
私的小山会開催
今日は午後から小山会(しょう・やまかい)の日。
友人の要望により実施する近所の低山行で、最近体力低下が著しいという本人曰く再生訓練的なものであり、軽山会とも呼べるものであった。
そんな私的な性質もあり、極少人数に声をかけたのみでの実行。場所は京滋境界辺りに位置する逢坂山。百人一首・蝉丸等の歌で知られる関所・峠傍の一峰である。
上掲写真 逢坂山山中に聳え立つ高圧線鉄塔。古来からの交通の要衝らしく、付近には近畿北部と南部を結ぶ電力線も複数通過している。なお、今日はカメラを忘れたため非力な電話機能により撮影を代替。因って色や焦点に問題ある画像も見られるが、何卒ご諒解を。

正午に峠近くの京阪大谷駅に集合。京津線という支線で、元は路面電車が走ったが、現在では途中の京都市地下鉄との共用区間の関係で長い編成の車輌が走っている。地名が示す通り大谷は京都市東郊の山科盆地から近江盆地に抜ける地峡的な場所。山間の狭小地にこの複線の他、国道1号線・旧東海道・名神高速道路が併走している。正に現代に続く交通の要衝である

前の写真では判り辛いが、線路の南(画像左)に交通量の多い国道1号線が2車線で併走している。旧東海道は北(画像右)にあるのだが、その道は下部で京阪線により途切れるため一旦踏切を渡り国道沿いを下る。これは、少し下方から山に入るため。駅前にある名物料理屋の鰻の香りを抜けて

国道1号線の歩道脇にはこの様に「車石」の展示があった。江戸期に三条から大津までの東海道に敷かれた荷車用の敷石である。石の真ん中にあるU字型の深い溝が車輪の軌道となる。当時日本の大動脈であり陸送が集中したこの区間の輸送を援ける為の先進的設備。史料によるとこの区間は湖西の木戸石(比良産)が用いられた筈

暫し国道沿いを下り、また踏切を渡り、今度は名神高速路の下を潜る

高速の下を潜るとこの様な未舗装の側道めいたものが。付近には野生の茶樹があり、鉄道や車道等の近代施設が押し寄せる前の茶園の跡を思わせた

乗っけの変更
本来は側道奥にある谷から逢坂山山頂に直接登る最短路を辿るつもりだったが、以前とは異なり、柵で塞がれていたため横の尾根から山頂へ続く稜線に上ることにした。
鉄塔の保守路らしい、落ち葉に埋もれた写真の道跡をゆく。そして、粘土質で滑りやすいそこを辿り、60m程の上部にある鉄塔下に出たが、そこから稜線までの道がなく、茨の藪となっていたため中止して下り、別路をゆくことにした。
稜線まであと300m程だったので私独りなら強行出来たが、既に足下の悪い登坂に参っていた友人には過酷なので取りやめた。また、前方の様子見の際に二頭の小さからぬ鹿と遭遇したことも判断に影響した。
殆ど人が入らず、かつ木の実等の餌が豊富な場所での熊との遭遇も考えたのである。乗っけから道程変更となったが、安全のため仕方なし。

また大谷駅に戻りそこから別路を採ることにしたが、折角なので途中の脇道も視察。これは先程と同じく高速裏の谷中で、大谷集落の墓地があった。そして付近にはまた野生化した茶樹が。嘗ての東海道沿い民家裏の畑地と接していたとみられる。貴重な原風景残る場所か

大谷に点在する近代・前近代の跡
大谷駅に戻り北に進む。遠回りにはなるが、友人の要望を容れ傾斜角の小さい道程を採ったためである。
途中、路傍に写真の如き石碑が。旧東海道本線逢坂山隧道西口跡である。名神建設により埋められた隧道口上部の石材が石碑下に見えていた。
この辺りの東海道本線は明治11年から建設が始まったが、隧道西側の跡地は大半が名神道と重なっているため、付近の前近代的景観は既にその頃大きく改変されたことになる。

