集落「雲ケ畑」地区と都を結ぶ交通要地であったが、今は行き止まりの高位集落と化している。
しかし、京都市街に近い所為か、意外と過疎の気配は見られず、方々で稲穂が実る、豊かな農村景が広がっている。
ここに立ち寄ったのも、同行の友人らが未知の場所であったため。個人的には、山を歩き始めた頃に偶然入り込んで感銘を受けた場所なので、懐かしく感じられた。

この氷室の里には、知る人ぞ知る名所があった。それは、集落の名の元になったとされる、前近代の貯氷施設「氷室」の遺跡である。
冬の間、厚く丹念に作った氷を断熱保存し、夏に都の貴人らが飲食その他に用いたという、古代以来の施設であった。その貴重な遺構が、この里の名と共にここに残っているのである。
その場所は、田圃外れの丘上にあり、民家裏から畦伝いに達するという判り辛いもの。基本的に私の様な案内者がなければ辿り着くことは難しい。
写真は、草を踏み分け辿り着いた遺構の入口。氷室跡を示す石碑が立てられている。

入口の道を登って丘上に出ると、写真の看板が現れた。かなり昔からある案内板で、ユニークな図示が目を惹くが、簡素で解り易いもの。
下部にある「ユリは育てています」の後書きも面白い。このお願い通り、ここの野花は摘まないようにしたい。

そして案内図の通り、付近で氷室遺構とされる円い窪地三つを確認出来た。写真はその内の一つ。水を入れ難い丘上にあることを当初訝ったが、貯氷池に濁りやゴミが混入しないための工夫かと思われた。
友人らは話では聞いていた氷室の現物を実見出来て感激すること頻り。

最後は「激坂」に挑む
その後、長坂道に戻り、京見峠を下ったが、京都北山堪能の旅はまだ終らなかった。京見峠から直線で一気に麓まで下る、前近代の古道を継承した急坂の車道があることを伝えると、見学がてら通過することとなった。
森なかの細く暗い道で少々荒れていたが、何とか通行が叶い、古の杉坂道(長坂道)の起点・千束集落に下ることが出来た。
その後は、千束から京都市街の鷹峯台地に登り返すとんでもない勾配の車道を登る。写真が上からみたその坂で、一同冷や汗の思いで、何とか登りきることが出来た。
これにて、京都北山を存分に堪能した我々の近場避暑行は終了したのである。皆さんお疲れ様でした!
