2023年06月25日
余呉賤嶽行
春過ぎて夏開催に
4月中旬に予定しながら、私の長患いや天候の所為で延期につぐ延期となっていた春の山会(やまかい)が、今日漸く開催されることとなった。
もはや「春」ではなく「夏」の山会と言ってもよい時期となったが、ともかく、朝自転車や列車を乗り継ぎ、京都隣県の滋賀北部に向かう。
やがて辿り着いたそこは、日本最大の淡水湖・琵琶湖北岸付近で、北陸・越前にも接する、「湖北」と呼ばれる地域であった。
今回は、そこにて、戦国末期かの豊太閤秀吉が天下掌握の基礎を固めた決戦地・賤ケ岳と、その周辺の琵琶湖北岸や孤立湖・余呉湖等の、史跡・自然・地理・民俗等を探索する、自然・人文企画的な複合山会に臨んだ。
上掲写真 京都市街からJR快速で約1時間半で着く、近畿東北縁の長閑な余呉駅から見た、水田彼方の余呉湖や、それを囲い、裏面の琵琶湖とを隔てる、賤ケ岳(中央奥。その右隣りの鞍部は飯浦の切通し)等の山々。著名合戦の舞台であり、民俗学・地理学的も興味深い場所である。
余呉湖・賤ケ岳周辺地形図。拡大及び移動可能。記事の内容に合わせてご参照あれ。元の大きさに戻すにはリロード(再読込やF5キー押下)を。なお、賤ヶ岳合戦の布陣状況等は、こちらや各紹介サイトの図を参照あれ
今日は、集合場所の余呉駅から余呉湖東岸の山地に入り、その稜線を南行しつつ賤ケ岳合戦の主戦場を見学して賤ケ岳山頂に達し、その後、琵琶湖岸に下り、山梨子(やまなし)と飯浦(はんのうら)という湖岸集落を見て後者北の切通し古道を越えて余呉湖岸に入り、その東岸や水利施設等を観察しつつ北行し、余呉駅に戻る予定であった。
但しそれは参加者の体力具合に依るものとした。もし賤ケ岳までの登坂で不調が出れば、行ける者だけで琵琶湖岸を巡り、切通し鞍部か賤ケ岳山頂で合流後に余呉湖岸に下るつもりだった。まあ登り高低差が300m弱の初心者的道程なので大丈夫とは思うが、暑さが気にかかるところではあった。
賤ケ岳擁す余呉湖東岸山地へ
とまれ、早速余呉駅から登山口の江土(えど)集落に移動する。曇りの予報に反して青空が見え、午前遅い時間もあって気温も高めであった。
写真は江土集落を流れる江土川(高田川)。元は流入・流出河川が無かった閉塞湖の余呉湖と東岸山地の東を流れる余呉川を結ぶために近世初期に開削された水路で、別所に近代的で大がかりな送排水施設が出来るまでは、この川一つで、湖と余呉川双方の増水に対応していたという。
江土集落では意外と家屋が密集して登山口が判り辛かったが、集落裏の山の端に付けられた案内板に助けられ無事進むことが出来た。もし案内板が無ければ、民家の裏に入り込むような道なので、心理的に進み難い(笑)
集落裏の登山口からは尾根上に続く山道をゆく。とはいえ、この様に良く整備された道で、傾斜も緩く歩き易かった。何より、意外と人工・天然の森が深く、日陰が続いたのは有難い。道は軽トラ1台が通過出来そうな規模で、古い牛馬道の名残りかと思われた。ひょっとすると、この奥に続く秀吉方砦への軍道の名残りか。写真の箇所は鞍部を盛土して平坦にしているが、本来は堀切や木橋等の遮断施設があったのかもしれない
江土から続く稜線上に現れた岩崎山砦への分岐と案内板
秀吉方・高山右近撤退の「岩崎山砦」
そして、道を進むと間もなく道脇に岩崎山砦跡を示す案内板が現れた。かの高槻5万石のキリシタン大名・高山右近が担当した城塞遺構である。
岩崎山砦跡には、この様な地元観光協会の解説入り砦「縄張図」が掲示されていた。さすがは全国著名の合戦地なので、説明に力を入れているのか
縄張図に従い支尾根上にある岩崎山砦中央の主郭部を訪ねる。標高209mの岩崎山頂にあるそこは、この通り林と化していたが、人造平坦地であることや、低いながらも土塁跡を確認出来た。砦の全幅は200m程で、郭の密集具合から、北の柴田方陣地及び北国街道への備えが窺えた。それ故に、緒戦での背後からの急襲に因る、右近隊の撤退と砦陥落を早めたとみられる
