2020年05月09日

続連休急用

鹿ケ谷上方・大文字山中の如意寺(にょいでら)宝厳院跡の平坦地と、その奥に続く古道候補地の谷

「連休急務」裏山編

新型肺炎騒動における日本全土・緊急事態宣言下の黄金週間――。

一般的には5月6日の振替休日を以て終了したようだが、人や会社に依っては同10日、日曜までということもあるようだ。

元より各種学校なぞはそれ以前から閉じられたままだが、それより、業務が再開出来ない、出社出来ないという施設や人も多いと思われる。その証に、6日以降の平日も、街や公園には砕けた格好の働き盛り世代が多く行き交う、正に万年休日の如き状況が現出している……。

改めて、大変なことになってしまった、と感じざるを得ない。

基本連休の恩恵のない零細の身ながら、自身のこと以上に世間を心配してしまう。まあ、零細故にその影響が大きいということもあろう。

そのような情勢下、また週末が巡ってきた。表題に「連休」の文字を記したのは上述の状況故。本来個人的に土曜は業務予備日、準営業日なのであるが、天候の関係から、予定を入替え、急遽出掛けることにした。

場所は家裏の大文字山(如意ヶ嶽)山域。目的は山行鍛錬を兼ねた健康保持のための自粛対象外の散歩・ジョギング的行動。そのついでとして、以前から取り組んでいた山中の古道や遺跡の探査も予定した。

実はついでながらの遺跡探査は、気温が日に日に高まるなか、藪の繁茂で今後困難になる恐れがあった。最近把握した公未知の遺構を市の文化財保護課に報告し、先日の様にそれらを含めた保護区域の早急なる拡大を促す必要があったため、前回同様「急務」の文字を表題に記したのである。

なお、人と会い難い山中(実は今公園や河原等は人が増え危険性が高まっている)とはいえ感染対策を施し、また裏山での短時行とはいえ救難装備を完備して望んだのも前回同様。くれぐれも安易に真似されぬよう……。


上掲写真 京都市街東部・鹿ケ谷(ししがたに)上方の大文字山中にある如意寺(にょいでら。10世紀中?-16世紀?)宝厳院推定地とされる平坦地(手前)と、その奥に続く古道候補地の浅い谷(中央奥)。


如意寺宝厳院推定地南から稜線へと続く、古道候補地の浅く広い谷

先ずは古道探査しつつ山登る

今日も鹿ケ谷から山に入るが、先ずは明治中期の初の近代地図に描かれた、沢筋や滝の急斜を避けるように中腹を巻く古道の、麓接続部を踏査。

それは、現車道から分岐して山に続く形で存在するのだが、古道自体は途中で民家の敷地に取り込まれて不明瞭となっていた。恐らくは明治以降に延伸された現車道の突き当り部分との接続に変更され廃れたのであろう。

また、大文字山の火床方面から小さいながらも鋭い谷が横切るので、往時は橋が必要だったとみられることも判明。鎌倉期の如意寺を描いた古図にある、小橋と築地門を備えた麓の施設「鹿谷門」の場所であろうか。

その後、沢筋や楼門滝を通る「現在の如意越」古道を進み、中腹の宝厳院推定地に達した。以前は堂跡背後の谷から稜線に至る道を古代・中世の如意越の有力候補としていたが、今日は堂跡の右(南)にある谷を探った。

実は、地形図の検討により、峠とは直接繋がらないものの、近江方面の東の山腹や堂跡に抜けるには、このルートの方が一寸交通効率が良いのではないかと感じられた為である。

さて、宝厳院推定地から当該の谷を進む。写真の如く、広く浅い谷となって上部へと続いていた。


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み
宝厳院推定地南の浅谷で発見した、古道跡とみられる掘り込み(中央)


