
調査核心地に入域ならず。代替調査へ
朝8時に宿の敷地内にある小さな旅行社を訪ねる。昨午前に予約したチャーター車との待合せの為である。
わざわざ旅行社を利用したのは、今回の調査核心地である「馬迷兎」方面への車輌用意の為であった。衛星画像の分析により、漢長城最西遺構が残るこの地区の更に西に未確認の長城らしきものを発見したが、その真偽を確かめんとしたのである。
しかし、道無き道を進むことが出来る車輌の手配は叶ったが、政府の入域制限によりそこへの調査は叶わなくなった。因って、予定を変更し、他の遺構の再確認等に充てることとなったのである。行先は、現在観光地化されている陽関や玉門関の関係遺址等であった。
結局、少し遅れた8時半頃にワンボックスの車が現れそれに乗り出発した。写真は陽関関係遺址へ向かう途上に立寄った、土塁遺構。党河から南湖集落東辺までの約10kmに存在し、100年前の英国スタイン隊の調査図にも描かれている。甘粛省文物局関係者の著書等で漢代遺構と判定されているが、典型的なそれとは造りが違うので注意が必要な存在であった。今回実見したところでは、やはり砂礫のみで成されているようで、版築や葦補強といった古代工法使用の確認は出来なかった。
しかし、現地状況観察から、軍略的には非常に的を得た設置であることが分かった。このことは非常に重要である。

土塁南方戈壁に散在する盛り土状の古墓
唐代のものらしく「山水溝古墓遺址」として文化財指定を受けているようである。しかし、対して土塁は破壊が進んでいる。公路に近く、光ファイバーや電線が傍らに埋設され、存続が危ぶまれる。

土塁の西端、即ち南湖集落手前にある烽火台遺址。通称「北工敦(本来は土扁付)」、漢代のものとされている遺構である。土塁がこれと良く対応していることも、その重要性を裏付けるものである。付近には、関連施設の跡らしい土盛が幾つか見られた。因みに烽火台は後代の補修利用の可能性が窺われた

次は南湖集落北辺にある「敦敦(本来は土扁付)山」烽燧へ。現在陽関博物館として著名観光地となっている場所である。15年程前に1度来たことがあるのだが、遺構状況の再確認の為、訪れることにした。写真は、以前はなかった立派な表門。入場料も実に立派なものに(笑)。

赤い礫山上に聳える敦敦山烽燧。すぐに登れそうだが、これがなかなか……

敦敦山烽燧。典型的な漢代建築様式。こんな吹き曝しの中で、よく残存できたものである。ところで、よくこの烽燧の写真を以て陽関遺址と方々で紹介されているが、これはあくまで烽火台であり、関址ではないことに注意されたい

敦敦山より北方を見る。彼方に雪を戴いた5000m超の高峰、アルティン・タグ(阿爾金山)が見える

疏勒河沿岸の長城本線遺構群へ
次は北上し、疏勒河沿岸に残存する長城本線遺構群の見学である。ここも8年前に行ったことがあるのだが、同様に再見学することにした。
写真はその途中、入場料徴収門と玉門関有力推定地の中間にあった烽火台。その造りから漢代のものとみられる。恐らくは、スタイン編号T14a燧の、1つ南のものか。ここも、付近に付属施設の痕跡が多数見られた。

玉門関有力推定地から西へ3km程行った場所にある漢長城本線遺址。残高3m程で長大に続く。正に圧巻

長城接写。粘土や黄土が採取し難いこの地の長城は、砂礫と葦を交互に積み塩類含有水で固めるという、世界的に珍しい工法が採られている。線状に見えるのは、各段を隔てる敷物状葦の断面である

漢長城至近のD23号燧(甘粛省編号)付近にある「積薪」
用途は地上で焚く狼煙用材。葦や紅柳等を漆喰で固めたもので、大きさは2m四方。西からの強い卓越風の作用か、東側へ倒れている。

古代大型建造物「大方盤遺址」
漢長城の次は、そこから18km程東にある「大方盤遺址」へ。別名「河倉城」(この呼称は誤りの可能性が高い)とも呼ばれる漢代の軍糧庫跡とみられている大型遺址である。以前は未舗装で砂埃に苦しめられたが、今は舗装されたおかげで苦も無く短時間で着いた。
写真の遺構が正にそれである。全長130m強、全幅18mで、外墻遺構の存在から、同様のものが少なくともあと1つはあったと推定されている。内部は3室に区切られ、壁面にある菱形の大穴は通風口ではないかとみられている。今年春、東京で行った「胡羌隔絶展」の案内状にある遺構と同じものである。

大方盤専用の特殊用途と見られている烽燧の丘より大方盤を見る。大方盤と、その後方の北山山脈の間に疏勒河河床が存在する
河岸にあり、舟運利用の可能性が指摘されている大方盤であるが、実見してみると本流河床より、意外に高い位置にあることがわかった。春の融雪増水期に、一気に軍糧を運び込んだのであろうか。これも、実見ならではの貴重な情報収穫である。

小方盤遺址
そして最後は玉門関有力推定地「小方盤遺址」へ。長城側に戻った場所にあり、当然以前訪れたことがある。今回はこの地に残る長城の南北支線痕跡を実見するという目的があった。
因みに、ここも敦敦山烽燧同様、写真の建屋が恰も古代関門「玉門関」の如く紹介されている。しかし、この建屋も軍・事務用の砦跡にすぎない可能性が高い。観光振興には効果があるだろうが、どこかの国の旅館みたいに、誤解が既成事実化しないか心配である。

小方盤南方に残存する漢長城跡。低い土盛と化しているが、断面等の観察から間違いないと思われる。ここから北の小方盤方向は、観光道路や駐車場の為に不明瞭となっている。10年程前まで明瞭であった小方盤西側の長城址が「観光客の踏み荒らし」の為、消滅したとするK大学F先生の報告は残念ながら事実であった

帰路、観光施設「敦煌古城」とその背後の「鳴沙山」を見る
古城は日中合作映画「敦煌」の撮影用として1980年代に造られたセットを施設化したもの。内部には宋代の街が復原されているそうだ。それにしても、砂だけで叡山程の高さを持つ鳴沙山が、美しくも恐ろしいばかり……。

市内に帰着後、運転手に連れられ、市場内の食堂で食事。名物の驢馬肉や麺を食した。写真はその驢馬肉。焼豚風に調理してあり、手前にある、黒酢と豆板醤に浸けて味わう。感想は、可も無く、不可も無くといったところか