秀吉方・中川清秀奮戦敗死の「大岩山砦」
岩崎山砦見学後は、また主尾根の道に戻って緩やかな登坂を南行し、1km程で大岩山砦跡に続く分岐が出現。主尾根の道に併走・合流する写真左の林道横の登坂がその主郭への道である(南から来し方の北を見たもの)。
林道横の登坂を上がるとすぐに大きな平坦地が現れた。標高約280mの大岩山山頂に築かれた大岩山砦の主郭部である。守将は、右近と同じ摂津衆で茨木5万石の大名・中川清秀
現地の縄張図は主郭付近しか描かれていないが、地形分析から、恐らくは岩崎山砦同様、両翼を持つ「山」字形の要害であったと思われる。その守備方向は東で、北国街道の東向こうの山地にあった坂口砦や田上山砦等と共に街道やそれが通る谷地の敵を挟撃・牽制する「縦深防御」の意図が窺えた。しかし、それ故に、岩崎山同様、緒戦で背後を衝かれ、中川清秀討死の危急を招く
大岩山砦主郭広場にある中川清秀公墓所。左奥には同氏の名跡を継いだ豊後岡藩藩主の名が記された江戸期の石碑もあった
大岩山砦主郭見学後、主尾根の道に戻ると、尾根横直下の窪地に「首洗池」なるものが現れた。中川清秀の首を洗った場所との説明があったが、恐らくは後づけで、水に乏しい尾根筋に於ける貴重な水源とみられた
豊公陣跡?「猿が馬場」
首洗池の次は尾根道上に古い記念碑が立つ写真の「猿が馬場」が現れた。大岩山と岩崎山の両砦陥落を知り急行した秀吉が反撃の陣を置いたとの説明があったが、広からぬ小頂上にあり、柴田勢が占拠した大岩山にあまりに近い危険な立地のため誤伝が疑われた。
地形図の検討や当時の戦況を勘案すると、秀吉方というより、桃山期の軍学者・小瀬甫庵著『太閤記』記載の、賤ケ岳砦の抑え(同砦からの救援遮断)として置かれ、撤退時に殿(しんがり)を務めた佐久間側の安井左近大夫と原彦次郎の陣跡に相応しいと思われた。
疑惑の猿が馬場を過ぎ、更に南へと進む。道は重機等の近代人為が見られない純粋な古道と化してなだらかに続く。人工林と天然林が交互に続くが、意外と大径木が多く、樹種も豊富で豊かな森に思われた
決戦指揮所立地・賤ケ岳山頂
その後、高低差80m程を登る急坂を経て、写真の如き平坦な尾根にでた。それは、標高点349から西に続く箇所で、幅が広く賤ケ岳山頂直下まで500m以上に渡り続いていた。
秀吉布陣の猿が馬場とは、ここのことではないか。ここなら逆反撃に強い高所にあり、大軍の待機も可能である。また人為的な整地の可能性も窺え、しかも、直下の急坂下に山城特有の堀切跡も確認していた。恐らくは、賤ケ岳砦の東郭で、武者溜りだったのではなかろうか。
実際『甫庵太閤記』にも、佐久間隊が大岩山麓で発見された際に中川・高山隊6千が賤ケ岳砦の「要害」から急ぎ下ってきたという記述があり、軍団の宿営地だった可能性がある。
長大な平坦尾根の次は、賤ケ岳山頂直下の急坂が現れた。この坂下にも砦防御用らしき堀切跡が残っていたが、途中の郭や道跡は不明瞭であった
そして、高低差50m程の急登を終え、賤ケ岳山頂に到着。標高421mで、江土の尾根端から約4kmかけて300m弱登ってきたことになる。山頂は賤ケ岳砦の主郭跡を利用した広場となっており、土塁跡らしきものも確認できた(写真左右端)。写真は減ったあとのものだが、人の多さに驚く。大河ドラマ等の影響か(笑)
賤ケ岳砦跡の特筆すべき点は、その眺望の良さにあった。これは南方の眺めだが、ほぼ琵琶湖全域を観察することができる。湖北という辺境に在りながら、北陸・東海・上方への出入りを監視できる意外の要衝だったのである。砦急襲の反撃に際し秀吉は迷わずここに上ってきたというが、元よりここを決戦指揮所の一つに想定していたのかもしれない