如意寺・宝厳院推定地南の浅谷上部を覆う崩落土

宝厳院推定地南の浅谷では、古道跡らしき痕跡を発見したが長くは続かなかった。平坦地裏の谷とは異なり、後代に引き継がれなかったからか。

そして稜線近くに至ると、写真の如く谷全面に崩落土を見る地貌となった。雪崩れたような地表、小石を多量に含む様が判るであろうか。

どうやら、地質的に問題があるのかもしれない。


京都東山の稜線古道から見た、如意寺宝厳院推定地の南に続く谷の源頭部

浅谷内の崩落土地帯を抜けると傾斜が増し、間もなく稜線に出た。写真は稜線古道から見た浅谷方面。だが、それへの分岐は確認出来なかった。

谷全体としては地形図通り傾斜が緩く、主路としての可能性も窺えたが、結果的に、堂跡背後の谷と比べ、平坦地や道跡等の人跡に劣り、また崩落土の存在や雰囲気的にも、有力視し難いルートであるとの感想を得た。

ただ、遺構後背地や接続地として価値はあり、保全の必要は十分感じられた。


東山稜線から見た安祥寺山国有林の風倒木皆伐現場

本題手前での思わぬ発見

東山の稜線反対側には写真の如く、先日報告した林野庁の風倒木伐採現場やその作業道が見えた。所謂「安祥寺山国有林」である。

東山の稜線まで登りつつ古道踏査したあとは、今日の本題であるその安祥寺山の遺構に向かう。大文字山山頂へと北上する尾根道を途中から離れ、南は安祥寺山への尾根道に入った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の須恵器とみられる陶片

安祥寺山へ向かう途中、以前土器を発見した、伐採林道による山腹破壊箇所に立ち寄る。前に報告した通り、土器発見を報せた文化財保護課の調査が入り、遺跡地区拡大のきっかけとなった場所である。

発見した土師器(はじき。土器)のその後を見ようと寄ったのだが、なんと、その付近で新たな遺物を発見した。それは写真中央の陶片である。

膨らみのある器物の破片で、灰色・無釉・焼締めであることから、古代の大陸式高火度陶器・須恵器(すえき)とみられた。手に取って見ると、薄いその表面に轆轤(ろくろ)に因るとみられる回転痕も見られた。

この他、近くでまた新たな土器片を数点発見した。いずれも最初の土師器同様、上部遺構面から滑り落ち、掘削面に留まった状態である。以前念入りに確認して見つからなかったにも拘わらず今回容易に発見出来たのは、恐らく風雨で洗われたか、新たに遺構面から落ちた為かと思われた。

ともかく、この遺構や尾根の価値を高める良い材料となる。実は、自らの論考と少数の土師器のみでは、少々心許なさを感じていた。しかし、こうして更なる遺物を目に出来たので、確信を持つことが出来た。

是非また保護課へ連絡し、遺構の存在及び価値の補強にしたいと思った。


安祥寺山北尾根の林道掘削現場で発見した古代の土師器とみられる土器片
安祥寺山北尾根の林道掘削現場で新たに発見した古代の土師器とみられる土器片(中央上と同左下にある肌色の2点)


安祥寺山山中の尾根上にある謎の大平坦地と段差面

安祥寺山の未知遺構

本題前の立ち寄りでの思わぬ発見に因り、少々時間を取られたが、更に進んで安祥寺山の核心部に入る。

そこは平安初期創建の真言山岳寺院「安祥寺上寺(かみでら)」があった山地で、その主要堂舎跡と経塚が遺跡指定されている他、個人的に様々な人跡を確認していた。

その一つが、写真の平坦地段差。樹々で判り難いが、写真の上部1/3くらいの位置に高さ50cm程の土崖が一線に続いている。付近は幅40m前後もある尾根上の平坦地になっており、それを数段に分けるようにした、切り落としの一つかと思われた。

寺院関連の施設、しかもかなり大規模なものの遺構の可能性もあるが、地表を観察しただけでは遺物は見られなかった。


安祥寺山山中にある謎の人跡

そして、今回最も核心的遺構に至る。同じく尾根上に構築された溝穴である。恐らく人為製と思われる土崖の下に、大小幾つも連なって存在する、かなり大規模かつ謎の人跡であった。

写真はその内の大型のものを傾斜の下部側から捉えたもの。下部に谷状の口を備え、その奥に逆三角形状の大きくかつ深い穴がある。

周囲に遺物は見当たらないが、大量の灰状土が見られるため、何かの窯が想像された。だが、管見に該当するものはない。古代の穴窯や中世の大窯等の焼物窯、炭焼窯・製鉄遺構等を考えたが、入口より穴底が深いため、燃焼効率に劣り、それらに当てはめるには無理があった。また、地下資源等の採取跡の可能性も、穴が成型され個別に存在するため考え難い。

