2020年07月19日

雨後発現

哲学の道・琵琶湖疏水分線に漂うオオカナダモ

梅雨の晴れ間にまたしても

最近、九州地方を中心に深刻な水害を起こすような雨が続いていたが、ここ京都付近もかなりの雨に見舞われた。

ただ、彼の地に比して大きな被害にはならなかったが、それでも、土砂崩れにより郊外の道が少なからず不通になるなどの損害を受けていた。

今日はそんな雨天が収まり暫く後ながら、漸く現れた晴天となった。但し、今日は日射が強く、30度以上の高温に曝されることに。実は、これまで厚い雨雲に覆われていた所為か、この時期としては珍しく気温30度未満で熱帯夜も無い日が続いていたが、それが一変したのである。

折角の好天となったが、残念ながら過酷な気候。だが、久々の週末の晴れ間で、かつ豪雨から日を経て土砂崩れの危険も減ったので、短時間の鍛錬山行に出ることにした。まあ、どのみち、予想通り新型肺炎再拡大も始まり、近場以外の選択肢がなかったという事情もあった。

山行の場所は、お馴染み、拙宅裏手の大文字(如意ケ嶽)山系。午前から出掛け、あまり気温が上らない内に下山するつもりの短時予定であった。なお、先月やそれ以前同様、また同地の記事となるが、上記の通り新型コロナのこともあるので、何卒ご諒解を……。


上掲写真 暑さを避け午前から行動したものの強烈な日射と高温はかわせず、多めの飲水共々慣れぬ暑さも負うことに。そんな状況に対し一服(一幅)の涼として掲げた大文字山麓を流れる琵琶湖疏水分線のカナダモ。冷水特有の固有種「梅花藻」なら尚良しの風情だが、まあ贅沢か……。


掘削崖面下部の地層境界に白いスプレーで点線が記された安祥寺山北尾根遺構破壊箇所

古道での発見経て山上遺構へ

裏山に向かうとはいえ、闇雲に行くのもつまらぬので、以前市の文化財保護の担当氏や現地研究家氏らと調査した、安祥寺山を目的地とした。

実は、その付近には調査後も訪れたことがあったが、林道工事で破壊を受けた現地遺構の、豪雨影響を視察したいとの思いがあった。

前回同様、今回も京都市街東郊・鹿ケ谷(ししがたに)から登ったが、中腹まで主路とは異なる間道を進んだ。古道探査を兼ねたものだったが、意外にも新たな竪堀(たてぼり)跡らしい痕跡を発見することが出来た。

何事も観察を続けるものである。良く知ったつもりの場所でも、何度も観察することで見えてくることがある。

竪堀は山腹斜面の横移動や道を断つために掘られた山城特有の防御施設。戦国期の如意ヶ嶽城に関連するものとみられるが、当該古道がその頃まで遡れる存在であることの物証となる可能性を秘める。そして先に確認していた複数の推定竪堀の存在から、その可能性を更に高める発見となった。

ただ、気になったのは、一般登山者には殆ど知られず、これまで人と遇うことも無かったこの道で数人と出会ったこと。あまり慣れた感じではないため、緊急事態宣言後に増えた一時的な遊山者に思われた。そして、マスク無しで対向者に最接近――。方々、益々油断ならぬ状況と化してきた。

思えば、先月辺りから行政が熱中症対策として運動中のマスク取外しを盛んに奨め始めたのを機に、ジョギングや登山者におけるその着用率が急減したように感じられる。話の主旨は解るが、外すのなら、人から離れることも徹底させないと事態悪化に繋がりかねないことは自明の理であろう。

さて、写真は、古道を進み、谷を遡上して辿り着いた今回の目的地。重機で削られた遺構側面と国有林作業路であるが、掘削断面の地層境界に白いスプレー塗りで点線が記されていた(画像左の崖面下部)。

前回、保護課担当氏とK先生が遺構面と地山について話していたが、その後、本格的な調査の前準備として印をつけたのであろうか。


安祥寺山北尾根遺構傍の林道崖で発見した土師器の破片

山体破壊に因り豪雨の影響を受け易いと案じられた現地に、幸いその害は見られなかった。ただ、念のため、以前遺物を発見した場所を観察すると、大きな土器片を発見した。

写真中央のものがそれで、幅7cm程の古代土器「土師器(はじき)」の破片であった。前回皆で念入りに探したので、もはや小片しか無いと思っていたので意外だったが、この他にも新たな物を多く発見できた。

それどころか、遺構対面の林道谷側の土砂にも多くの土器片や灰釉陶器を発見し、散乱範囲が広いことも判明した。


安祥寺山北尾根遺構横の林道路面に突き刺さる緑釉耳皿の破片

珍品発見

こうして、安祥寺山遺構付近で意外の新知見を得たが、そろそろ引き返そうとした時、足下に奇妙な造形があることに気付いた。

写真中央の物がそれで、林道路面から突き出る形で、明らかに人造による丸みと光沢を有し、只ならぬ存在感を発していた(但し、写真は一旦それを引き抜いたあと撮影の為に一時戻した状態)。


