
再び奈良へ
先週、仕事の関係で奈良に行ったが、図らずも今日また行くこととなった。場所も、同じく奈良盆地南部の同じ場所。
ただ、今日は前回に比して現地での滞在が長くなるため、先にその近くで昼食休憩をとってから現地入りすることとなった。
上掲写真 奈良盆地南部のとある池畔でみた、名残りの紅葉とその水面(みなも)映し。

畝傍御陵前駅と同じ大和棟造ながら規模大きい橿原神宮前駅駅舎
初の橿原宮参観
朝、京都から向かったのは、前回の畝傍御陵(うねびごりょう)前駅とは異なり、その次駅の橿原神宮(かしはらじんぐう)前駅。京都市街と接続する近鉄線列車の終着駅である。
しかし、その駅もまた、御陵前駅同様の「大和棟(やまとむね)」風の急斜屋根をもつ駅舎であった。但し、終着及び大阪・吉野方面への分岐駅の為か、または橿原神宮最寄駅の為か、その規模は大きかった。

そして駅前通から畝傍山が覗くのも前回同様だったが、正面の鋭角的山容ではなく、後方(左)がなだらかに下がる側面の姿であった。今日は昼休みを利用してこの駅前通向こうの畝傍山麓にある橿原神宮を参観することにしていたのである

付近に住宅しかない御陵前駅と異なり、神宮前駅付近には参拝や地元の客用と思われる食堂や茶店があったが、平日の為か都合よい店の営業はなかった。その為そのまま神宮へと進み、写真の第一鳥居を潜り境内に入った。ここも初代帝を祀るに相応しい規模。誰もが明治神宮同等の特別感を覚えそうだが、見ての通りの閑散。ただ、周辺の土産店や広い駐車場等の存在を見れば、初詣等の参拝期での賑わいも想像出来た

先ずは境内にある深田池に向かい、その池畔の休憩所で池を眺めつつ携行食による昼食を行う。正午過ぎながら気温が低く、陽射しもなかったので施設の存在は有難い。食後、池を半周し中程の橋を渡って対岸の社殿方面と戻った。表題写真はその時の撮影。畝傍山南麓に水を湛える広大な水面は飛鳥時代築造という古代灌漑池跡でもある。今は野鳥の楽園でもあるらしく、実際に聞きなれない鳥の声が聞こえた

さて、池脇の石段を上ると南神門が見えた。池に行く前にも通った場所だが、改めてここの手水舎で清めを行い、神門を潜った。なお、右上の空に浮く矩形の影はご神威等ではなく、手水舎の屋根材である

神門を潜るとまた広場があり立派な外拝殿(げはいでん)が現れた。一般参拝者用の参拝施設である。右端には既に来年午(うま)年に対応した令和八年用の巨大絵馬が置かれていた。うーん、否応なしに年の瀬を想わずにはいられない

京人の低認知度と復活妄想
そして外拝殿に上がり、写真正面奥の内拝殿(ないはいでん)越しの本殿に参拝。撮影は社務所の許可を頂き行った。
流石は広大かつ厳かな場所。内拝殿上から千木(ちぎ。棟上交叉材)と鰹木(かつおぎ。同水平材)が覗く本殿は幕末建造の宮殿施設らしく、明治23(1890)年に橿原宮が創建された際に京都御所から移されたという。
以上、これにて橿原神宮初参拝を果たす。先週、偶々気づいた出先の神武陵を機に興味を得た神宮を、奇縁あって訪れることが出来た。
こういう機会がないとほぼ訪れない場所だったので良い体験となった。元来、橿原神宮の名は列車の行先に含まれるので近鉄線で奈良に行く京都人は必ず耳目にするが、実際行ったことがある人が少ない社といえた。
私も全くその通りで、社寺に興味はあっても奈良特有の古代遺構の範疇から外れるので興味がなく、誰を祀っているのかも知らなかった。
勿論、戦前育ちなら、遠足に最適の立地・性質を有す場所なので、多くの京人(きょうびと)も小時から半ば強制的にでも連れられ、知っていたかもしれない。
まあ、今は政教分離・観光優先の時代なのでこの有様だが、先週の神武陵の現況と合わせて色々考えさせられた。
ただ、ひょっとして近い将来ここがまた当初の役割を取り戻す日が訪れ、その為に神宮が完璧な姿を保持して待っているのではないか、という妄想も、ふと浮かんだ。
とまれ良い場所である。広大かつ風光明媚で施設も整っている。また、自然観察・散策にも向いており、背後の畝傍山への登山口すらあった。
是非またゆっくり巡りたいと思い、人にも勧められる場所だと感じた。

橿原宮神苑外れの苑地内に佇む「瑞鶴之碑」。碑文台座にその艦影が掲示されている
秘められた慰霊碑
終らぬ昭和と戦後
橿原宮参拝後、北神門を出て仕事場方向へ移動する。暫くは深い神苑の森が続き、畝傍山への登山口等も現れた。
そして、北参道から外れ、現場への短絡小径を進むと、やがて明るい苑地に出た。若桜友苑(わかざくらゆうえん)と名づけられたそこには、幾つかの戦没者慰霊碑があった。
中でも異彩を放っていたのが、写真の「瑞鶴之碑」。旧日本海軍の航空母艦の一つ、瑞鶴(ずいかく)とその戦没者を顕彰・慰霊する施設であった。
瑞鶴といえば、旧日本海軍の主力空母の一つで、かの真珠湾作戦に参加したのちに幾つもの激戦を生き抜いた為、幸運艦とも呼ばれていた艦。
しかし、昭和19(1944)年秋のレイテ湾突入戦の囮となり、米軍機の集中攻撃を受け、奮戦空しく遂に海没し、その命運は尽きた。
そして、事後の救助が困難だったこともあり、多くの死者を出し、正に碑文傍の大きな銅板にその膨大な名が刻まれることとなったのである。
ただ、悼むのみ――。
実は、事前に橿原宮参拝の予定を組む際に、偶然図上でその珍しい存在を発見して気になり、寄るつもりでいた。それは、私自身、同じ比島方面で親族をなくしていることも関係した。
参道から外れ、知る人ぞ知る存在と化している施設の姿に、先週の神武陵の如く、戦後の極端な世相を感じさせられた。
嘗て、この様な施設への憐憫・敬慕を示す人に対し、右翼や国粋主義者と誹謗した多くの声を思い出す。この場所がこのまま日陰の存在である限り、昭和も戦後も終らない思いに、改めてさせられたのであった。
そして、施設での黙祷後、また深い森を抜け市街地の仕事場へ戻った。今日も僅か1時間足らずの休息見聞となったが、実に感慨深きものとなった。
