2020年11月15日
想龍馬忌(附京東紅葉況)
近隣紅葉視察と会津墓地
昨日も記したが、11月とは思えぬ温暖の日が続くなか、いよいよ京都市街の紅葉も本格化してきた。
よって、今日は出かける前のひとときに、自宅近くのそれらを少々視察することにした。
とはいえ、最初に掲げた写真は見ての通り紅葉ならぬ石像である。しかも厳めしい武人像。これは紅葉の名所・真如堂にも接する黒谷金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)奥にある会津藩墓地に近年置かれたもので、幕末ここに駐屯した彼の会津中将・松平容保(かたもり)公の像であった。
散歩で比較的よく通る場所なので初めて見た訳ではないが、以前から気になっていた。そこで調べてみると、どうやら去年6月9日に墓地整備等を行っている京都会津会により建立式典が行われたようである。花崗岩の最高品種「庵治石(あじいし)」を使い、守護職在任中に撮影された容保公の有名な写真を元に石彫師が仕上げたとのこと。
「會津藩殉難者墓地」という名のこの墓地は、会津藩が京都守護職に任命され上洛した文久2(1862)年から慶応3(1867)年までの間に殉職した藩士及びその関係者を葬った場所。その数、実に267名にのぼり、その他慶応4年(明治元。1868)年に勃発した鳥羽伏見戦役で戦没した115名の慰霊碑も合祀されている。
正に殉難――。
約1000名動員されたというその総数からも損害の大きさが解る。過激派浪士らによる暗殺や強奪行為で極度に悪化した京の治安を正すため江戸幕府から指名され、遥々会津から上洛した容保公率いる守護職部隊。
当初から火中の栗を拾う行為であることが判っていたため、公及び藩論はこれを拒んでいたが、徳川宗家への忠誠を説く藩祖の家訓や、自己保身ではないかとの誹りへの対抗上、仕方なく受けることとなったという。
果たして、その結果は、この墓地やその後の歴史が教える通りとなった。
だが、上洛した公や会津藩兵、またその配下となった新選組らの活躍により京の治安は改善され、一時は孝明天皇を始めとする朝廷からも信頼され、朝野共に好意を受く存在とされたこともあった。
それにもかかわらず、のちに幕軍と共同したことにより賊軍扱いされた彼らへの評価は徹底的に悪くなった。私自身も先祖が薩摩側だったことや、また何かと歪んだ学校教育・小説等の創作物により悪い印象を持たざるを得なくなった。
龍馬忌に想う公儀への誤解中傷
そうした評価風潮は今も継続しており、墓地には礼節を以て墓参することを促す注意書まで掲げられている。折しも今日11月15日は彼の土佐浪士・坂本龍馬の命日であった。朝からラジオでそのことが繰返し報じられ、同じく受難した会津藩士らへの扱いとは真逆の、華やかささえ感じられた。
龍馬ら幕末の志士も会津士卒らも共に大義を奉じそれに殉じた人々。皆その時々の情勢のなか、自己の役目を誠心果たしたまでであった。因って、新選組を含む会津の取締りを弾圧と非難することはおかしく思われる。
浪士とはいえ相手は攘夷派の大藩や公家らとも通じた武装集団である。必然、時に斬り合いを要する制圧や捕縛も生じ、その結果・証がこの墓所ともいえる(龍馬も公儀捕り方に最新輸入拳銃を発砲し2人以上を殺傷)。
こうした誤解は彦根大老・井伊直弼(なおすけ)公への悪評とも繋がる。条約の無勅許調印や安政の大獄で悪名高くされた同公も、実は尊皇の念や攘夷の志さえ持つ人であったという。海外事情の分析により安易な攘夷の危険を悟り、故に列強への妥協や国内の引締めを行ったともいえる。
これらの誤解・中傷は後世から往時を振り返ることで生じるようにも思われる。ここの例でいうと近代明治以降から近世幕藩社会を断じることである。これがもし近世末以前の視点ならば取締りも処罰も適法であり、当たり前となるだろう。むしろ、藩の取潰しも殆どなく甘過ぎるほどである。
何事も早計な評価は禁物。そうした拙速な態度は軍事的勝者の正当性を、不当または過度に補強するなど、政治的に利用されかねない。
