2020年06月12日

古跡共検

京都市山科区北部、安祥寺山麓にある後山階陵

御大と共に彼の地へ

今日は昼過ぎに家の近くで人と待合せし、少々出かける用があった。

先月5月9日に紹介した、安祥寺山山中の謎の人跡のことを京都市の文化財保護課に報告していたが、保護課がその実検を行うこととなった。

それに伴い私にも同行の依頼があり、日時調整の末、今日決行することとなったのである。そして、保護課のK女史の運転する公用車に同乗して現場最寄りの山科へと向かい、山科駅裏で更に同行者を増やした。

地元民しか知らない密やかな駅裏で待っていたのは、某大学で教鞭をとるK先生。元は市の保護課や埋蔵文化財研究所に在籍した人であり、如意寺(にょいでら)や檜尾古寺(ひのおのふるてら)等の如意ヶ嶽(大文字山)山系の古代遺址発見に貢献した現地研究の第一人者であった。

最近、同山系安祥寺山山中にある古代山岳寺院「安祥寺上寺(あんしょうじかみてら)」跡の研究に重点を置くと聞くK先生は、K女史から私の人跡の話を聞き、現地での実見を希望したという。

こうして、思いがけず現地研究の御大との同行踏査が叶うことになったが、喜ばしく思ったのと同時に、神妙な気にもさせられた。

思えば、小時より遊びや行事で関わった山域であり、成人後は京都博物館の「五智如来坐像」に感銘を受け、後にそれが安祥寺上寺の本尊であった可能性があることを知り、奇縁を感じたことを思い出す。ここに関する何か様々なことが、時空を超えて繋がったような感触を覚えたのである。


上掲写真 京都市山科区北部安祥寺山麓にある後山階陵。平安初期の皇太后で安祥寺の発願者である藤原順子(のぶこ)の墓所に比定されている。踏査の始まりはこの墓前を過ぎてから。奇縁の源、象徴的場所である。


山科北部山中にある謎の土門状人跡
山科北部山中にある謎の土門人跡。土塁の上から中央の沢筋を見たものだが、上流側に古い石組が見える。それは対岸の土塁縁にまで続いている

もう一つの謎遺構問う

K先生と軽く挨拶を交わし現場へと向かう。当初車を停める場所を心配したが、先生が熟知していたので林道内の適当な場所に停めることが出来た。

そこから徒歩で山に入ることとなったが、その前に作戦会議と称して先生が持参の地図を広げる。都市計画図と絵図等の必要史料を合成した大判手製のもので、計画図にはこれまで調査された遺構が書き込まれていた。それには報告書等で公表されたものと、未調査・未公表のものがあった。

さすが、長年に渡り現地で成果を挙げられた第一人者。その縁にはビニールが付けられ、現場での利便性向上も図られるなど、「山林考古学者」の強力な工具というべき体裁が整えられていた。

その手製図にて、これから向かう場所等を確認し、先生がまた巻いて片付けようとした際、私は図上の、ある書込みに気付いた。それは、以前から気になっていた谷を閉塞する土門状の人跡がある場所であった。

以前の巡検でも紹介したその場所は、当初は遺跡地区にも入れられず、何の報告もない謎の人跡だったが、やはり先生は留意していたようである。

今回は、ちょうどそこを通過するので、皆で見学し、先生に意見を訊いてみた。すると、やはり古い人跡で、門か貯水遺構を考えているとのこと。ただ、門としては、場所柄、私は戦国期の城塞関連を想定していたが、先生は檜尾古寺の正門等の寺院関連を想定しているとのことであった。

発掘等の詳細な調査をしてみないと判らないが、先生が把握している人跡なら、突然破壊されるようなことはあるまい、と安堵することが出来た。


安祥寺山国有林の伐採作業に伴い、削られ埋められた安祥寺川源流部と古代遺物散布地

源流部の遺物宝庫

土門関(大陸風のあくまでも自分だけの呼び名)の見学を終え、古道を上がって谷の最上流部に至る。ここは、昨年の12月14日の記事後半でも紹介した、林野庁の伐採林道開削により破壊された場所であった。

