2009年03月01日

大和平会

代表的環濠集落「稗田」へ向かう路傍に咲いていた梅花

初の「平会」開催

3月初日の日曜日。春を想わせる穏やかな晴天の下、山会ならぬ「平会(ひらかい)」が行われた。いつもの様に山へ行く集いではなく、平地での史跡巡り、即ち「街歩き」を目的とした試みであるが、身近な地の奥深さや魅力などを知ってもらおうという根本趣旨に変わりはない。これも、言わば「近所再発見」活動の一環であった。

その記念すべき初の平会の場所となったのが、お隣奈良県は郡山市(大和郡山)にある環濠集落。郡山までは、京都左京からなら、電車で1時間程の近さである。正にご近所。しかし、地域史、そして前近代的尺度からすれば、実は近所とは言い難い。その隔たりを超越し得る存在でもあるのが、今回の探査目標である環濠集落であった。

日本の集落原景の一つ環濠集落

郡山を含む奈良盆地各地に残る環濠集落は、古代の土地区画制度「条里制」が施された盆地内の散村が、中世集村化し防塞化されたもの。つまり、中世動乱と、続く戦国争乱の治安悪化を受けて誕生した防御集落の名残である。

この様な集落は、大和に限らず同じく戦乱に晒された日本各地に生じた。しかし、多くのそれは近世以降改変を受け原形を失ってしまう。よって、当時の姿を色濃く残す大和の環濠集落と接することは、我が国の集落原景の一つに触れること、そして今に続く集落構造や施設機能を知ることに繋がるのである。環濠集落が京都との距離を超越すると前述したのは正にこのことであった。

随分前から気になっていた、この大和の環濠集落。今回こういう形で有志共々訪れることが出来ることとなったのは誠に喜ばしい限り。個人的にも実に楽しみにしていた企画の始まりであった。


上掲写真:京に同じく底冷えが続く大和盆地の来春を喜ぶかの如く、一斉に花を咲かせる梅花。代表的環濠集落、稗田(ひえだ)集落へ向かう路傍にて。


旧大和郡山城下の寺院前を通り郊外の環濠集落を目指す平会一行

郡山城下を経て郊外へ

平会当日の朝、近鉄郡山駅に集合した参加者一行は、駅がある旧郡山城下の市街を通り、環濠集落がある郊外田園地帯へと向かった。環濠集落ほど歴史は古くないが、16世紀後半の織豊期を起源とする城下町の、情緒ある風情や由緒ある旧跡に早くも皆心囚われる。途中の和菓子店で早速菓子を買ったりするなどして、大人子供共々、和気藹々と進む。


旧大和郡山城下外れに現れた郡山遊郭の、木造三階建ての妓楼
城下町外れ辺りに現れた妓楼と見られる建造物。木造ながら、3階建ての豪壮さが迫力を醸す。以前訪ねた橋本のそれとは、また異なる印象を受けた。恐らくは橋本同様、戦前は大正・昭和初期頃のものと思われ、周囲に残る類似建造物共々、一つの遊郭街を構成していたとみられる

今は現役の気配はなく、一帯白日を浴びながらも、どこか廃滅都市のような生気ない一角をなしているのは橋本同様であった。何やら、町外れにて異界に迷い入(い)った心地である。


郡山から稗田集落間に広がる郊外風情と、撤去解体中の佐保川の旧路橋

旧遊郭を抜け城下が終ると、盆地縁に連なる山々や、その手前に広がる田圃が見渡せる郊外風情が現れた。今回は資料・案内用として、旧道との関りが解り易い100年前の地形図を持参したが、この辺りの状況は往時とあまり変わらない。

写真はそこから更に進んだ佐保川の景である。奈良盆地最大河川、大和川支流にあたる佐保(さほ)川は、この地域の主要河川で、環濠集落の成立や発展とも関係深い川。撮影地付近は、郡山から稗田(ひえだ)集落に入る為の古くからの渡河点であるが、旧図と同じ場所にあった写真の橋は、解体撤去の最中であった。長い役割を終え、近くに造られた新道橋にその座を明け渡したのである。細やかな歴史の変転……。奇しくもそんな場面に立ち会ってしまったようである。


