
静岡名所行2日目
雪氷が雨水に変じるとされる二十四節気の「雨水」。
そんな春の予兆日を過ぎた頃に似合う温暖の地、東海静岡行の2日目。今日もまた、駿河湾沿いの名所を探訪することとなった。
その場所は久能山(くのうざん)。沿岸平野と海岸の合間に広がる稀有な独立丘陵の一部で、以前から個人的に見学したかった場所のため、知人が連れて行ってくれたのである。
写真は、駐車場がある麓の土産店街から久能山を見上げたもの。山上に在るのは、かの東照権現(徳川家康の神号)を祀り、また、その墓所の一つとされる久能山東照宮。
見ての通り、山自体の標高は高くはないが、これから徒歩で山上を目指すこととなった。

17度近くまで気温が上がった昨日とは異なり、朝寒かった今日の空気は冷たく、2月らしい気候に。しかし、見ての通りの快晴のため、屋外活動に難はなかった。変わった石敷き(石畳?)の参道を進み、東照宮へと向かわんとして振り返ると、鳥居越しに春のような空と海が……

参道脇には東照宮付属の「久能梅園」があったので立ち寄る。前日の地元報道の通り、海を臨むそれは、花の見頃を迎えていた。園下に並ぶビニールハウスは名産の「石垣苺」の栽培用。こちらも、ちょうど盛りとあって、麓にて関連商品共々、多々売られていた

梅園上の参道は、このような石垣沿いの石段道となった。それは、山肌に沿い、ジグザグ状に続く。所謂スイッチバック的に社殿地までの急斜を登るのである。かなり無理があるその施工に驚くが、やはり石垣や石畳の補修の多さにも、その特異性、維持の困難が窺われた。石垣は幕府関連特有の二条城等に似た丁寧かつ権威的な施工も見られたが、何故か近世式の高石垣を用いず、前代技法の多段式で施工されていた

ジグザグの石段を右左往しつつ標高差100m程を登り、城門様の社殿地門「一ノ門」を潜る。正に城郭施設「桝形虎口」的なその裏側からは、青く輝く海原が額縁画の如く見えた

門からは傾斜が緩くなるも、また登りの石段が暫し続く。そして本殿下の展望所からは久能山の実態が知れる眺めが現れた。それは、海に向かい複雑な崩落地形を成す丘陵南端の姿でもあった
久能山の姿
背後にある日本平を含め、久能山がある有度丘陵(うど・きゅうりょう)は、元は安部川等が運んだ土砂堆積物が隆起し、その後、風波に浸食されて形成されたらしいので、脆い地質という。
ジグザグ参道の非高石垣や数多の石段補修はそうした地質と関係するのではなかろうか。しかし、よくもこんな難所に霊廟を置いたものである。
久能山東照宮は元は戦国期の城塞を改変したものらしく、海岸沿いの久能街道を押さえる要所として、元来不可欠な施設だったので、有事の軍事転用を見据え、無理にでも維持されたのかもしれない。

その後有料エリアに入り、本殿へと向かう。元山城そして山中でもあるので、登りの石段が続く。華やかに加飾された楼門も、また石段上にあった

そして幾つかの石段を登り、本殿(御社殿)に到着。徳川家康死没翌年の元和3(1617)年に建てられたという国宝建築。規模は小さいが、日光同様の煌びやかな加飾建築であった。塀等も含め、周辺施設共々、新築の如く刷新されている。最近、全社的な大規模修繕が行われたのか

本殿後方の石段を更に登ると、徳川家康の当初の墓所と伝わる「神廟」に到着。久能山山上に当る場所で、境内最上部となる
家康は遺言によりここに葬られたとされるが、その決定や東照宮造営には、かの天台僧・慈眼大師天海が関わっていたとの説もあった。
土地にまつわる貴賤思想・力学のようなものに通じた天海が、日光等と共に、ここを幕府永続の聖地としたとの説である。
私が以前から久能山に来たかったのは、それへの興味もあったが、実際訪れると、意外に穏やかな場所のように感じられた。
静岡の温暖に思う
石造宝塔が立つ神廟見学後、元来た道を辿り東照宮をあとにした。その後、静岡市街中心部にある駿府城に移動し、少々見学して外出を終えた。
これにて2日間の静岡名所見学は終了。真冬ながら、両日とも当地らしい温暖で良き日和であった。以前から気になっていたが、同じ静岡県内でも、あれら静岡市内沿岸部は寒波が来ず、殆ど雪を見ないという。
これだけ温暖な地は山陽・東海の幹線沿いでは他に無いのではなかろうか。そう考えると、徳川家康が晩年駿府に隠居した理由がこの気候にあるように思われた。
幼少から12年も駿府で人質生活を送った家康は、当地の気候特色をよく知っていた筈だからである。
東海道沿いの要地でありながら、寒くないここで、朝廷や西国大名等に睨みをきかせつつ、老いの養生をしていたのか……。今回は、そんな考えも思い及ばされた、東海静岡行となった。