2009年10月26日
親愛的朋友
朝訪れて落ち着かず。斯くも便利な世に
敦煌出発2日目の夜に漸く天水旧市に到着し、1500kmの移動を完了した翌朝。独り眠る宿の窓辺に、薄い陽光が射し始めた。疲れを取る為、そして睡眠を補う為、少々遅めの始動としたが、逢えなかった友や、今夜の「無座行」の事が頭を過り、早くも落ち着かない。備付けの電熱給水器で湯を沸かし、上海のG君に貰った龍井茶のみを口にし、早々にネットカフェへ向かう。
朝の為が、昨晩見つけておいた雑居ビル上階の店に客は少なく、ただ無人・無数のパソコンが光量乏しいフロア一面に広がる。敦煌とは違い、ここでは身分証の提示はなかった。保証金込みの5元(75円)を払い早速1台を専有すると、次に立寄る予定の友人から連絡が入った。同時文字通信、即ちチャット利用にて、である。それによると、依頼していた次の切符が取れなかったという。次の切符とは、即ち飛行機の発地である北京までのもの。それが取れないとなると、帰国便及び滞在許可期限に間に合わなくなってしまう。
驚いて問うと、希望列車が貸切等になっていて、購入不能と化していたという。以前より長距離切符は取り難かったが、最近その状況に拍車が掛かっているようである。要は移動する人の量に対し列車本数が追い着いていない為である。だが、続けて夜中3時発の1便のみに空があることも教えてくれた。その便は昼頃北京に着くものなので遅延が生じると危険となるが、最早選択の余地が無い為、その手配を依頼した。友人は暫くして購入の完了を報告。なんと、パソコン際にて駅勤務の友人と携帯電話で話しており、その場で押さえたらしい。嗚呼、一先ずは安堵、感謝であった!
その後、先にメールしておいた当地の友人も迎えに来てくれた。いやはや、斯くも便利な世になったものである。
上掲写真: 友人に案内された場所の1つ、馬包(正しくは足扁付)泉公園にて。古代からの由緒を持つ池泉「馬包泉」が、広大な中華庭園として整備され、公開されている。背後に黄土耕地が窺えるのが当地らしい。
当地の友人に再会後、先ず連れられた腹ごしらえ現場にて。もはや蘭州は疎か、甘粛全省的名物の観さえある「蘭州牛肉面」である。薄味のスープ内に手打麺が浸され、その上に焼豚風牛肉や香菜等がまぶされる。本当は餃子屋に連れて行きたかったようであるが、見つからない為の代りに……。入口番台に座す、大きな黒水晶眼鏡の回族店主の姿も、その西北風味を盛り上げる
「あっ、タクシーが池に!」の如き様の「馬包泉」遊覧小船。いつまで見ても目が慣れない、落ち着かない様(さま)に見えるのは私だけであろうか。だが、斯く言う私も、この後これに乗らされることとなる(笑)
何にも替え難い再会の喜び
友人は、私の急な連絡にも拘らず、わざわざ休暇をとって応対してくれた。そして、今晩の列車に便利な、新市街「北道」の各所を案内してくれたのである。感謝、感謝の嬉しい応対であった。
夕闇迫る天水北道地区の一景
各所を巡りながら、昔を語り、今を告げ合う。私の乏しい会話力では限界があるので、込み入る所は筆を挿みながら、である。友人はこの国で最も付合いの古い人であったが、もう随分長い間逢っていなかった。為か、これまでで最も深く心情を吐露する機会となった。互いに歳を重ねた、ということでもあろうか。当然、良い話ばかりで時間が満たされる、ということにはならず、寧ろ互いに心配が増えることにもなった。しかし、万里の友とこうして、そして生きて再会することが出来たことは、何にも替え難い喜びであった。
やがて、そんな楽しくも切ない時は、はや終りを迎え始めた。列車の時間が迫ってきていたからである。あまりの滞在時間の少なさを友に詰られつつ、ただ平謝りを繰返し夕食場所へと向かう。不満は御尤もである。だが、実は諸事熟考した上でのこの日程であった。友よ、どうか許されよ……。
夕食は友の友人とその同僚の人も交えて駅近くの料理店にて採ることとなった。辛さで有名な四川料理「火鍋」の店である。写真はそこで出された火鍋。最初に用意された濃タレで煮込まれた料理が無くなり、湯を足して正に「鍋」になったところである。注文した好みの具を投じて食すが、思った程辛くなく、旨かった。店は開店したばかりという高級店。しかし、多くの席待ちが生じる程の盛況振りであった。どこかの国の、バブル直前の焼肉店を彷彿させる羨ましい光景であった。
敢えない別れ。親愛なる友に平安あれ
食後、友の友人の仕事場に預けていた荷物を取り、駅へと向かった。夕食仲間全員での見送り付である。苦手な場面の到来である。次は何時来れるのか等の質問にも、心揺すられる。
予定の列車が30分程の遅れを出したので比較的駅ではゆっくりすることが出来た。皆私の無座票に同情すること頻り。だが列車が到着すると状況は一変した。乗車車輌が最後部にあった為である。荷運びを手伝いつつ、ホームまで同行してくれた皆共々、そこへと走る。遅れを出した列車はすぐにでも発車する恐れがあった為である。そして、もはや間に合わず、手前車輌からの乗車を許された為、そこにて別れとなった。
感傷の余裕も無く走り、扉内に押し込まれてあとは硝子越しに見遣ること数秒であった。
しかし、これで良かったのかもしれない。元来、私なぞ何の約束も果せないただのエトランゼ(異人)である。知らぬ間に消え、軽い思い出で程度に記憶しておいてもらうのが方々の為ではないか……。ここに来て、当初考えたことに行き着いた。調整が可能であったにも拘らず、敢えて日程を詰めたことである。否、実はもう逢うまいとすら考えていたことを。
こんなことを知れば、必ずや友は怒るに違いない。つまりこれは私だけが図った勝手な配慮であった。そして、実はその配慮は、私自身の「弱さ」を反映したものでもあった。それは、友より歳長けていた私が、人世の悲哀たるを余分に知っていたからに他ならない。
列車はまた鉄身を震わせて東方へと進む。気を戻し、荷を持つ手を締め直して指定車へと向かう。通路に溢れる数多の人々を掻き分けて。感傷の暇はない。休める場所を早く確保して深夜の到着に備えなければ、次待つ友に更なる迷惑を掛けてしまう……。
こうして再会の日は、また現実へと向かう混乱内に終った。親愛なる友に、どうか平安の日々あらんことを――。
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