
身近に眠る幻の道求めて
今週末もまた、先週同様、鍛錬兼ねた近山の古道探査へ。
場所も同じく京都市街東部・大文字(如意ケ嶽)山。京都と滋賀に跨るこの山上を通り、嘗ての都と近江を結んだ「如意越(にょいごえ)」という古道が現在も残るが、それより古くかつ主路だったとみられる道を探す試みである。
それは、嘗て山中に存在した檜尾古寺(ひのおのふるでら)や如意寺(にょいじ)という古寺群を繋ぎつつ、都と近江を結んだ古代及び中世の道筋であった。その存在は私が長年この地を観察し、個人的に推論したものだが前回までの踏査でその実体を掴みつつあった。
それらの詳しい経緯や現地の状況等については前回までの記事を参照頂きたいが、とまれ、その幻の道探しに今日も挑んだ。
上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)から山腹を巻きつつ東へ続く古道と樹上に花を咲かせる山桜。この道は谷筋を通る現在一般的な如意越ではないが、中腹の難所・楼門滝の急斜を避けられること、地盤が硬く安定していること、この道に対応した戦国期の竪堀や防塞らしきものが存在すること、明治中期の測量図に主路として描かれていること等から、中世以前に遡る物資運搬用の車道(くるまみち)であった可能性がある。

今日も鹿ケ谷から山上を目指す。写真は山中の如意越古道沿いにある如意寺西部地区の支院・宝厳院推定地(上手である東側から撮影)。
現在一般的な如意越古道はこの平坦地右下の谷から稜線に向かうが、私の古道考察では同東部地区へ抜ける峠との接続効率や途中の各遺構との関係から、ここを経由することを有力視している。
実際、画像左上から右下かけて、かなり確りとした古道の路盤が残るのが確認出来る。ただ、この古道は平坦地只中を通り堂宇との干渉の恐れがあるため戦国期以降の寺院廃滅後に造られた可能性も窺われる。
それを考えると、新たな可能性が見えてきた。それは、画像左下から平坦地左端に下る一見自然地形のような傾斜である。所々荒れてはいるが、明らかに幅を持たせて造られた人為地形であり、当初の道筋かと思われた。

私が推定する如意越古道が東山の稜線を越えた付近の路傍にあった、花を咲かせる山躑躅(つつじ)。今時分の、近畿の低山らしい光景
因みに、この後珍しくズボンにマダニ(子?)が付着していることに気づいた。人気のない藪めいた場所を通過したからか。
大文字山歴数十年、噂では聞いていたが、これまで道なき藪も気にせず巡った私でも、この山域では初めてのことであった。昨今獣が増えている弊害か。感染症の宿主でもあるので、皆さんご注意を。
消えた道跡追う
さて、東山の稜線峠を越え、東西に続く如意ケ嶽南面に出る。檜尾古寺推定地及び如意寺・大慈院旧推定地の平坦地がある山腹である。
その後、踏査初日に発見した、山腹の尾根を巻きつつ続く古道を東へと進む。その道筋の再確認や見逃し探査のためである。
そして、前回の知見を基に、発見古道と標高420m辺りにある現在一般的な如意越古道である稜線道との接続箇所を探した。踏査初日に倒木等で道跡を見失ったその区間を前回反対側(東)から探索したが、意外にもその時発見した東の古道が当該地手前で一旦稜線道に接続していたからである。
しかし、最後に古道痕跡が消える谷から山上に向かう道跡をどうしても見つけることが出来なかった。想定ではその谷から稜線道への巻道に上るか、もう一つ尾根を巻いたあとに接続するかの何れかとしていた。
前者が距離効率的に有力であったが、斜度が若干強く車道を設定するには少々難があった。高低差はせいぜい2、30mなので徒歩であれば大したことはないのであるが……。念のため、もう一つの尾根と手前の尾根に乗り古道の交差箇所等を探ったが、一切の痕跡を見つけることは出来なかった。
奇妙な人々
ところで、この思案と踏査の最中に奇妙なことが生じた。それは、私の行動が、どうも人に付けられているように思われたのである。
それは道の絶えた谷なかで思案している時に察した。尾根の裏側からバリバリと倒木の枝葉を踏み、こちらに向かい来る足音が聞こえたのである。
誰かに追跡されている?
考え過ぎのように思われるかもしれなが、これまで辿った道筋は一般のハイカーが知り得る場所ではなく、入る意味もない場所であった。また、途中には数多の倒木や崩落した危険な崖際を進む必要もあった。
最初は偶々別路を進んできた者かとも思ったが、方々倒木だらけで通行困難となっている。そして、近づいていた足音は何故か急に静まった。ここで一旦別路を進んだ可能性や林業関係者かとの想像も生じたが、手前側の尾根を踏査している際、私と全く同様を進む谷なかの人影を発見した。
それは、中高年のハイカー風の男女2人であった。しかも、彼らはその後、私が先に調べていた向こう側の尾根まで同様に探り始めた。
足を止め、身を隠してこちらの行動を見ていたのか。そういえば、その2人は古寺推定地で倒木越しにすれ違っていた。食事休憩をしていたように見え、その際1人と目が合い会釈したが、友好的な感じではなかった。
元より古寺推定地も難所ではないが、何の案内もなく、一般ハイカーが来るような場所ではない。恐らくは近年の調査報道で知って興味本位で来たのだと思うが、ひょっとして私が来るのを待って後を付けてきたのか。
その後、彼らの姿を見ることはなかったが、その不可解な行動に、少々薄気味悪い気分にさせられた。