とまれ、一先ず保護課への報告用に撮影や観察を行う。因みに、数十年来付近を通行していたが、最近まで全く気付かなかった。近年、詳細不明の古代寺院・檜尾古寺(ひのおのふるてら)の推定遺物が大文字山付近で発見されたように、鹿の食害で藪が払われた所為か。


古代の経塚か仏堂跡を疑う、安祥寺山の小ピーク

謎の人跡の次は同じく尾根上の小ピーク(頂)へ。写真がそこで、一見何の変哲もない山上景に見えるが、実はその位置や姿、そして類似石材の存在等から、未確認の経塚跡、若しくは堂跡等ではないかと考えている。

安祥寺山は大変対称的な形状をした山で、既知の遺構もそれに拠り実にシンボリックに配置されている。その為、密教曼荼羅の「中台八葉」のような施設配置も想定され、実際それに対応するような地形がみられる(中心伽藍、安祥寺上寺本堂「礼仏堂」には正に金剛界曼荼羅の中心「五智如来(現存国宝)」が配置されていたという)。

故に、安祥寺山は全山遺跡区域化され、保護されなければならない。近年、恒久車道(防災道?)の延伸により核心部にも破壊の手が伸び、更に拡大の恐れも生じているので、一刻も早い遺跡指定が望まれる。

私の個人的調査の目的も実はそこにあり、なんとか実現させるべく、こうして行動していたのであった。


大文字山火床から見た京盆地を覆う厚い雲と緊急事態宣言下のハイカー

帰路大文字山頂と火床視察

謎の平坦地や大規模掘削遺構、そして経塚推定地を踏査後、更に別の推定地等を巡り安祥寺山を後にした。

今日も午後から天気が崩れるとのことで、帰路立ち寄った写真の大文字山火床(送り火の点火場所)では京盆地を覆う厚い雲の姿が見られた。

人と会わない間道を選べたにも拘わらず、敢えて人がいる道程を採ったのは、緊急事態宣言下の人の様子を窺うため。目論見通り、山頂や火床では時勢・天候にも拘わらず多くの人がおり、写真にもそれが窺える。

相変わらずマスク無しで、密集も多く見られ、特に欧米系の集まりが気になった。日本は彼の地に比して感染者が少ないため、別天地とでも思っているのか。山に限らず日頃感じていたが、開放感や親睦を妥協しないその質が、彼の地での感染爆発に影響したのではないかとも感じさせられた。

勿論日本人にも同様はいる。まあ、ある程度は仕方ないとは思うが、こちらも年寄りと接触する身(そもそも自身も低リスク世代ではない)。狭い登山路で律儀に待ち構え元気良く挨拶を放ってくれる、そこの姉ちゃん。心掛けは立派だが、ちょっとは時勢を考えてくれ(DTBWB風。笑)。


週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた、新型コロナ緊急事態宣言下の銀閣寺
週末の昼間、しかも連休中にも拘わらず人の絶えた銀閣寺門前


新型コロナ自粛で観光客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街
観光自粛に連動して遊山客が消え、店も閉じられた銀閣寺参道商店街

下山。恐るべき銀閣寺門前の状況

そして、下山し無事市街へと達した。大文字山表登山路の起点となる銀閣寺門前である。連休に関係なく、週末はいつも賑わうというか、混み合う場所であるが、殆ど人が絶えた状態であった。繁盛していた店はシャッターを下ろし、中には既に空店舗と化していたものもあった。

知ってはいたが、改めて恐ろしい状況であることを確認する。恐らく、京都に限らず、全国の著名観光地でも同様なのであろう。山とは異なり、観光統制は上手くいっているようだが、これはこれで、深刻な経済的打撃は免れまい。どう転んでも難儀な状況である。

さて、その後雨にも遇わず無事帰宅。憂慮すべきことも感じたが、今日も短時間ながら有意義な散歩探査を終えることが出来た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究
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