
コロナ以降最長・最遠の旅
今日は昼から友人の車に同乗して一路西へ。
向かったのは、何と広島。所蔵の古建具を彼に譲ることとなり、その運搬を兼ね、私も彼の地に行くこととなった。
本来は、彼が買う予定だった古民家の改装監修と手伝いのため仕事として1週間程出向く予定だったが、事情により延期となった。
しかし、帰りの切符等が手配されていたので、業務中止の詫びがてら、招待旅行としてくれたのである。
その旅程は3泊4日。コロナ禍以降としては最長・最遠の旅行となった。
上掲写真 広島行の途中で立ち寄った、岡山県東南の三石(みついし)地区の古い洋館事務所。恐らく補修のため全面金板張りにされているが、各部の意匠や建具・電灯設備等から、戦前の建築とみられた。

備前窯業の地・三石
加古川まで高速で行き、その後バイパスを利用して西へ進んだ。国道でいうと2号線、即ち旧山陽道付近をゆくルートである。
そして、岡山県の山間に入り、友人の勧めで三石という集落で旧道に入り、暫し見学することとなった。新緑の山々に囲まれた小さな地区だが、幾つかの事業所があり、僻地らしからぬ生気があった。
実は、ここ三石は備前窯業、即ち近代備前焼の一産地で、煉瓦工業が盛んな地であった。写真はその中の代表的な事業所。古い事務棟や煉瓦積み煙突が窺われるが、現役で稼働する工場である。

こちらは上述会社の斜め向かいにある別会社。同じく煉瓦を扱っており、奥に製品らしき各種煉瓦が積まれていた。三石は古くから蝋石の著名産地で、後にその屑を利用した耐火煉瓦の製造が主流になったという。それには、この地方の伝統産業「備前焼」の技術や設備が役立ったらしい

上掲会社の横には背後の山へと向かう路地があり、そこを進むと……

山裾に古い煉瓦煙突があった。この地を何度も通過した友人が教えてくれたものだが、焚口のない不思議なものであった。平地側が土崖となっているので、嘗てその下に登窯的な焼成棟があり、その排煙口と接続されていたのか。通り(谷)を挟んだ向こうにも同様の煙突があったが、それは倒壊していた。恐らく、この煙突も何れ同様となるに違いない
煙突山で知る地方史の奥深さ
ところで、倒壊した煙突辺りは平坦地となっており、その上部の山腹には更に何面かの平坦地が続いていた。そこには古い野面積みの石垣跡や倒壊した石鳥居もあり、近代以前の人跡が疑われた。
山上への主要通路には成り難い場所であったが、中世の城塞とその跡を利用した近世以降の宗教施設の存在が想われた。
後で調べると、やはり山上には南北朝から戦国期に使われた城塞・三石城の跡があり、ここはその主郭直下の支尾根末端という要地に当っていた。
煉瓦工場が並ぶ旧道は、実は中世以前に遡る山陽道の跡で、城はその要路を押さえるために築かれたものであった。山間の小工業地・三石は意外の要衝だったのである。その証に、元赤松氏配下で彼の豊臣大老・宇喜多氏の主君であった備前・美作の雄・浦上氏が居城にしていたという。
何気ない散策とそこでの発見に、地方史の奥深さを知る思いであった。

備前焼の本場
三石を後にして、更に山間を西に進み、伊部(いんべ)に到着。日本六古窯の一つ・備前焼の中心地である。ここでも車を置いて暫し散策した。
以前から訪れたい場所だったので、良い機会となった。写真は、旧道沿いに続く古い町並みの途中に現れた天津神社(あまつじんじゃ)。
旧伊部集落の中心、氏神社として、小社ながら大変良い雰囲気をもつ社であった。

伊部・天津社本殿下の中門(随身門)。脇の塀や下段の「神門」等を含め、瓦は全て備前焼が使用されており、地域色溢れる装いであった

夕陽眩い伊部集落と旧山陽道。煙突ある備前焼窯元や直売所等が並ぶ
伊部もまた、三石同様、旧山陽道沿いの要地であった。ただ、その平野は広く、既に市街地と呼べる家屋数や人口を有していた。
そこの直売所にて、記念に伝統的な火襷(ひだすき。藁を添えて焼しるす赤い筋模様)の備前杯を購入。そして街を後にした。
初日終了
日本の広さ?実感
伊部のあとは、岡山手前の温泉施設に寄り、その近くの中華食堂にて食事。繊細美味な料理を供する店の主は瀋陽出身の東北華人らしく、コロナ禍での大陸事情等の話も楽しんだ。
そして、すっかり日の沈んだ山陽路をまた西へ進む。高速とバイパスを乗り継ぎ岡山・福山・三原と進み、23時過ぎ広島市街の友人宅に到着した。
色々寄り道し、また友人が道を間違えたりもしたが(笑)、日本の広さを少々感じさせられたような旅行初日となったのである。
「芸備新緑行」1日目(其壱)の記事はこちら。
「芸備新緑行」2日目(其弐)の記事はこちら。
「芸備新緑行」3日目(其参)の記事はこちら。
「芸備新緑行」4日目(其肆)の記事はこちら。