安祥寺山北尾根遺構付近で発見した緑釉耳皿の上面

地面からそれを慎重に引き出してみると、写真の如き大きな陶片であった(撮影は塵紙で拭った後)。この場所では初見となる緑釉陶器である。濃い緑の色合いも良く、なかなかの逸品に思われた。

形は皿状ながら、縁が上に反りかえっており、当初は不良品かと思ったが、その後、古代の「耳皿(みみざら)」と判明した。

耳皿は、皿の左右の縁を巻くように上反りさせた形が特徴的な器で、箸置きや匙置きに使われたとされるが、詳細は不明である。平安時代初期頃のみ、生産されたとみられ、同時代の各地の遺構での出土例がある。

その中でも緑釉のものは、初め平安京の北郊、後に西郊でも生産され、その後、猿投(さなげ。現愛知県中部)や防長(周防及び長門国。現山口県)でも作られたという。その存在の位置付けは、大陸からの輸入陶器に次ぐ品として、官営工房で精到に製された高級陶器であった。

とまれ、その規模と場所に因り、人気(ひとけ)が感じにくい遺構ながら、何やらえらい物が出てきた。第一、時代幅の狭いこれが出たということは、遺構が平安初期という頗る古いものであるとの確証を与えるものであった。しかも、その造りの良さから、京郊で製作された物、即ち9世紀初期頃である可能性も高まった。

私が昔記した論考(地形や各種境界及び周辺寺院・城郭との関連等から推察)と、K先生による土師器片の見立てが的中したと言える発見となった。

早速また保護課に連絡しなければならない。場合によれば、私が想う以上に重要な発見となるかもしれない。


安祥寺山北尾根遺構付近の林道上で発見した緑輸耳皿裏面とその平高台
発見した古代の緑釉耳皿の裏面。高台形式は「平高台」。この他、今日諸々の遺物発見で、結局この遺構も尾根東下の西谷遺跡同様、多彩な遺物を包蔵することが判明し、年代的にも益々そことの繋がりが深まったと言えそうである


安祥寺山北尾根遺構の林道崖上部にある謎の掘削跡

もう一つの謎

最後に貴重かつ珍しい遺物を発見して現場を後にしたが、この遺構に関するもう一つの謎についても記しておきたい。

それは、遺物の発見が集中する崖面の上部に更なる掘崩しがあることである。写真がそれで、長い切通し区間の中でもここのみにあり、道を通す施工には本来関係のない処置のため実は遺物発見当初から気になっていた。

よって、今日詳しく観察してみたが、それによると、崖上平坦面に残る施工前から存在する朽木の状態から、重機を使ったものではなく、崩落もしくはショベル掘削等により土が落ちた、または落とされたことが判った。

ただ、画像左のように木の根等により簡単には落ちない筈の表土層が、切り取ったように無くなっていることから、人為である可能性が窺われ、また、比較的多量となる筈の残土が綺麗になくなっていたため、道路施工時にそれが行われたと判断された。

ひょっとして、施工中に何か重要な物、または目立つ物が出土し、余分に掘られたのではないか……。施工法や残土処理のことも含め、一度担当業者に聞き取り調査をした方がいいように思われた。なお、施工中に保護課が試掘等を行った可能性もあるので、それも問い合せたいと思う。

山中での困った状況

諸々の観察を終え、帰路に就く。帰りは大文字山山頂経由で下山することにした。それにしても人が多い。遺構へ向かう尾根道でも、遺構観察中でも多くの登山者と遭遇した。

それらは中高年の団体が多く、恰もコロナ騒動以前の状態に戻ったようである。否、以前は来なかった層も多いので、それ以上の人出とも言えた。

その中には、作業道に立つ私を見て本道と間違え接近する老年集団もあり、危険を教え道を正させても挨拶すら返せない無礼引率らもいた(元より、最近の年寄りは物や礼を知るという年長の徳を備えた者が少なく、却って10代の若者に好感を覚えることが多い)。

そして、マスク持参等の感染対策率が極めて低い。それらの中には数十人が密集の列をなす、観光ツアーさながらの一団もおり、呆れさせられた。身内だから大丈夫、野外だから大丈夫とでも思っているのであろうか。その後、休憩のメッカ、大文字山頂を通過したが、想像通りの密集昼食会の巷と化していたのであった。

やはり、前述の行政による熱中症警告が、誤ったメッセージを送ってしまったようでならない。因みに、私だけが危惧しているのではなく、山中の相当域を管理する「大文字保存会」も緊急宣言頃から急増した登山者とそのマナーの悪さを指摘・公表しており、現に銀閣寺側表登山口には感染対策の徹底を呼び掛ける注意書きを掲げている。

この様な状況なら、早晩何かが起るか、その前に入山が規制されかねない。全く困ったことである。

最高気温避け下山

そして、昼過ぎに無事下山。朝から既に暑かったが、猛暑日気温に近い日中最もの高温は避けることが出来た。

色々と世情への憂慮も生じたが、意外にも興味深い発見を得られた、鍛錬以上の山行となったことは、喜ばしいことであった。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究
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