上部の稜線を切り通し谷底まで延ばされた重機道は、山腹を削り谷を埋めるという痛ましい光景を現出させていた。古代からほぼ変わらなかったとみられる谷底の形状や自然環境は写真の如くほぼ壊滅状態と化していた。

上部から観察して状況を把握していた私も改めてその酷さに驚いたが、なんと、K先生やK女史もこんなことになっているとは知らなかったという。

ここは大変古い遺物が多く出土する謎の散布地で、歴とした遺跡指定地。嘗てその調査を担ったK先生も方々見回して怒ること頻り。どうやら保護課を含め、関係者はこの場所まで壊されることを知らなかったらしい。曰く「聞いていない」と。正に「内堀まで埋めるとは聞いていないぞ江戸幕府」みたいな感じか(但し「大坂の陣」は同意だった可能性がある)。

ただ、私は去年の施工中に連絡した筈ではあったが……。


安祥寺川上流で発見した平安初期の緑釉陶器の蛇の目高台部分の破片
平安初期のものとみられる緑釉陶器の破片。「蛇の目」と呼ばれる底縁が広い高台(器裏)部分で、ある程度の形を保っていたものが、重機の掘削により割られたとみられる

K先生は呆れぼやきながら足下から早速陶片等の遺物を見つける。さすがである。私も真似て探すと、すぐに掘削面で見つけることができた。

写真のものがそれで、黄色い生地に薄緑の釉薬がかかる、所謂「緑釉陶器」であった。平安初期まで遡れる大変古い遺物である。他にも須恵器や土師器等の様々な古代遺物を見つけることが出来た。破壊を受けたものの1200年前の遺物をこんなに容易く目に出来るとは改めて凄い所である。やはりこの山域はまとめて保護しなければならないとの思いを強くした。

そしてK女史が、持参したビニール袋に早速それらを入れ始めるなど、ちょっとした発掘作業となった。写真の左端に見える小さなスコップはK先生秘蔵の発掘道具。訊いてもいないのに「100均やけどな」と自ら明かすところが、気さくで面白い(笑)。

乗っけから寄り道行為に過ぎるとK先生は笑うが、ついでに私が以前踏査で発見した付近の人跡について報告する。散布地の謎とも繋がるため、先生も興味を示したが、更なる脱線となる為その確認はまたの機会となった。


安祥寺山北尾根を斜めに切るように付けられた車道と遺跡側崖面の崩落

稜線上の新遺構にて

破壊の痕跡が生々しい源流谷での採取を経て山上の稜線に出た。そこもまた昨年末から紹介している伐採道による遺構や環境の破壊箇所であった。

写真は今回撮影したもの。尾根を斜めに切るように車道が付けられている。私が左側の平坦地を遺構と推測した一文を昔まとめた縁で掘削面を調査して土器片を発見し、新たに遺跡地区に含まれた場所でもあった。

今回改めて現場を観察すると、やはり危惧通り、掘削面の崩落が始まり(画像中央左の路肩等)、上部にある遺構面を危うくしていた。また、右の谷側も路面に大きな亀裂が現れ、斜面崩壊の危険が生じていた。

K先生もこの辺りの工事についてある程度聞いていたらしいが、改めて現場の状況を見て呆れる。曰く古道が残る尾根は特に改変すべきではないと。


安祥寺山北尾根遺構にて梶川先生が発見した大きな土師器片

ここで、両氏に平坦地及び掘削面での土器・須恵器発見の場所を教え、現場に残る遺物を見てもらう。

K先生は早速付近にて写真(中央)の土師器片や鉄片を発見。土師器はかなり大きなもので、思わず、「さすがゴッドハンド!」と呟いてしまった。但し、これはあくまでも尊敬からくる感嘆であり、昔、世を騒がせた一大考古学事件と関連するものではない(笑)。

とまれ、K先生の見立てによると、ここの遺物も大変古いもので、平安初期まで遡れそうとのこと。いやぁ、僅かな数だったので当初は自信がなかったが、保護課に報告しておいて良かった、と改めて思わされた。


京都市文化財保護課職員により袋に採取された安祥寺山北尾根遺構の遺物

ここでも、ちょっとした発掘作業を行う。写真の如く、K女史が素早く用意した袋に遺物を入れる。袋には、いつの間に記されたのか、現地座標と標高の表記があった。

以前私が発見した遺物は全て風雨により路端に落ちており、踏み砕きや散逸の危険があったが、こうして無事回収されたので安堵出来た。本来の目的ではない、ついでの作業ながら、個人的に喜ばしい寄り道となった。

なお、K先生は上の平坦地について私同様20年程前から気になっていたという。その際、一応上面を調べたらしいが、何も発見できなかったらしい。

平坦地は先程通過した谷底の遺構散布地の直近上部に当たるため、ここが遺構と確定されたことは大変重要なことという。即ち、ここの施設から谷下に遺物が落ちたのではないか、とのこと。谷下は施設を営むには不向きな場所で、遺物の年代的にも合致しているためである。

K先生はここからの京都市街の眺め、即ち当時の平安京の眺めが良いことを指摘しつつ、小堂を伴う祭祀場か何かがあった可能性を示した。即ち、非常住の宗教施設である。その理由として、水場が遠いことや尾根上という居住困難をあげた。

私も同じ理由で、現地南にあった安祥寺上寺の寺門等の境界施設を、嘗て小文上で推論した。


作業道の路端に散乱する採取前の安祥寺山北尾根遺構の遺物
作業道の路端に散乱する土師器片(煉瓦色の破片)。これらも全て採取。K先生は、この他相当な遺物が重機に削り取られたのではないか、と語った。残念無念、正に「言わんこっちゃない!」の惨状である


側面からみた斜面上にある後山階陵の墳丘

本題の謎遺構へ

さて、有意義な寄り道が続いたが、結構時間を費やしたので本題の場所へと急ぐ。そこは、一旦安祥寺山を登り切ってから暫く下った先にあった。

皆で頂部の急登等を進むが、K先生の足の速さ、歩きの確かさに少々驚く。後で聞いたところによると、私同様遺跡とは別に登山も好きで方々登っていたらしい。また、事務所をそのまま抜けてきた装いのK女史の歩みも確かであった。登山に馴染みはないが方々の調査により慣れているとのこと。

その後、本題の箇所に着く。最初に現れたのは安祥寺上寺の真横に位置する別尾根上の小頂。経塚跡と同じ石材の散乱が見られるため同様の遺構か小堂のようなものがあったとみる。なお、そこを含む今日の本題3箇所についての画像や詳細は、先月5月9日の記事にある。

小頂の場所についてK先生にも説明したが、先生としては経塚らしい盛り上がりが欲しいところ、とのこと。なるほど、確かに既存の経塚跡は小頂上に更なる盛り上がりを持っている。それでも、私としては留意すべき位置であることを伝えられたので、一先ずの役目は果たせた。

次は、平坦地用に掘られたと思われる尾根上の切岸である。地面に傾斜が残るので平坦地としては微妙な場所だが、確かに人為的なので皆写真に収めたりした。

そして、最後の今日の本命的人跡はそのすぐ下部にあったが、K先生はそれを見た途端、これは戦時中の高射砲陣地跡だと発した。以前そういう話を聞いたことがあるらしい。確かに入口が小さく奥が広く深いという各穴の形状は火砲を置くのに適しており、窯跡や採掘址のような矛盾は少ない。

ということで、あれだけ悩んだ本命の謎遺構は瞬時に解決となった。一先ずお騒がせとなったことを両氏に詫び、踏査を終えることとした。

北山科製鉄遺跡の謎解決

写真は下山時に傍を通った後山階陵の側面である。

安祥寺山山裾斜面上に墳丘のようなものが見えるが、本当に御陵かどうかは解らないらしい。それでも、安祥寺の発願者で、今日の縁の源的人物の墓所だったので、K先生を始めとして皆でその墓前に詣でた。その後、陵墓前の林道上にて先生が「鉄滓(てつさい)」を探す。

