
外見平和、内実不穏の春
近山の桜大樹へ
一際寒く、また雪も多かった冬が終り、今年もまた京都市街に花の春がやってきた。
これだけなら、長閑で平和な季節変わりなのだが、コロナ禍や宇露戦争が終らない。また、新たにロシア軍による市民虐殺が発覚し、同国等への経済制裁並びに、その影響による物価高や不況の長期化が決定的になった。
現地の人々の災難は言うまでもなく、世界情勢的にも、とんでもないことをしてくれたものだと思う。
長引くコロナ禍の影響もあり、スリランカやペルーで物価高等に因る政情不安が生じており、今後、経済疲弊した他の国々にも連鎖し、全球規模の情勢不安を起こす恐れも出てきた。
そんな、不穏渦巻く状況で、正直気は晴れないが、一先ず日本、そしてここ京都では外見的ながら平和な春到来となった。
遣る瀬なさを抱えつつではあるが、折角の春なので運動がてら近山の桜を観に出掛ける。それは、ここ数年来気にしてきた山桜の大樹であった。
上掲写真 京都東山山中の古道上に盛りの花を覗かせる山桜大樹の花弁。

山の桜を観るといっても、事前にその咲き具合が判らなければ只の登山・または徒労となる。その為、麓が満開になってから折々東山向かいの丘上等から観察していた。写真は前日眺めた大文字山とその山肌に点在する桜花。夕陽に因り全体に赤味がかるが、明るい色で咲く山桜の様子が判ると思う。同様に、遠目ながら目当ての大桜の具合を観察し、満開を確認した

4月7日の強風で一気に減ったものの、残り花を求める人で賑わう麓を過ぎ、山道に入る。そして、途中から殆ど人が通らぬ山中の古い車道(くるまみち)を登り進み、目当ての桜樹の前に到達した

とはいえ、その花を観察出来るのは、前掲写真の位置が最良。それ以上近づくと他の樹に邪魔され、直近たる花の直下でもこの様な有様であった。元より山桜は高い位置に花をつけ、大樹であるほど地面から遠ざかるので仕方ない(その「欠点」を補うべく改良されたのが現在主流の染井吉野)

馴染みの山桜の根元や幹はこの通り。幹回りは大人二抱え程の太さがあり、外見での判断は難しいようだが、その樹齢は最長200年程とか思われた。とまれ、自分より遥かに年輩であることには違いない

古道を離れ、その対岸・谷向こうの樹間から覗き見えた桜大樹の花
永年の存在・営みに平穏みる
この様に、大樹と雖も山桜は一般的な花見に向かないが、それでも、今日はその姿を垣間見られて大変良かったと感じた。
それは、外見的な花の美しさだけでなく、齢数百年という永年の存在とその営みに山や私自身の平穏を見、その事を確認出来たからかもしれない。

花から新緑へ。変化する春
さて、目当ての大桜を観て別路にて山を下る。運動とするには時間・負荷共に軽いものとなったが、3回目のワクチン接種からまだ日が浅いため、無理せず引き返すことにした。
そして、麓の山際辺りでは、写真の如く、地に降る花弁とは対照的な、鮮やかな新緑が輝いていたのである。
こうして、漸く訪れた春もまた、はやくも変化してゆくのであった。

末筆ながら
最後になったが、山中でまた偶然見つけた、写真のウクライナ・カラーの紹介を……。
今回も、本当に全く偶然路傍で発見したもの。道標というより、何かの目印か。とまれ、過酷な状況にある同国への共感を忘れないようにしたい。
ウクライナと自由に栄光あれ!