大谷駅北に伸びる隠れ里のような山間宅地を北上し、その北辺に達すると、この様なグランドが現れた。大谷乗馬場で、話には聞いていたが、初めて接した。細長い住宅地共々、元は明治初期に開かれた歩兵第9連隊の射撃場跡で、戦後乗馬場となった特異な場所。ちょうど一組が一頭の馬の傍にいる横を過ぎ、道奥へ進んだ

乗馬場横の道は登坂となり山へと続く。古い官舎風の乗馬場建屋の後方にはこの様に小屋や段畑跡ある景観が現れた。恐らくは射撃場以前の前近代的原風景を残すものかと思われた

乗馬場横の道は未舗装となり、やがて山道と化した。路傍にはまた野生化した茶樹が見られた

静かで興味深い尾根道
程なくして峠に到着。逢坂山山頂に続く尾根道と大津市街へと下る道等の十字路である。
市街近くで、しかも日曜にもかかわらず誰も居らず(結局この日山中ですれ違ったのはこの先で会った一組二人のみ)。

十字路峠から山頂への登り道を進む。古くからの間道風情のある確りした山道であった。現れる様々な雑木や茸の様子も興味深い

山頂への尾根道は一旦西へ向かい、その後北上するので、西側の樹間には京都側の山科盆地が見える場所も現れた。天気が良くないが、降らないだけマシなので、良しとした

方向を北に変え逢坂山山頂へ続く尾根道。傾斜の緩い雑木林となっている

意外の山頂
そして山頂着。
昔縦走で通過したことがあるが、その時と同じく、三角点があるだけの、なだらかで見晴らしのない頂であった。

ところが、近くに意外の明るい場所があった

そこに立ち寄ると、琵琶湖は疎か近江盆地を一望できるような好眺望が開けていた。付近の樹々が伐採され、展望所として整備されたようである。ご丁寧に丸太の長椅子まであったので暫し休憩させてもらうことにした

推定戦国攻城台場
山頂の展望所で友人と景色を論じ合うなどして長く滞在し、その後、元来た道を下る。
写真の雑木林は登りの際に気になっていた道脇の大きな平坦頂。十字路峠の傍にあり、古い人為跡が疑われた。場所的に関ヶ原前哨戦の大津攻めに用いられた大筒の台場ではないかと、思われた。

平坦地の北を覗くとこの様に急段となっており、平坦地の要害性が窺われた。なお下の施設は兜大明神という神社で、周囲はその境内となっている

例の野獣出没?
推定西軍砲台跡を見学後、大谷には戻らず大津市街に下ることを決め、十字路峠からそこへの道を進む。
既にかなり市街寄りの筈だが、写真の通りまだ山中風情。

市街への急斜の道を下ると、途中の平場でこの様な物を目撃。なんと、熊檻である。自治体が設置したようで、遠隔監視しており、また危険なため接近禁止の旨が記されていた。山会前に公開出没図を調べ付近の未出没を確認していたが、状況が変わったのであろうか

謎の古関有力地・関寺
その後、山腹を巻く細い舗装路に下り、それを横断して石段の小径を下ると池に鯉泳ぐこの様な場所が。
古代著名の関門で、未だその場所が不明な逢坂関の最有力候補地とされる関寺(長安寺)である。未だ来たことがなかったので、是非見学したく思い、下山路をここに採った。

関寺境内より見えた大津市街。この様に、寺は逢坂山山裾の急斜上に在る

綺麗に整備された関寺境内を下方へと抜けゆく

関寺境内から市街に下り切る手前にはこの様な巨大な石塔も。牛塔(ぎゅうとう)と呼ばれる鎌倉期の石造宝塔で、高さ3.3mもあり、重要文化財に指定されている。まだまだ知らない宝物が近くにあるものである

関寺参道横から続く京阪京津線・上栄町駅へ小道
いきなり終着・急解散するも充実山行に
関寺の最後の石段を下ると、往路に利用した京阪線の踏切に出、最終目的地の上栄町駅も見えた。山からいきなり寺に入り、そして終着の駅に着くとは、中々珍しい立地・道程である。
そして、その駅にて解散となった。駅到着後すぐに列車が来たので最後は少々慌ただしくなったが、短時間ながら中々中身の濃い山行となったのは何より。
皆さん、お疲れ様でした!