同じく賤ケ岳山頂から見た北方は余呉湖等の眺め。こちらも、岩崎・大岩の両砦がある余呉湖東岸尾根は疎か、秀吉が「総構(そうがまえ)」と呼んだ、余呉湖北尾根やその東対面山地上の砦群を含む、二段の防御線が観察できた。秀吉は決戦に先立ち北尾根と東対面山地間の谷地を防塁(土居堀?)で塞ぎ、そこを通る北国街道諸共柴田軍の侵入路を遮断していたが、その場所も見えた。即ち、山稜と防塁で「前方防御」を施し、その後方谷地内で更に「縦深防御」を用意していたのである。そんな近代戦を先取りするような壮大かつ抜かりない展開を実見し、改めて感心させられた
賤ケ岳山頂から見えるのは秀吉方の陣跡だけでなく、柴田方の主要陣跡も見えた。それは余呉湖北西にあるが、副将の佐久間盛政がいた行市山(ぎょういちやま。標高659m。写真中央)や、その右谷奥の総大将・柴田勝家本陣の内中尾山(玄番尾城。標高約460m)等である。正に決戦指揮所に相応しい眺望ある立地。しかし敵も同じくこちらを監視していたであろう
天下人の壮大な智略と技みる
先に長浜を押さえ江北(湖北)を掌握した上方勢の秀吉に対し、北陸勢の勝家が3万以上とされる大軍でここに押し出してきたが、隙の無い防御で封じられ、膠着状態となってしまう。それを打破すべく、秀吉本隊が美濃に出陣した隙を狙い、佐久間盛政が山裏から大岩山・岩崎山を奇襲したのが、賤ケ岳合戦の発端である。
前線後方にあり未成だった砦を奇襲陥落させ、上方本陣の木之本を見下ろす要所・賤ケ岳まで一気に危うくした優れた軍略だったが、50km以上の距離を5時間で帰還するという想定外の秀吉主力の反撃で壊滅し、支援作戦中の柴田本隊諸共、全軍潰走の急展開を招いた。
結果、僅か4日後に北陸方本城の北ノ庄(現福井市)が陥落し、勝家は滅亡することとなったのである。
それにしても、谷地を防塁で塞ぎ山稜共々長大な防衛線と成し、大軍を恙なく高速移動させるという、秀吉の壮大な軍略には感心させられるばかり。恐らくは、それまでの戦いのなかで、誰も真似し難い、迅速かつ大規模な土木普請や兵員展開の術を磨き、体得していたのであろう。
そうした体制を備えた上方勢をここで破ることは同数以上の兵員を以てしても至難に思われる。既に北陸勢がここに止められた時点で勝敗は決していたのかもしれない。迂回路となる湖西や敦賀が湖上・海上諸共、秀吉方の丹羽長秀らに抑えられていた北陸勢は、後方の山越えで補給せざるを得ず、豪雪で交通が途絶するため在陣を続けることも不可能であった。
つまり、遠からず奇襲突破を試みるしかなく、秀吉はその機会を待っていたのかもしれない。
そういえば、合戦は440年前のちょうど今頃生じた(西暦換算6月10日)。そんな機会に、初めて現地を実見し、天下人の非凡な智略や技、そして、歴史の奇しき変転を実感したのであった。
賤ケ岳山頂にて華麗なる豊太閤の軍略を体感したのち、昼食を摂り、南方の尾根に続く道を下る。山頂他、樹々が少ない場所が続いたが、折よく曇り空となったので直射の暑さは避けることが出来た、
賤ケ岳砦の主郭たる山頂南直下の急坂下ではリフト乗場が現れた。人が多かった理由の一つであろう。ただ、ここから山頂までは未だかなりの登坂があるので、足の悪い高齢者等が難儀する姿も見られた。麓から直に山頂に着くような誤解もあり油断しがちだろうが、水等の備えは忘れずに……
リフト乗場から先は人の往来が激減するためか、尾根上の道は、急に元の古道・山道風情と化した。ただ、環境省の「中部北陸自然歩道」の一部のため、草刈り等の整備が行き届いた、歩きやすい道である
そして、賤ケ岳山頂から750m程尾根道を下ると、この様な鞍部に達した。賤ケ岳東南麓の大音(おおと)集落と琵琶湖岸の山梨子集落を結ぶ古道峠だが、人為的に掘り込まれていることが判る。恐らくは賤ケ岳砦南端の堀切を利用した通路であろう。尾根伝いでの砦接近を阻む防御遺構である