石やコンクリートで護岸整備された稗田の環濠(外濠)

完全無欠の環濠集落「稗田」

佐保川の新道橋を渡り程なくして、最初の目的地稗田に着いた。環濠、即ち水濠に囲まれている集落の為、当然、先ず濠と遭遇することとなるが、正しく写真の水面がそれであった。

その幅は、撮影地の如き広い場所で10メートル近くはあろうか。この水濠が、縦横共に260メートル許かりの集落全周に存在し、堅くそれを守護している。その様は、航空写真や地図上でも明解で、多くの環濠集落の中でも一際存在感を放っているといえる。その為か、以前から地図帳等の方々で、その代表的存在として紹介されている。多くの集落が環濠を失いつつある中、この稗田は、未だ中世起源のそれを全周残す、完全無欠ともいえる存在なのであった。

歴史学的には応仁の乱以前である15世紀中頃の史料上にて既に城郭化が確認される集落だという。城主は不明だが、大和の有力者古市(ふるいち)氏と筒井氏の争奪の場にもなったようである。かくも貴重な場所であったが、1つだけ気になることがあった。それは、コンクリや石提による水濠整備が少々過剰に思われたところである。この様な処置では却って史跡や景観の保存という原則から乖離してしまうのではないか。まあこれも、稗田の貴重さがなさせた業なのであろうか。


稗田の旧庄屋家に繋がる旧村長宅旧家の長屋門

平会、突如旧家に招かれる

濠にかかる橋を渡って皆で集落内を探索していると1人の婦人から声をかけられた。婦人は自邸の立派な長屋門を開いて、一行に邸内見学を勧めてくれたのである。一同喜んで邸内へと進む。

そして綺麗な前庭ある伝統建築の屋敷の内外で、婦人とその夫である御当主Mさんからお話を伺った。M家は稗田の旧庄屋家とも繋がる旧家で、かつて村長も輩出したという家柄。近世からの居住が確認される家の人だけあって実に様々なことをご存知であった。一同暫し話に聞き入る。印象に残ったのは、かつては濠は疎か、周囲の河川や湿地により外界との行き来が難しかった話や、水害時には周囲が海の如く化すも微高地上にあった屋敷地は水没しなかった話である。

実に有意義で喜ばしい時を暫し過ごした。そして、Mさん夫妻のご厚情に深く謝して一行はそのお宅をあとにした。正に感謝感激……。写真はそのMさん宅門前にて、挨拶する参加者。


稗田集落の中心地にある樹々に囲まれた売太神社
稗田集落内にある売太神社(めたじんじゃ)

かの日本最古の史書『古事記』の編纂者、稗田阿礼(ひえだのあれ)が祭神というが、集落との関係は詳らかではない。集落の大きさの割に規模があり広いが、近年まで境内西方に内堀とみられる水濠が残存していたことから、集落内の主郭的要地であったことが推測されている。

軍団の集結や駐屯が可能な公共空間社寺が、軍事拠点とされていたのは環濠集落に限らぬ全国的現象である。この神社の様態は、正にその好例をなすものといえるのではなかろうか。


若槻集落北の耕地内に残る、水濠付き迫出し部分「出垣内」との関係がうかがえる段差と石垣

環濠集落研究に欠かせない存在「若槻」

稗田近くの路傍の芝地にて昼食を採ったあと、次の集落「若槻(わかつき)」へと向かう。稗田の東南500メートル程の場所で、古図によれば、多くの環濠集落同様、水田上に浮かぶ島の如き姿をしている。稗田とは耕地を介して隣接しているが、今はその間を多くの住宅が埋めている。

写真は、それら新興住宅街を抜けて若槻北辺に接したところ。「出垣内」と呼ばれる、集落北側から迫出した場所にある、石垣を有す段差である。出垣内は若槻が防塞化する際、最後に追加された水濠付の張出し部分であったことが史料から判明している。よって、この段差は、その施設地と、水濠その他の名残であった可能性もでる。