深禅院推定地東の広谷での発見
話が逸れたので戻す。推定古道と既存の稜線古道の接続路は確認出来なかったが、最短で100m程の区間なので保留することにした。
そして前回発見した稜線道から深禅院推定地へ向かう道から、推定地東の広谷に入る。そこでは前回見つけた東の森に続く不自然な谷を探査した。
写真はその谷に入ってすぐの場所。1間幅程の、明らかに整地された水もない掘り込みが、左に回り込みつつ上方へと続いている。

その先を進むと、この通り一定幅・一定傾斜で上方へと続く地形が現れた。これは、もしやして……。

そして足下を確認すると……。やはりあった、石組である。この他同様に端部に残る2段程の石組を幾つか確認出来た。古い石段跡に違いない

石段跡の掘込坂は稜線まで続いていた。稜線上に見える道は如意ケ嶽の主道ではなく、南方は山科及び四ノ宮方面に続くものである。つまり、主稜線から分岐した南北支尾根上に出たのであった
石段の道は、かなりの労力で成された特別なものかと思われたが、広谷の北東にある本堂方面とは方角が違うため、主路とは思い難かった。
ただ、尾根の向こう下は以前踏査した本堂下の大平坦地群、即ち如意寺・藤尾口と接しているので、そこにあったと推測している寺院関係者の居住地と深禅院推定地以西とを結ぶ近道である可能性もあった。
あとは、ここが東西の寺領や山科方面を見渡せる頂部に当たるため、望楼的施設や、小規模ながらも何か重要で記念すべき宗教施設があった可能性も考えられる。
まあ、これについては今回の古道考察とは少し逸れるため、今後の課題としたい。

如意寺西部地区の中核、本堂跡へ
山科への尾根道を北上して主稜線の如意越道に戻る。途中不意にMTB(マウンテンバイク。山行自転車)が現れたり、大きな雄鹿2頭が馬の如く飛び出てきたりして少々驚かされたが、更に東して本堂地区へと向かった。
写真は本堂地区への道。道筋はまた現在の如意越古道から逸れ中腹を巻く道となった。この辺りの如意寺関連の古道は比較的判明しているが、写真のように巻道として直接本堂平坦地へ向かう道は後代のものとみる。
恐らくは右下の浅い谷に主路があった筈である。それは以前踏査・検討した通り、その道筋が本堂跡下に残る要路交点と自然に接続する為である。

今回はその谷道も再確認したかったが、この付近も凄まじい倒木に見舞われ、探査不能となっていた。写真はなんとか達した本堂跡平坦地。
巻道のみ倒木が切られ辛うじて通行出来たが、被災直後は全く通行出来なかったであろう。現在も道から外れて進むことはほぼ不可能である。
そしてまた、無数の倒木の根が遺構面の土砂を大量に掴んでおり、更なる破壊進行が懸念された。

東門推定地如何
倒木の巣窟と化した本堂地区を抜け、その東端で、以前私が独自推定した如意寺・東門跡に達した。写真はその門口部分と通過する推定古道。尾根を掘り込んで平坦地を造り、交通を制御する形となっている。
約700年前の古絵図には描写はないが、道の左右に築地か土塁跡とみられる畝状の高まりが残るのも特徴。

如意寺東門推定地の東裏に続く古道。道はこの先東の近江側山麓にある如意寺本山・園城寺(三井寺)まで続いていた筈である。これ以東は個人的に未踏査地となり大変興味深いところだが、その調査はまた日を改めたい

それにしても、倒木の被害は地区外れの東門推定地も例外ではなかった。大きな木が根毎倒れ、遺構面を大きく抉っている。その土を覗くと、やはり幾つもの古い焼物片が確認出来た。
写真はその一部で、須恵器の皿か杯と思われる。門址であるかどうかの確証はともかく、遺構であるとの推論が憂慮すべき形で実証されてしまい、複雑な気分にさせられた。

如意寺東門推定地から見た本堂地区の凄まじい倒木被害
本堂下から東門推定地までの主路古道は以前の踏査で確定している。本来は今日再確認したかったが、見ての通りの有様で不可能となった。
因みに、古道は倒木原の只中を通り本堂下に達している。ただ、今後重機作業等が入ると破壊される恐れもあった。

情勢儘ならぬも……
東門を最後に今日の踏査を終え帰路に就いた。写真は如意ケ嶽稜線付近を通る現在の如意越道を西へ戻り達した大文字山火床(送火の点火地)。
桜が終盤となり新緑が姿を現してきた。本来なら喜ぶべき春到来となるのだが、存知の通り、新型肺炎の所為で世間儘ならぬ状況となっている。
個人的にも色々な事情・影響があり再踏査の実施も定かではないが、近くに住む史学者の義務として、また遺構保全の為にも完了させたいと思う。