2009年10月22日

敦煌調査再開

タクシー車内から見た、中国西部敦煌近郊集落「南湖」へ続く荒漠の一本道

南湖調査最終日

休日として過ごした昨日から明けた今日22日、郊外調査を再開した。朝、宿近くの町角で声を掛けてきたタクシーに乗って早速出発。この国では、この様にタクシー側から声を掛けてくることは珍しくない。

行先は、今回の調査重点地区と定めていた南湖。3度目の今日は、最終日として仕上げ的な1日にするつもりであった。


敦煌近郊の南湖集落東郊の砂漠中にある唐代の県城「寿昌城」と漢代の県城「龍勒県城」の複合遺跡

砂に埋もれた廃市、龍勒県城・寿昌城址

最初に訪れたのは、南湖集落東郊にある寿昌城址。唐代の県城(地方小都市)遺址とされていたが、近年の調査で、漢の龍勒県城址を元にして建造された複合遺址であることが判明した。遺構自体は以前から知られていたが、珍しい古代県城遺址でもあるので視察することにした。

写真は、葡萄畑と防砂林を抜け漸く出会ったその現場。南湖「寿昌村」の奥、土面の農道を進む、非常に解り難い場所。県城防壁の残骸の列が流砂から顔を出す。正に、砂に埋もれた廃市。


敦煌近郊南湖集落東郊にある唐代の「寿昌城」と漢代の「龍勒県城」の複合遺址に残る、奇怪な形に風化した廃墟
風化により奇怪な姿を晒す県城残址。かなりの残高があり、付近にはその来歴通り、漢代を初めとする様々な様式の陶片が散乱していた


敦煌近郊南湖集落東郊にある唐代の「寿昌城」と漢代の「龍勒県城」の複合遺址に、近年設けられた防砂設備
これは近年の防砂設備。遺構どころか、現集落すら埋没の危険を抱えている。正に砂との闘い

タクシーとはここにて別れ、徒歩で他所を巡るつもりであったが、運転手の進言により、1日借り切ることとした。少々高くつくが、時間を有効に使え、前回の如く帰路の便で失敗する心配もない。運転手も中々配慮のきく、信頼できる人柄である。


敦煌近郊南湖集落郊外にある「古董灘」の戈壁漠上で見つけた溝跡

古董灘最終確認。陽関何処に

寿昌城址を一回りした後、古董灘に向かった。引き続き塞墻(長城)を探す為である。既に昼となっていたので、運転手に昼食代りのナンを渡して待機を頼み、1人また広大な砂礫に挑んだ。

写真はその際遭遇した溝跡。水路跡か、時代は不詳だが、幾筋か見られた。甘粛省文物局の報告では、この近辺で耕地跡が検出されているという。場合によれば、その関連遺構の可能性も。


敦煌近郊南湖集落郊外にある「古董灘」の古い墓跡らしき場所からのぞく、繊細な臍加工のある板
古い墓跡らしき場所からのぞく板。棺用か。乾き割れたものであるが、接合用の臍加工に、繊細な技が見られた


漢代の「陽関」有力推定地である敦煌近郊南湖集落郊外の河道「西土溝」東岸北側と深い流砂
西土溝東岸を北へ。深い流砂に阻まれる

この辺りは、著名だがその存在に謎が多い古代関門「陽関」の有力推定地。私もその説を支持している。唐代の地誌に基壇が残存していたことが記されていることから、必ず遺構が存在するとみている。文物局もこの流砂中に於ける発見を期待しているが、作業困難の為、未だ調査の手は及んでいないという。

結局、目当ての塞墻址は発見出来ず。破壊されたのか、埋もれたのか、まだ判別はつけ難いが、色々と再考する必要が生じたことは確かである。


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」西端から南に伸びる土道と、広大な湿地跡草原

「二道風墻」「元台子」再捜索

2時間程の探索後、ポプラの木陰で駐車して待つ司機(運転手)の元へ戻り、南方は「渥わ(三水に土2つ)池」方面へ向かった。塞墻址とみられる「二道風墻」や、烽燧址とされる「元台子」を南方深くから再捜索したかったからである。

写真はその途上、「渥わ池」西端から南に伸びる土道を、車輌にて進む様子である。一面のススキ(?)野原で、路面に白色の塩類集積を見ることから広大な湿地跡とみられる。古代「渥わ水」の痕跡か。地図上の記号観察では判らなかった実態である。


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」南方湿地跡で遭遇した水質の良い水源湧水池
「渥わ池」後方(南方)湿地跡にて遭遇した水質良好の水源湧水池。遠方遥かなるアルティンタグ(阿爾金山)か、党河の伏流によるものとみられる。まさに、南湖集落「命の水」


敦煌近郊南湖集落南郊の「渥わ池」南方湿地跡で遭遇した牧民の仮小屋?

道は湧水池辺りで途絶え始めたので、下車し、また1人にて南へ進む。途中、前方に何か建屋が見えると思えば、写真の如き小屋であった。牧民の仮小屋か。炊事か何かの煙が僅かに上がっていた。そういえば、先程逃げ去る羊の小群とも遭遇していた。

牧民住居の場合、近くに牧羊犬が放たれている可能性が高い。凶暴・排他的なそれによる攻撃や、のちの狂犬病の厄介が脳裏に浮かぶ。あまり近づかぬようにして慎重に通過。

そして、途中流砂を越え、数km程南進して一面が見渡せる場所に着いた。単眼鏡で探るも遺構らしきものの確認は叶わなかったが、湿地・古董灘と南方山地の間に、通行容易な裾野地が東西に続いていることが判った。このことは、考察・再調査に於ける重要な材料となる。


敦煌近郊の「党河ダム」近辺に残存する漢代長城(塞墻)遺構とされる土塁

「党河ダム」近辺、塞墻東段と山闕烽

同じく2時間程の探索の後、南湖から撤収した。そして、敦煌への帰路、最後の調査地「党河ダム」近辺で、その辺りに残存することが衛星画像で確認された塞墻址を探った。

写真は敦煌と西蔵(チベット)を結ぶ公路東側にて確認した塞墻址。先日調査した南湖〜党河間を結ぶ土盛の東段にあたる。先日確認した時は東段部分の発見は叶わず、誤認を疑ったが、今日その確かな存在が認められた。少々嬉しい。なお、残高等の状況は西段と同じであった。同じものであることに違いあるまい。


敦煌近郊の「党河ダム」近く残存する漢代長城(塞墻)遺構とされる土塁の、南方山上中央に見えた「山闕烽」
塞墻から南方傍にある山塊を見る

稜線に立つ3つの建屋の内、中央のものが、古い史料にも記載される「山闕烽」であることが確認出来た。後代の烽燧らしいが、敦煌と南湖を結ぶ通路の屈曲点、そして古代の「北工敦(本来は土扁付)烽燧」等とよく対応している為、見過ごせない存在である。


飛天で飾られた「党河水庫」の文字がある、敦煌近郊の「党河ダム」の堰堤

軍略上の必要から、塞墻は必ず党河河岸まで達していた筈だと推定していた為、そこまで車を走らせた。しかし、辺りは既にダムや軍施設に因って地形すら改変されおり、その推定を確かにするものとは出会えなかった。写真はその現場、山側よりダムを見たもの。飛天で飾られた「党河水庫」の文字が見える。

やがて、傾いた陽は、また広大無辺の戈壁へと沈んでいった。我々は車窓横にそれを感じながら、遠く点り始めた敦煌の灯りを目指す。調査はこれにて終了である。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 調査・研究
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