この付近は奈良時代の製鉄址として遺跡地図にも記載されており、付近に散らばる精錬残滓の鉄滓はその根拠になっているとのこと。先生曰く、昔は大きなものが沢山見られたが、今は減っていると。

皆で探してみると、黒く重い小塊のそれが、路上に幾つもあることが判った。昭和期の産廃残土が混ざる変哲無き林道上に、古代遺物が多く残ることに驚く。但し、鉄滓はごく狭い範囲にしか見られず、炉跡等も見つかっていないらしい。即ち、鉄滓のみの歴史痕跡である。

ここに古代の製鉄址があることは前から知っており、近くに石碑もあったが、遺構を示すものがなく、今までどこがその跡なのか謎であった。だが、調査したK先生と同行出来たお蔭で、その謎を解決することが出来た。

空振りあるも有意義な共同終了

そして車輌まで戻り、一同帰還することとなった。今日は本題本命の人跡については空振りとなったが、稜線平坦地遺構を研究大家のK先生及び保護課のK女史に実見してもらうことが出来た。

また、それにより谷底遺構等との関連等、新たな知見を得ることが出来た。何より、専門家・専門部署との共同により私自身の得難い学びとなった。時間的には短時間ではあったが実に有意義な機会となったのである。

溝穴人跡砲台説への疑問と謎

のち、私自身で空振りとなった溝穴人跡の件をまとめようとしたが、そのなかで幾つかの疑問が生じたので、制作した現地の略図を送付するついでに、意見を付すという形でK女史に報告しておいた。本来はK先生の情報源への調査が優先されるべきだが、一応その疑問点を以下に掲げる。

1.高射砲は空中を縦横に行き交う航空機に対応するため通常回転台座を備えており、そのため陣地は一般的に円形(穴)となるが、当該地は異なる。

2.当該地は後方の土崖が死角となるため対空陣地としては不向き。

3.空襲は高高度侵入が基本で、旧軍はそれに対応した砲不足に悩んでおり、設置場所はより高所で航空機の通路下に設定された筈。実際、周辺で最も標高が高い牛尾山(音羽山。東海道上の要衝)山上に砲台があったとの話を聞いたことがあり、当該地を高射砲台とする価値は低い。

以上のことから、当該地は高射砲ではなく、水平・仰角射撃を目的とした固定砲台であった可能性を考えた。

実際、電子データを合成した当該地南方の仮想眺望図では、手前の山陵(鏡山)や東山を越え、遠く府南部一帯まで見渡せる。

当該地に設置可能な当時の砲の最大射程は15km前後なので、機甲師団の通路となる府境や山科盆地(醍醐含む)入口付近に達した目標を迎撃出来る。また戦中軍需工場と化していた鐘紡山科工場の低空守備にも使える。

しかし、上記の理由でも当該地がその適地であったことの確証はとれない。一応、時代を広げ、幕末辺りの東海道警備も考えたが、山陵が邪魔になるため不適であった。

その後、調査により更に以下のことが判明。

山科と京都市街の間にある花山天文台南の山上に戦中構築された高射砲陣地跡があり、やはり円形であった。

そして、その調査の際、奇妙なことに気づく。それは、終戦翌年に米軍が撮影した高解像空撮写真に当該地構築の様子が見られず、現在同様の山林として写っていること。花山砲台の同写真では円形陣地がはっきり確認出来るにも拘わらず、である。偽装されている可能性もあるが、20m×100m程にも及ぶ真新しい掘削が全く確認出来ないことは不思議である。

そもそも、時節柄、迅速に構築せねばならない射撃陣地を、重機も入れない尾根を10mも掘り崩してから成すとも考え難く、大量の土砂の処理だけでも大変だった筈。あと、元々あった筈の尾根古道が残存尾根上に見られない(尾根が遮断され相当の時間が経った?)ことも謎であった。

以上のことから、砲台に先行する何かの古い人跡があり、その場所に砲台が設置されたか、そもそも砲台ではない可能性も考えざるを得ない。K先生の情報源の確認が優先されるべきとは思うが、個人的には注意が必要な存在ではないか、との結論を暫定ながら得た。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究
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