
未明より話題の景へ
今朝珍しく3時半に起きて4時から外出。
自動車に同乗して向かったのは京都府北部の丹後大江山(今は大半が丹波側福知山市)。暗い京都市街から高速に入って北上し、更に下道から山間のつづら道をひたに上って着いたのが、標高650mの同山八合目であった。
明るみ始めた森なかの車道終端にある鬼嶽稲荷神社(おにたけいなり)前の路端には、なんと、整理係の人に誘導されて駐車する多くの車が。そして神社前の少し開けた場所には既に多くの人影があった。
神社前で転回し、車列後方に停車して広場に向かうと、写真の如き、山麓に押し寄せる雲海が……。そう、今朝は誘われて昨今府北で話題の、この雲海を観に来たのであった。
時は6時前。出発時間的に危惧したが、何とか6時10分頃の日の出にも間に合ったのである。

そして暫くして東の雲上から太陽が上ってきた。鬼嶽社前の展望所で待ち構えていた人達も一斉に撮影に集中

朝日を浴びて赤らむ、大江山八合目付近のブナの大木や天然林。そう、大江山はブナの原生林でも著名な場所であった。その黄葉は始まったばかりに見受けられた

大江山での雲海とご来光観賞後、車行約40km(直線20km)東方の、西舞鶴湾を一望する五老ヶ岳(標高300m)山上へ移動。
写真は、そこからみた雲海(中央左から中央)。中央の台形の小山・建部山(旧軍港防御用の陸戦砲台)右奥にあるのが大江山である。
雲海は、この建部山と大江山の間を流れる府北の主要河川・由良川の影響により発生するといい、その流域に雲海が広がっているのである。

幻の古代丹後国府探索
五老ヶ岳での展望の後、車行約30km西北の宮津に移動して運転者の関係先で休ませもらい、その後港で昼食を摂り、宮津の名勝・天橋立を訪ねた。
ここで用がある運転者と一旦別れ、独りで橋立を初横断する予定だったが、その前に以前から気になっていた丹後国府推定地を巡ることにした。
写真は様々な記録や発掘により判明している、国府と同じ古代律令時代に造られた国分寺跡地。内海の阿蘇海対岸に連なるのが、天橋立である。
国分寺や国分尼寺は、古代令制国の中心地・国府に近い場所に造られることが多かったため、失われた国府跡を推定するには重要な存在であった。
恐らく、丹後国府も、この寺同様、内海を見下ろすこの丘陵続きに存在したと思われる。

その後、国分寺遺跡下の丘陵縁に続く、集落を縫う古道を東行。恐らくは古代官道を踏襲した前近代幹線跡だと思われる。後代の整形はあろうが、左山手の切岸が続く様にも、以前探査した関ヶ原付近の官道跡と似ている。実はこの付近は国府を意味する「府中」の地名を持っており、切岸上一帯が丹後国府の有力推定地となっている

国分寺下古道を更に進むと土蔵ある辻が現れた。傍らの古い碑(いしぶみ)には、背後の山上にある成相寺(なりあいじ)の主参道「本坂」の始点であることが記されていた。西国札所で著名な同寺へは現在国分寺背後から上る車道が一般的だが、前近代はここが主路だったようである。実は車を降りる前に成相寺まで上がってみたが、車でも急で遠い山上にあったので、必ず古い短絡参道がある筈と話していたが、奇しくもそれを証せた

国分寺下の古道はやがて学校用地に突き当たり終った。学校の名は府中小学校。国府関連地名を冠した学校である。衛星画像の地目・境界分析から、官道は本坂の辻手前から学校裏の古道に繋がっていたと思われた。恐らくは江戸幕府の方針や宮津藩の有事対策のために近世初期に遠見遮断化されたのであろう。本坂の町石も江戸初期の寛永年間に設置されたという

古道端から、開放された小学校校庭を抜け海際の国道を東へ進むと元伊勢籠(この)神社門前に到達。丹後一宮に当るこの社も、国府と関連深い存在である。鳥居左山上に見えるのはケーブルカー施設で、所謂「橋立の股覗き」をする場所への交通であった。橋立東北端に近いため、籠社付近も観光地的雰囲気で、賑やか。しかし、結局国府関連の案内はなく、地表の痕跡は見られなかった。まだ発掘が進んでおらず、あくまで推定の域を脱していないからか。今後の調査進展に期待したい

橋立初渡り
籠社前で国道を渡り、土産物街を抜けると、写真の如く橋立北東端が見えてきた。これから歩いてその西南端を目指す。
天橋立は昔ドライブ途中に寄ったことがあるが、駅近くの西南端を少し歩いただけで、渡ったことがなかった。そのため、今回初めて端から端までを歩き渡ることとなった。

車止めがある橋立の入口を過ぎると、松並木のある未舗装の一本道が続く。面白いのが、特別名勝の天然の砂州道ながら、125t以下の2輪や軽車輌の通行が許されていたこと

天橋立の東縁・外海側には美麗な砂浜が広がり続く。道々にやたら厠が多く現れたのを怪訝に感じたが、思えばここは夏に水泳場となるのであった。珍しい、「使える」名勝・三景の一つか

対して橋立の西縁・内海側は護岸となっており浜はなかった。波も荒く、常識的想像とは異なる景色である。偏西風や山の吹きおろしの影響か。説明板によると、約2000年前に今と似た形となった橋立は、比較的深い海中に立つ壁の如き存在だという。これも、実に意外のことであった。この「特殊」が、基本不安定な砂州である橋立を、恒久的名勝とさせたのか

橋立南部の最も幅が広い場所に現れた天橋立神社の磯清水。海に囲まれた砂州上ながら、甘い真水が樋から流れ出ていた。名水百選に指定されているが、何故か汲む人・立ち寄る人がおらず、人気がない。まあ、全長3km以上あり、大半の人が貸自転車を使用しているので、気づきにくいのか

文殊堂の賑わい最後に
北東端から歩き始めて30分以上、漸く南西端の文珠水路に架かる写真の廻旋橋が見えてきた。文殊堂で有名な智恩寺や駅に近いため、徒歩の遊山客も格段に増えてきた。
その後、智恩寺境内を通り、天橋立駅で待つ運転者と合流し宮津を後にした。橋立初渡り及び、今回の丹後観覧の終了である。そして、夕方、無事京都市街に帰着したのであった。