2009年10月23日
敦煌東方視察
予備日。安西方面へ
昨日を以て今回予定していた調査は終了した。入域制限等の関係で予定地全てを踏査出来ず、また実施地でも遺構発見が叶わなかった所も有った為、完全を収めることは成らなかったが、実見に因る状況取得等々、少なからぬ成果を得た。また、最新の現地情報や人脈の獲得といった面でも、好ましいものが得られた。これらの成果を元に、また次回に挑みたい。
さて、予備日となった今日は、以前より希望していた、東方は安西(瓜州)方面にある漢代遺構の見学に充てることとした。朝準備をし、8時半(北京時間。日本の1時間遅れ)頃、昨日の司機(運転手)の携帯へ電話を掛けてみた。しかし、「空番号」との自動音声が……。番号が印刷された名刺をよく見ると、番号の下にインクが切れたボールペンで成された数列が。こちらへ掛けてみて漸く繋がったのであった。
早速、宿前に現れた司機は、山岳用磁針を差し出した。昨日、私が車内に落としたもので、8時頃、宿まで届けに来たが、部屋番号が判らなかった為、渡せずにいたという。実直なその心掛けに感謝し、早速遺構見学の話を纏め、車に乗り込む。途中、電話番号の話をすると、渡した名刺が古いものであることに気づき、新しいものと交換してくれた。あの書込みに気づかなければ、会えないところであった。縁があった、ということか。
写真は、出発前に市内燃料スタンドにて補給するチャーター・タクシー。傍らの人物は、我が司機のW氏である。細いパイプからボンネット内に送り込まれるのはガス燃料。後方に停車する公共ミニバス等にも見られる通り、ガスや電力利用の車輌が急速に普及しているようである。
朝日を追い、安敦公路を東へ
相変わらずの戈壁中の一本道である。敦煌郊外の敦煌空港や新駅の辺りまでは、車線が多く、高速道路の如き体をなしている。交通量は少ないが、路面状態等は良好である。
古代辺境迎撃基地「六工古城」
今日の見学場所は2箇所。何れも公路沿いにあり、先ずは近い場所にある「懸泉置遺構」からの予定であったが、場所がわからなかったため先へ進み、瓜州郊外にある2つ目の「六工古城」へ向かった。
それは、瓜州の緑が地平線に見え始めて暫し後に現れた。だが、公路から見えるそれに、中々近づけない。大規模な遺構のため遠くに在りながら近くに見えたこともあるが、そこへと向かう脇道の発見に時間が掛かってしまったからである。途中、司機が何度も土地人に道を聞き、漸く灌漑水路沿いの土道を進んで着くことが出来た。
写真は、荒野に佇む六工古城全貌。全長500m程もある。手前に立つ木棒の右側が、最初に造られた漢代の城障部分。左側が三国期の魏が建造したとされる県城(地方小都市)址である。
複合遺跡である六工古城の、古く小さい方、即ち漢代の遺址
小さいといっても、停車する車と比較してもらえば解ると思うが、一辺約90m、防壁残高も約10mという威容を誇る。当時ここに駐屯し、一帯の迎撃任務にあたった「宜禾都尉」の治所、「昆侖障」に比定されているという貴重な遺構である。
「昆侖障」比定地の南壁に設けられていた出入口跡
車1台幅程の道が、L字に屈曲しつつ内部に通じる。左右には厚さ数m、見上げるばかりの防壁が設けられている。北を走る長城本線から6kmも離れた内地であるにも拘らず、今も残るこの堅固さ。よく見れば、周囲にも更なる外郭らしき微高地の連続が見られた。当時の、辺境前線に於ける緊迫ぶりが窺える。
昆侖障比定地(手前側防壁内)より魏晋県城址(向こう側防壁内)を見る。南方である背後の山麓に沿って安敦公路が通じるが、古代の古道もそこにあった。長城と交通路の両方を押さえられる中々の好立地
魏晋県城の北防壁。角部分に角敦(正しくは土扁付)、中ほどに「馬面」と呼ばれる張出しが設けられている。防壁の面積及び攻撃角を増し、守備を易くする為の設計である
息を呑む凄み。県城廃址
小城見学の後、隣接する大城、即ち魏晋県城址に入った。東西280、南北360mの広大に残墻が屹立する。正に、息を呑むばかりの光景――。一体どれ程の労力が費やされたのであろうか……。只々その凄みに打たれ、暫し呆然と佇む。
防壁以外の建屋は現存していないが、周囲広範に、耕地や墓所等の生活遺構が発見されているようである。また、城外に散乱する土器片等の遺物数も相当なものであった。しかし、それにしては、付近は全くの無人で、管理棟や入場制御施設等の存在もない。公路に近く、著名観光市敦煌から日帰りできる立地にありながら、これ程の遺構がどうして施設化されないのであろうか。