若槻は稗田と同じく15世紀に城塞化されたが、古代(平安末)からの史料が比較的多く残っている為、集落自体の形成過程が知れるという大変貴重な存在となっている。城主は不明だが、若槻氏や吉岡氏などの、地元や近隣の土豪が推定されているという。稗田ほど環濠痕跡が明瞭でなく、さしたる規模もない一見地味な存在だが、環濠集落研究には欠かせない集落である。


若槻環濠集落第2期目に造られた水濠跡とみられる溝と集落側微高地に沿う段差

歴史学者、渡辺澄夫氏による史料分析とその研究によれば、若槻環濠は3期の改変を経て成立したという。その2期目に当る、水濠が長方形の集落を囲うのみで、出垣内部分が未だない時代に造られた濠跡が、写真の溝である。今はコンクリで固められているが、左側の集落微高地に沿って段差が続く様は明瞭である。水面が殆どないため地図や上空写真からはその存在を確認し難いが、こうして現地へ出向くことで見定めることが出来た。


若槻集落西端の神社南に残る最古期の構築とみられる濠跡
若槻集落西端にある神社の南に残る濠跡

こちらは護岸処置がない野生的ともいえる姿であるため往時を偲ぶのに有利だが、逆に土砂堆積による消失の懸念が生じる。渡辺氏の研究に照らすと、建造第1期に施された若槻最古級の水濠である可能性も出る、実に貴重な箇所である。


菩提仙川の土手からみた石塁上に佇む番条集落北辺の建屋

水陸の要衝「番条」

若槻の南にある長閑な田園地帯を600メートル程西南へ進むと、次の集落「番条(ばんじょう)」が現れた。盆地内の河川としては珍しく水の澄む菩提仙川を北、そしてそれが合わさる佐保川を西に添えるが如くして南北に続く集落である。その大きさ、幅200、長さ710メートル。実に他を凌ぐ規模を誇る。川に接しながらも、嘗ては全周環濠が存在したという堅固さも特筆される。

ここもまた15世紀頃の建造とみられる。長禄3(1459)年に落城した際の被害記録から、この頃既にかなりの人数が収容出来る規模だったことが知れるという。集落には内堀により3つに区切られた跡があるので、連郭式構造と推定され、これもまた他の集落とは趣を異にする所となっている。城主は興福寺大乗院方の土豪番条氏。その「城館集落」、正に城と呼べる規模・構造である。

写真は正にその北方、菩提仙川の土手から集落北辺を眺めたところ。濠幅は狭くなってしまったようだが、石塁上に佇む建屋共々、その堅固さの一端たるものが感じられた。


番条の中谷酒造にて近世末建造の伝統建築「大和棟」の説明を受ける平会参加者
番条にある中谷酒造にて、近世末建造の伝統建築「大和棟」の説明を受ける参加者

番条集落を巡る最中、造酒屋を発見した。しかし、日曜の為か、営業の様子はない。私を含め、酒好きの参加者は残念がるが、固く閉じられた格式あるその長屋門に「新酒あります」の貼り紙が……。収まりがつかない参加者の1人が呼び鈴を鳴らすと、なんと人が現れ購入可能となった。お休みの日に恐縮だが、なんと応対の人は平会の趣旨を聞くと、更に集落や店の歴史、施設などの説明を始めてくれた。稗田のMさんに同じく、その意識の高さたるにただ驚かされる。

店の名は中谷酒造。応対の人は、そこのご当主であった。ご当主によると、この店は江戸期に酒造株を買い受けて創業されたという。清酒発祥の地とされる菩提仙川上流域と古代からの主要路「下つ道」に近く、また佐保川水運を利用して大阪方面とも取引出来るという地の利を活かして大いに栄えたらしい。この話を聞き、他に勝る番条の規模や、また今も大きな家が多いという個人的な謎が解明された。そうである、番条は水陸の交通要衝だったのである。

いやあ、謎も解け地酒も手に入った。地の人の配慮にまたしても感謝感激である。購入したの地酒の楽しみも倍増する心地であった。


番条集落南部(南郭)にある西出入口より、防御性を高めるため乱雑に配置されたとみられる集落家屋を見る
番条集落南部(南郭)にある西出入口より集落側を見る

立派な家々による家並が続く集落状況に反し、その通路は狭く、見通しが悪い。また、方々で屈曲やT字路と遭遇する。他の環濠集落とも共通するこれらの特徴は、軍略効果を第一義になされたとされる。即ち、敵の進軍阻止や迎撃便宜の為である。これらの特徴こそ、正に防御集落としての環濠集落の存在を裏付けるものとなっている。