謎多き湖岸の古集落・山梨子へ
堀切鞍部からは古道を伝い、湖岸の山梨子集落へと向かうが、付近の森なかには写真の如く、古の荷車道らしき確かな通路が続いていた。
これは峠直下の古道脇あった「首切地蔵」とその解説板。石仏の首が折れており、その昔盗賊が切ったとの伝説をもつという。話の真偽はともかく、中世以前の作とみられる古い石像が在ることも、古くからの通路である証か。因みに、地蔵前から北へ向かう別の古道もあった(20世紀初頭の古地形図にみえる、北西の飯浦集落に下る巻道か)
古道は、この様に無数のつづら折れを繰り返しつつ急斜面を下る。これも、牛馬や荷車通行のために傾斜を減ずる古道特有の工夫とみられた
折り返しを無数に繰り返し斜面を下ると車道が現れた。高低差100m以上の急下降だったが、車道にこの様な古い隧道口が現れ少々驚く。国鉄北陸線の旧路かと思ったが、こんな場所にあった記憶はない。ただ、通行がない車道用としては立派過ぎ、わかったのは煉瓦の使用と状態から、その様式末期の大正頃のものだろうということであった。あとで調べると、やはり大正末起工・昭和初年竣工の車道トンネルで、戦後この下横に新道トンネルが出来たため廃れた、湖西・敦賀方面への元幹線路であった。即ち、ここは古道峠を含め、三代に渡る通路が現役で残る稀少な場所であった
隧道から下はつづらの道が廃れ始めたので代替らしき舗装路をゆく。そして高度差50m程下降すると山梨子集落の裏手に至り、その家屋と共に琵琶湖の水面などが見えた。ただ、湖岸へはここから更に20m程の高さを下る
漸く湖岸に下り、山梨子集落全容を観察すると、昔訪れた同じく江北の湖岸集落「菅浦」とよく似た雰囲気であることを知る。湖岸側家屋が立派な石組み基壇を有していることなどである。また、屋根下の梁端部が妻壁から突き出ているなどの建築的類似もみられた。
戸数は菅浦より少なく、殆ど耕地もない極めて小規模な集落であることを意外に思う。今は車道で結ばれているが、菅浦同様、20世紀前期までは山越えか舟でしか行くことが出来ない孤立村落だったので、集団結束や自給自足が不可欠とみていたためである。漁業や運輸を業としていたのか。
また、背後が急傾斜地のため、長く集落を維持出来たことに感心する。集落後部には伝統的な石積に替えて平成初頭製のコンクリ擁壁が聳えており、崩落の危険と、それへの警戒が窺えたからである。
因みに、賤ヶ岳合戦の際は事前に秀吉の弟で留守居大将の羽柴秀長が船団で上陸した記録があるらしく、佐久間隊奇襲時に賤ケ岳砦を救援した丹羽長秀が上陸した場所にも推定されている。
峠越えはあるが、秀吉本陣があった木之本及び各砦への補給拠点や、北国街道最寄り湖津としての役割があったのだろうか。
山梨子集落の湖岸からは奥琵琶湖の水面や秀吉ら戦国大名も尊崇した信仰の島・竹生島(ちくぶしま)が望めた。しかし、本来静かで風光明媚な地ながら、水質は良からずコンクリ塊で固められた湖岸も趣を欠き残念に思われた。地方創生には、先ずその地が地元を始め、内外の人に愛されることも重要である。これからの時代は、その為の改善が必要かと思われた
歩いてもすぐ端に至る山梨子集落の南端には、この様な「広屋の大石(または「へび石」)」があった。教育委員会の解説板によると、18世紀半ば以降の地元旧家の日記に、この石がどれくらい水面から出ていた事が記されているという。即ち、前近代の琵琶湖の水位計たるものであり、他の湖岸集落に例を見ない貴重な存在という。この石により、今は湖岸路の上手にある集落石積まで湖水が達していたことが判った
山梨子の湖岸で斜面下降の疲れや暑さを癒し、次なる湖岸集落・飯浦に進まんと湖岸を北上する。途中、民家を改装した店らしき建屋から出てきた、大陸出身とみられる男性に屋内での休憩を勧められるが、終点の余呉駅までまだ距離があるので挨拶のみで進んだ。
最近開いた店らしく、コロナ禍で止まった投資再開を想うも、我々すら知らぬこの様な僻地にまで進出することに少々呆れる。願わくば、土地家屋の安さではなく、場所の魅力・可能性を買ってもらっていますよう……。
意外・立派な古跡残る飯浦
山梨子集落の北から、隧道と同時期に開削されたとみられる山際の湖岸旧道を通り、やがて新道に合流した。交通量が多い割に歩道がないので歩き辛いが、仕方なし。
そうするうちに、新道と湖岸の合間に、写真の如きコンクリ造の施設が現れた。門柱には「余呉湖補給揚水機場」とある。地下トンネルで琵琶湖の水を水面標高が50m程高い山裏の余呉湖に送るポンプ施設であった。建屋と道の間に径1mもない黒い配管も見える。なお、建屋手前の丈低い三角の覆い屋は、のちに増設された第二補給揚水機場とのこと。
余呉湖は元来の天然湖沼ながら、現在では地下及び地上の送排水施設によりダム化されている。この施設はその一部で、農業用水等の高需要期に琵琶湖の水を余呉湖に送っているという。
今回賤ヶ岳から一旦山を下りたのは、湖岸集落への歴史・地理・文化的興味のほか、これら余呉湖の水利施設が見たかったことも理由であった。
揚水機場を過ぎると程なく飯浦集落に到着。余呉湖南西山裏に当り、賤ヶ岳西麓でもあるここは、山梨子とは異なり、狭からぬ山懐に広がり、戸数も多かった。伝統的家屋も多く見られたが、幅広い新道により(集落付近から歩道出現)、湖岸と分断されていたのは残念に思われた
飯浦では集落南端辺りを通り、余呉湖岸へ抜ける山越古道に入る。
村外れでは、工事による道路途絶で通行困難になるも、近くの婦人らが脚立まで用意し助言してくれたお蔭で傍の石垣を乗り越え迂回することが出来た。通りすがりの他所者への親切に感謝!快き人情と共に、未知の地元言葉も聞き感心する。地理的・文化的に北陸の影響が強いのか。
山中の古道は、写真の如き姿で峠まで続いたが、それは、意外にも、谷側に古い石塁を備えた立派な牛馬・荷車道であった。湖西等の山中でもよく見る造りの古道だが、ここのそれは荷車2台が行き交える程の幅を有するという特色を備えていた。
ここは余呉方面への通路ではあるが、間道的立地なので、これ程の規模を有すことは謎であった。もはや村落の自主施工とは思えず、公儀の関与さえ窺われた。ひょっとして賤ヶ岳城への物資運搬の主路などだったのか。
また古道沿いには石積で築かれた無数の平坦地があった。写真中央で左に折れる古道向こうに開(はだか)る土壇などである。棚田跡かと思われたが、その数や規模、造りの良さに驚かされた。それは峠近くまで続いた。一部は戦国期の飯浦の詰の城や賤ケ岳の支城であった可能性も考えられた
稜線鞍部が鋭く切られた「飯浦の切通し」。南は飯浦側からみる
飯浦の切通
合戦山場定説地への疑問
古道・耕地跡共々立派だが、双方荒れ気味で、獣の白骨も数多散乱する陰鬱な森をつづらで登り、やがて稜線が鋭く切れた峠に到着した。
所謂「飯浦の切通し」で、湖岸から約200mの高低差を登り返したことになる。峠道の左側上部には山梨子の峠と同じく、古い石仏があり、石灯籠も添えられていた。古くからの峠道に違いないが、右側稜線が賤ヶ岳山上に接することから、同時にその砦の堀切だったとみられる。
実は、この場所は賤ヶ岳合戦の山場となったことが定説化している。
即ち、秀吉本隊出現による佐久間隊撤収の最終殿(しんがり)を務めた柴田勝政(盛政弟)隊が、ここで秀吉の鉄砲・弓衆の斉射を受けて崩れ、「七本槍」ら若手親衛軍の突撃と追撃により佐久間本隊共々壊滅し、北陸勢全軍の敗北端緒になったとされるからである。
しかし、ここを実見して瞬時に疑問が生じた。それは、この峠一帯が急峻な為である。『甫庵太閤記』によると、柴田勝政は3千の兵を率い、賤ケ岳砦の抑えとして、その「堀切」付近で南面して控えていたという(合戦同年に記された『天正記』には場所記載なし)。だが、ここの切通し南の余呉側もかなりの急斜面で、多勢の布陣は難しく、防御もし難い。
そう考えて地形図を見ると、ここからの稜線続きで砦主郭から250m程手前に緩傾斜の適地があることが判った。しかも、そこは左右から尾根が集まりその内一つには余呉湖南岸に下る山道も描かれていた。
主郭直下のそこは、恐らく砦西直下の重要な堀切があった筈である。そこを抑えずにこの「切通」に居れば、湖岸から回り込まれるため、砦の抑えにも、南岸を通行したとされる佐久間本隊の殿にもならない。
しかし、そうなると主郭との近さが気になるが、『甫庵太閤記』には丹羽長秀が湖上で賤ケ岳山上での数多の発砲音や幟旗の存在を知り砦の危機を悟ったと記されているので矛盾はない(岩崎・大岩山は山裏なので誤認する可能性はない)。
また、このあと城将の桑山重晴が一旦退却を始めるので、かなり圧迫されていた可能性も高く、存命者等からの聞き書きによる『川角太閤記』にも、秀吉が「七本槍」らを220m程先に突撃させて首を取らせたとの記述があり、勝政隊と砦の近接が窺える。
その、「真の堀切」部分を是非実見したいと思ったが、今回は予定になく、時間的・参加者との関係上からも叶わなかった。機会あれば、是非また再訪して確認してみたい。ひょっとすると、勝政隊が築いた攻守逆向きの野戦防塁跡等が残存しているかもしれない。
新説?
賤ヶ岳合戦は幻の柴田側決戦行動か
ここで、これまでの見聞や諸史料の分析により、一つの考えが浮かんだ。
それは、佐久間盛政隊の目的が砦討滅ではなく賤ケ岳を含めた全山を攻略し、一気に上方防御線後方の木之本に下り、羽柴秀長本隊らを、谷地内で勝家隊と挟撃するつもりだったのではないか、ということである。
これなら、総構(前方防御線)西の有利な高所に前田利家隊も進出していたので、併せて三方から一気に羽柴方を殲滅することが出来る。秀吉留守時の兵数はほぼ互角だったので(『天正記』等には柴田側の方が多勢とする記述もあり)、成功の可能性はあり、むしろこの手しか勝ち目があるように思えない。
その為に、盛政隊が1万5、6千(勝政隊含むと2万弱か)という過大な兵力を後方山地に向けたのではないか。つまり、盛政隊は別働隊ではなく、秀長隊1万5千に対抗し得る北陸勢最大の決戦本隊だったということである。
しかし、中川隊奮戦による損耗・遅延と丹羽勢の賤ケ岳加勢によりその計画は崩れた。そうなれば、秀吉の帰還前に一刻も早く元の陣所に撤収しなければならない。甫庵太閤記にある、勝家から盛政への数多の撤収催促も、決戦中止と危険退避の指示で、盛政が諦めずにいた為かもしれない。
私は当初から太閤記のこの大岩・岩崎山両砦攻略後の撤収指示記述に疑問を抱いていた。わざわざ大軍を発して後方の小城を一つ二つ落として戻るという行為に作戦意義を見出すことが出来なかったからである。
しかし賤ケ岳全山攻略失敗後も、まだ佐久間隊退避と北陸勢壊滅回避の可能性はあった。だが、不幸にも大雨による揖斐川増水で秀吉が予定の岐阜まで進出出来ず、素早い「大返し」が可能になった。
秀吉はこの幸運と、すんでの危機を承知しており、それ故、この見事な作戦を立案し、実行した佐久間盛政を許し、配下に加えようとしたのかもしれない(後日生け捕られたが拒否して刑死)。
意外に深く豊かな飯浦切通北の森
余呉湖へ
一見天然、中身は……
さて、飯浦から2度目の休息を切通の峠でとったあと、北は余呉湖側へと下降する。古道は続くが、その造りは変じ、よくある荷車1輌分の幅に狭まった。やはり、飯浦から峠までの道は賤ヶ岳城との関連があるのか。
道脇の森は意外と深く、様々な樹種の高木が斜面を覆っていた。しかし、森が豊かな割に水の気配がないことにも気づく。近畿辺りの低山なら、峠下の谷筋を下ると程なくして沢音を聞くが、ここではかなり下降しないと耳にしなかった。それは、先程の飯浦側でも同様であった。
冬の豪雪を含め、この辺りは比較的降水量が多い地域の筈。地質図では余呉湖周囲の山域は中・古生層の堆積岩質らしいが、何か透水や滞水等の性質に特異性があるのだろうか。
一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖。南岸より北は余呉駅方向をみる
切通北の古道を下ると、やがてまた森なかに耕地跡が現れた。飯浦側同様の結構な規模である。
そして、そのまま山裾へ下り出ると、湖岸道路と余呉湖が現れた。森と道の狭間には国民宿舎跡の広い空地があったが、終戦直後に米軍が撮影した最古級の空撮写真には、ここを含め山側に続く棚田が捉えられていた。
それは、湖岸各所と同様で、恐らくは湖岸北部等にある集落の出作地かと思われた。しかし、飯浦側の山中に棚田は写っておらず、古い時代での廃滅が窺われた。なお、現在ある湖岸道路は写っていなかった。戦国期以前同様、まだ舟が利用されていたのであろうか。
湖岸からは、一見古代から変わらぬ姿に見える余呉湖が広がっていた。だが、耕地は全て消え、湖岸も石で固められ、古の風情や天然の水辺は見られなかった。あたかも、公園か人造湖の雰囲気である。湖岸路を通す際に埋め立て等の改変を受けたのか。
残念無念。これでは、古の佐久間隊や七本槍らの足跡も判らず、当時を想うことは困難であった。また、水質も良からず、湖北の山辺にひそむ、神秘の湖たる印象も損なわれた。
余呉湖岸を観察しつつ湖岸路を辿り、東岸の大岩・岩崎両山の麓を経て、余呉駅へと向かう。
途中、大岩山の西麓で、かつて攻城前の佐久間隊が、馬を湖水で冷やしていた城兵を切ったとされる「尾の呂が浜」を通る。しかし、やはりそこは「浜跡」と呼ぶべき公園的場所と化していた。
その後は写真の「川並放水路ゲート施設」が現れる。こちらは飯浦傍の施設とは逆に、余呉湖の水を東麓の余呉川に送るものであった。余呉川は琵琶湖に注ぐので、琵琶湖への放水路ともいえる。即ち、余呉湖をダムとして運用するための主要施設の一つであった。
ただ、長大な地下トンネルを擁しながら、小規模な施設であることを意外に思う。
余呉駅帰還で予定終了
良き湖水・湖岸戻りますよう
小さからぬ余呉湖岸を長歩きして漸く北岸に達する。その北にはまた人工河川・余呉川導水路があり、写真の施設が現れた。
余呉川上流の水の流入及び余呉湖水の流出を調整する「導水路下流高田川ゲート施設」で、その後ろには、朝みた江土川への流出入を調整する「江土閘門ゲート施設」もあった。
この様に徹底して湖水が管理されている様子を観察出来たが、水質をなんとかして欲しいと思う。せめて足を浸けたくなるようにしなくては人々の愛着は得られまい。浄化を図る深層曝気(ばっき)装置も導入されているようだが、効果は限定的であろう。
元は沢水が流入するのみの閉鎖湖だったのなら、北海道の火山湖同様、その透明度は極めて良好だったのではないか。そんな清澄な湖水が、湖岸の自然と共に、羽衣伝説もあるこの地に戻ってくることを切に願う。
さて、余呉湖北岸を離れると程なくして余呉駅に到着した。これにて今日の予定は無事終了に。初心者向けの道程ながら、この暑さのなか累積登坂は600m、距離は12kmを超えたので、そこそこの負荷となった。
今日は山も歩いたが麓歩きも多く、また歴史やその他の観察・考察も多くなった。因って内容的には「調査・研究」の記事種(カテゴリ)ともいえるが、サイトの機構的に複数の選択が出来ない。その為、また後で、必要な人が探しやすいような方法を考えたいと思う。
とまれ参加者の皆さん、お疲れ様でした。暑いなかでの漸くの開催に対する理解と協力に感謝!
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