「懸泉置」何処へ
さて、古城の見学を終え、車内にて昼寝する司機の元へと戻り、次なる目的地「懸泉置遺址」へと向かう。ところが、帰り道にある筈のそれが見つからない。公路沿いの「甜水井」なる場所にあるというのだが、戈壁只中のそこまで行っても見当たらない。
公路関係の施設か、そこの小屋の人々に司機が訊ねても知らないようである。司機は携帯電話で敦煌の知人に連絡し再度その所在を訊くが、やはりその辺りに違いないという。確かに、手持ちの旅行地図にも甜水井から1.5km南へ入った所にあることが記されている。どうやら、山際にある遺構への通路の問題のようである。しかし、戈壁の一本道たるその近辺に分岐の場所はなく、その在り処を示した標識の如きも無い。
とにかく付近に存在する脇道らしきものを探す。写真はその内の1つ、戈壁上の轍を追って山側へ進む様子である。道とは呼び難い単なる河原跡のような場所で、起伏が多く、当然速度は出ない。
轍道を進むと、やがて不毛山地内の谷筋となった。更に進んだが、程なくして分水界の断崖のような場所に出てこれ以上進めなくなった。写真はそこにあった泉の樹々。
一体、遺址はどこにあるのであろうか。本日最後の見学地で、時間的には余裕だった筈が、既に午後を大きく過ぎ、焦りが生じ始めた。とにかく公路へ戻って再度探すしかない。しかし、他にはもう道らしきものは無かった筈……。
ため息交じりに公路への後退を続けている時、谷の出口辺りで轍数条分の分岐があることに気づいた。念の為、そちらも辿ってみると、なんと、程なくして遺構の碑を見つけることが出来た。司機共々喜んだのは言うまでもない。
山裾に存在する懸泉置遺址。地表に建造物の残存はなく、写真に見る如く、起伏状、そして地下に遺構が存在する
懸泉置は前漢時代(BC1世紀頃)に古道沿いのこの地に設けられた郵駅站。いわば、古代の通信施設・基地である。その名が後世に伝わらなかった為、長期間存在を知られていなかったが、1987年に発見され、広く知られることとなった。「懸泉」とは、その近くにあった泉の名(恐らくは先程見た山奥のもの。現名「吊吊泉」)から採られた地名だという。
地表に殆ど見るべきものがない地味な遺構ながら、大量の木簡や遺物出土を齎した為、学術的には大変重要な存在となっている。特に、壁に書かれた皇帝詔書がそのまま発見されたことは大きな成果であった。また、地下に眠る遺構自体も、古代の大郵駅址として高い史料価値を有している。
遺址後方の山に登って周囲も見てみる。東方近くの山上に、煙突の如き突起を備える烽燧を確認。出土簡に記された漢代の「山上亭」(文物局呼称:弐師泉烽燧か)址に比定されているものであろう。懸泉置遺址からも観察出来、更に西方、公路沿いの烽燧とも対応している
懸泉置遺址全容
写真中程、車が停車する辺りに地色が変わる場所があるが、それより下方、山際までの小起伏が連続する場所が遺構である。総面積は約2500平方m。郵駅とはいえ、幾重もの防壁や烽燧を備えた要塞的建築群であった。
盗掘?
露出していた遺構断面。漢代、そしてこの地域特有の、葦入り建築構造が窺える。灰や炭の存在は、敷地内の厩舎付近にて火災があったとの調査報告を裏付けるものである。
この遺構は、調査後埋め戻されたことが報告に見えるが、一部地下に至る大穴が開いたままであることを確認した。ひょっとすると、盗掘されているのではないか。早急な対策を望むところである。
祝敦煌全程終了。しかし……
さて、懸泉置見学が終了し、敦煌への帰路につく。これにて敦煌での全予定は終了である。明日より日本への撤収を開始する。途中、友人宅等を訪ねながらである。
しかし、今日既にその旅程に陰が差してしまった。遺構からの帰り、新しい敦煌駅に寄ってもらい、明晩の切符を買おうとしたが、寝台票が手に入らず、座席票しか買えなかったのである。不眠不休が必至の夜行座席車移動――。しかも目的地まで計19時間!2度とやるまいと思っていたが、そうはいかなかった。「仕方ない」とは言い聞かせつつも、構外で待つ司機と顔を合わせるなり溜息一つ……。
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