番条集落西側を流れる佐保川西岸耕地只中に続く古い土塁
番条西側を流れる佐保川西岸耕地只中に続く古塁(土塁)線

この区間の佐保川は、近世に行われた改修以前は、今より少し西側を流れていたという。よってこの土塁は、その時の西岸堤防であった可能性がでる。今でもこれに沿う行政界が存在することからも、それが補強されよう。ひょっとして、中世は環濠集落成立期とも関るものか――。現代では正に「無用の長物」であるこのようなものが、未だに残存しているのも興味深い。


筒井集落の中心で本丸跡と目される「シロ」小字内の段差

覇者の城「筒井」

番条から佐保川を渡ってまた南下する。そして800メートル程歩いたところに本日最後の目的地、筒井が現れた。有力土豪の1つで、後に大和一国制覇を果たすこととなる筒井氏の根拠地跡である。かの明智光秀の盟友「筒井順慶」や、石田光成の重臣「島左近」縁の地といえば馴染を感じる人も多いのではなかろうか。

「筒井館」や「平城」とも呼ばれた筒井は、永享元(1429)年には防塞として存在が確認されるという。有力勢力の居城、そして地域の要衝として発展し、織田信長に帰順した順慶が大和一国を収めた際は、その地位に相応しい規模に改修されたが、間もなく筒井氏の郡山城移転に伴い破却された。その為、古く、規模も大きなものであった可能性が窺われるにも拘らず、これまで見た集落の中では最も環濠痕跡や集落原形が判じ難いものとなっていた。

写真は、集落中心にある筒井氏の居館跡とされる場所。城で言えば本丸に相当する。古くから「シロ」と呼ばれる約150メートル四方の小字(こあざ)地名内にある、高さ1、2メートル程の段状地で、周囲には内堀跡と見られる湿地が存在する。写真の通り、確かに段差があることは判るが、石材等は破却時に郡山へ運ばれたらしいので、言われなければ、それとは感じ難い。

ただ、駅に近いため、都市化している周囲に比して、ここだけ畑地が残る様は少々異様に感じられた。偶々近くの神社に親戚がいる参加者の1人によれば、どうやら、近年までこの「シロ」という土地に対する何らかの禁忌があったらしい。


筒井居館跡とされる字「シロ」の西南に続く古道と湿地
筒井居館跡、字「シロ」西南部

西北部である前の写真とは異なり、西南側には内堀跡と思われる湿地が残っていた。画面大半を占める水面がそれで、右端にある陸が段状地の南面、即ち本丸推定地西南辺となっている。

マンションが見える奥側近くに筒井駅があるが、それにも拘らず、この様な中途半端に浅い水場がこれまで他に転用されずに残ったことも謎である。ところで、駅と居館跡の間には筒井時代に「市町」があったとされる街道が通るが、段状地は、写真右側に見える小道と共にそこへと繋がる。ひょっとして、ここに城館への出入口、「城戸」でもあったのであろうか。その、「シロ」西端辺りで、ちょうど発掘調査が行われていたが、果たして結果は如何なものであろう。


夕景の近鉄筒井駅ホームより東南の吉野・大峰山方面を望む
夕景の近鉄筒井駅ホームより、東南は吉野・大峰山方面を望む

そして、集落南側にある古くからの町並み等を見学した後、一行は筒井駅に到着した。個人的にはもう少し探査したかったが、日も傾き、さすがに風も冷たくなってきたので、これで終了とした。皆、早速列車に乗り込む。そして車中にて、帰宅組と別用組、京都三条にての打上げ組に分かれ、それぞれの日を終えたのであった。

初の平会――。少々マニアックすぎる嫌いもあったが、中々充実した1日ではなかったかと自賛する。皆さんお疲れ様……。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 平会
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/27415436
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック