
酷暑落着後の裏山鍛錬・視察
今月上旬までの猛暑気温や熱帯夜の連続よりマシにはなったが、昼は未だ30度を超す暑さが続く。昨日は30度を切ったが日射の所為か十分暑かった。
そして今日も同様の気温予報だったが、夜気温が下がったこともあり、熱帯夜明けの昨朝よりかは過ごし易い朝となった。
まあ、それでもすぐに気温が急上昇してまた暑くなるのであろうが、一度は諦めた今季の北アルプス行を決定したので、その鍛錬等のため、また裏山の京都東山は大文字山域へと向かった。
写真は山上へと向かう古道脇で遭遇した巨大きのこ。猛毒を持つとされる「ドクツルタケ」か。道上の蕾状のものを含め、付近で幾つか目撃した。
なお、この古道は、現在京滋を結ぶ「如意越」とされる谷道ではなく、山腹を巻き滝を避けるように続く古の車道(くるまみち)らしき道である。

稜線遺構傍に現れた養生
鹿ケ谷の車道から大文字山中腹にある戦国城址及び如意寺西部遺構がある平坦地を経て最短距離で東山稜線に上る。古代・中世の如意越探索で独自推定した廃路跡のルートである。
そして、稜線分岐を南の山科方面に進み、昨年陶片を発見し文化財保護から古代遺跡と認定された写真の尾根上平坦地(右上部)と、その側面を破壊した林道部分に着いた。
前回同様、休息がてら遺構破壊面と散乱遺物を観察するつもりだったが、今回はいつもと違う状況となっていた。それは、写真に見える通り、遺構反対側の林道路肩にシートが掛けられていたことである。
この路肩は以前から亀裂による崩落の危険を指摘していた場所。実施したのは地権者で施工者の林野庁だと思うが、点検か、うちの記事で気付いたのであろうか(元来林野庁との会談の際にも崩落の危険を指摘)……。
何れにせよ、掘削土が除けられたものなので、数多の遺物が含まれていることを確認している箇所である。一先ず崩落は食い止められそうだが、遺物の観察が出来なくなったことは少々残念。

盛土で1200年の風雪に耐える
ところで、掘削された遺構の断面観察から判ったのだが、写真に見える通り、遺構土台は異なる地質3層で構成されていた。
最下部の林道路肩上にある、傷ついた赤い層が「地山」、即ち山の基体の岩盤層で、遺物は、その上に載る黄土色の層と、更にその上の小石が多い礫層に含まれていた。
当初遺物は最上部の平坦面から落下してきたのだと思ったが、比較的深い地中に含まれており、実際、未だ平坦面からは発見されていない。
それらの状況に因り、尾根の上面を削り成されたと思われたこの遺構は、実は尾根に盛土をして成されたことが確実となったのである。
こんな高地の吹き曝しの稜線に土を運び足すという施工を古代行うことは大変かと思われたが、逆に掘削技術や工具が乏しい時代故に岩盤等を削るより土を足す方が容易だったのかもしれないとも思われた。
ただ、自然条件が厳しい場所故、高度な技術や慎重な施工が必要とされたであろう。1200年の風雪や天変地異に耐えて今ここに残ることが、正にその証。そしてその答えが、地山上に施された2層の盛土かと思われた。
詳細はまだ調査途上だが、きめの細かい黄土層は突き固められた版築粘土基層で、その上の礫層は耐摩耗性や排水を考慮した舗装層かもしれない。
ただの自然層かと思っていた遺構地下が実に興味深いものと化してきた。

遺構外での新発見
そうした視点で再度付近を窺うと、遺構面と同じ表層が更にその南北に続いていることに気付いた。かなり大規模な施工がされているようである。
そして、平坦地遺構南の鞍部切通し部分にて、その知見を証するように写真の遺物を拾った。古い土器片である。厚みがあり、無釉なので土器としたが、色は須恵器に近いため、ひょっとすると違うものかもしれない。
湾曲しているため、甕や壺のようなものが想定された。写真は裏面で、青海波模様のような特徴的な圧痕があある。

そして、更にその近くの林道上で写真の如き重要な遺物を発見。精巧な須恵器の破片で、その大きさから、古代の水筒「提瓶(ていへい)」の飲み口・注ぎ口かと思われた。
謎の古代容器「樽型はそう」とも思われたが、口径が小さく、首下の肩部分に扁平変形の跡も窺えたので、扁壺系の提瓶と仮定した。

これら二つの遺物も踏み壊しの危険があったので、後日文化財保護課に渡すべく代理回収したのである。
そして、その後、平坦地遺構東谷下の「西谷遺構」や、付近の独自遺構想定地等を探索し、大文字山山頂経由で帰宅した。
帰宅後、遺物に軽く洗いをかけて再度観察。写真は裏に圧痕があった土器もしくはb器(せっき。須恵器等の焼締め陶器)の表面。現地では気にならなかったが、なんと縄目らしき文様が付いている。

異質の新遺物にまた謎深まる
同じく提瓶らしき須恵器片を観察しつつ、陶邑(すえむら。大阪南部にある須恵器の基準遺跡)編年と照合すると、これも意外な結果が……。
写真に見える通り、口縁部先端(右上)形状が鋭いものは提瓶の最初期のものとされる。つまり6世紀半ばの古墳時代に遡るという、驚くべき判定が出た。これは古式を想わせる前者の縄目土器の存在と合致するものか。
平安初期の遺物が出る平坦地遺構から僅かに離れた場所でのあまりの違いに驚いたが、これは何を意味しているのであろうか。詳しくは更に調べないと解らないが、またもや、この遺構の謎が深まったのであった。
いやはや、実に奥深い我らが裏山である。