維新151年目の石像建立の意義
長くなったが、容保公像そして会津墓地を前にして思うことは多い。これも明治150年を経た感慨か。同様の感慨や未だ雪がれぬ汚名への無念の思いが、維新151年目にしての石像建立に繋がったのかもしない。
とまれ像が造られたことを大変喜ばしく思う。縁者ではないが、ここを通る度に遣り切れぬ思いを感じていた自分にとっても救いになったような気がした。
横顔となる写真からは解り辛いが、像は正面からみると美少年の誉れ高かった写真そのままの姿である。つまり、往時生き写しの容保公像である。除幕の際は、さぞや感心した人も多かったのではなかろうか。
まさに、墓群下の魂のどよめきさえ聞こえてきそうな出来栄えである。
公武に忠勤し、そして京の治安維持に殉じた会津藩兵。刻々と変わる情勢のなか、容保公以下皆が何度も帰郷を願うも許されず、やがて幕府の迷走に巻き込まれ朝敵の烙印を押される事態に――。
正に、武士ならずとも死んでも死にきれぬ恥辱、悔しさであっただろう。鳥羽伏見戦での潰走を皮切りに、治安維持活動は大規模な戦に変わり、やがて戊辰戦争として故郷会津での望まぬ総力戦を強いられることとなる。
争乱により漸く京を離れられたものの、その犠牲は実に甚大に。しかし、全てに破れたあと、幸いにも容保公は死を賜ることはなかった。この辺りのことも、明治150年の事績として感慨深いものがある。
公は華族・神職としてその後政治には関わらなかったが、例えば最後まで幕軍として戦った榎本武揚のように、賊軍側の人々が根絶やしにされぬどころか、政府要人となる例も多くみられたからである。つまり敵味方の怨讐を超え、有能な人材が新たな国づくりに活かされたのである。
これは同時期に同じく変革期を迎えていた清国や朝鮮等とは極めて対照的な点である。両国でも改革や政変が盛んであったが、反動による残忍かつ徹底した報復人事が行われ、その後の混乱・近代化の遅れに繋がったからである。
涙なみだの声あらん
事後150年以上を経たが、遠い異郷に倒れた無念の会津人士の墓前に生き写しの容保公像が現れた。
もし、この世に滅せぬ魂、地に留まる熱き思いがあるのなら、その喜びや如何(いか)ならむ。
「見られよ、殿が参られた!」
「皆々大儀!会津に帰ろうぞ」
恐らくは、共々涙なみだの声ならん。沸く声の、幻を聞く思いである。
京都市街東部の紅葉具合
さて、長く感傷的な冒頭文の続きながら、自宅近隣の紅葉具合を紹介したいと思う。
最初は写真に見える、哲学の道・疏水分線の紅葉である。気温の所為か、今年は樹々による進行の差が大きいように感じられた。
色づいた樹があるものの、割合は8割程か。
これも哲学の道・疏水分線の紅葉。前掲同様、若王子(にゃくおうじ)付近の様子
これは著名の紅葉名所・永観堂の拝観口付近。盛期に入って間もない感じか。中央右奥に拝観者用の検温所が設けられているのは新型コロナ襲来の年らしい状況
同じく永観堂の紅葉。参観口前の右横から有料庭園を捉えたもの。やはり色づきのムラが多いか。因みに10日程遅くなるが、去年はこんな具合であった
こちらは永観堂南方の南禅寺境内の紅葉。緑から黄・赤へと色づく途中の姿だが、美しく、変化があって良い
これも同じく南禅寺。塔頭の天授庵門前の紅葉で、ここも手前(西)側は色づきが少ないなどのムラが見られた
次は京都市街東部に広がる文化芸術区域・岡崎の琵琶湖疏水縁。両岸の樹は桜で、既にかなり葉を落としているが、一応参考までに
これは、街なかの鑑賞良地ながら、観光客ゼロ、地元民も稀な秘密の名所
最後は丘上の古刹・真如堂。外人こそ今年はいなくなるも、近年名所として知られるようになったため、やはり人は多い。まあ、それでも観光バスが入れないので、他の著名社寺とは桁違いの人出ではある
同じく真如堂。本堂左横(北側)の楓紅葉
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