2007年03月02日

伝承調査行「血洗町」

京都市山科区の御陵血洗町の住居表示看板

先月下旬、知己の記者I氏より、かつて住んでいた京都東郊山科に伝わる「伝承」についての相談を受けた。何か良さげな話を存知なら教えて欲しいとのことである。

何でも、氏が所属する日刊紙上で、市内各所の伝承に関するコラムが連載されており、その担当回が巡ってきたらしい。

知っての通り、歴史の舞台京都では伝承の類に事欠かない。しかし、そんな全国区で誰もが知っているような話では取り組む意味がないと、仕事熱心な氏は言う。そこで着目されたのが、市内ではありながら、古の京域から外れたユニークな地、山科であった。だが、元より他郷出身の氏に、そんな山科の深部たる伝承を俄に知り得る筈もない。その困惑にあたっての、私への相談であった。

そこで、私が呈したのが5つ程の伝承であった。1つは「御陵血洗町」の由来伝承。2つ目が『今昔物語』の怪異現場を伝える「業平谷」伝承。3つ目は音羽川(山科川)上流に巣くった大蛇伝承。4つ目は山科東北に食い込む県境(旧国界)の由来伝承。そして5つ目が戦中音羽山に計画されていたという要塞伝承である(この他、英国ロック歌手デヴィッド・ボウイの隠れ家伝承もあったが、「都市伝説」であるとして却下された)。

その中で、氏が最も興味を持ち、調査を決められたのが、1つ目の「血洗町」伝承であった。しかし、普段殆ど取材に出向かない山科は、氏にとって不案内の地。そこで、案内役を兼ね、私も取材同行することとなった。

実施は3月1日午後と2日午前の2日間。それに先立ち、氏は単独で地元郷土研究会関係者2人程との接触を果たしていた。だが、詳しい人は既に亡くなられており、有益な情報は得られなかったという。

取材初日

さて、用意した古図や文献史資料を手に初日の取材を開始した。「あがる」との予報を裏切る生憎の雨であったが、傘下2人して山科西北は当該地、「御陵」地区に入った。

「血洗町」由来伝承で私が知るのは、義経が蹴上で武士団を無礼討ち後、ここで太刀を洗った話と、山手にあった刑場との関連話の2つである。その内、町内に関連遺物が現存するのは前者。故に、先ずはその遺物、「義経の腰掛石」を見学することにした。「腰掛石」は太刀を洗った義経が憩ったと伝えられる石で、関係書籍等にも度々登場する有名なものである。

しかし、これまで薬科大の西グラウンド隅にあるということのみ聞いていて、実は何処にあるのかよくわからなかった。グラウンド管理人氏に尋ねて漸く辿り着いたのが、テニスコート隅に密やかに座る黄土の佳石であった。

なるほど、座るに手頃な様である。しかも一見して由緒有りげな品格も備えている。しかし、これまで何度か写真で見ているため、実のところあまり感慨は起こらなかった。それより驚いたのが、その後方塀裏に「血洗池」が現存していたことであった。住宅と大学用地に囲まれた僅か数メートル四方のものであったが、確かに砂底に清水を湛える天然水源が存在した。

石と水場はセットで現存していたのである。小時、一帯の隅々を駆け巡って親しんだ身には只々意外であった。用地内からしか見られないとはいえ、まだまだ近場にも未知の場所があるものである。

伝承縁の遺跡2つが見つかったのは良かったが、今度はこれと絡めて伝承を語る地元の「語部(かたりべ)」を探さなくてはならない。そこで、腰掛石の管理元である薬科大の施設課を訪ねた。

しかし、古いことを知る関係者は既に去り、よくわからないという。故に、2人して付近の旧家へ飛び込み取材をすることにした。

旧道沿いの旧家や土着姓家を当ったが、旧事を知る人物には出会わなかった。しかし、諦め半分で最後に行った竹材店で、詳しい人物を紹介してもらえることとなった。やはり付近も代替りが進み、その人物以外に旧事を知る人は殆どいなくなったらしい。

だが、近くに住むその人物S氏が不在であったため、改めて明日出直すこととした。

取材2日目

翌朝、現地で待ち合わせて向かったのは、血洗町内のS氏宅であった。昨晩I氏が電話連絡にて取材の段取りを付けていたのである。S氏は土地の出身ではないが、若年よりそこに住まわれ、聞取りや実地調査によって同町の旧事を研究されていた人である。そのS氏宅にお邪魔し、早速「血洗町」即ち「血洗池」の話を訊ねた。

氏によると、地元で採取したそれに関わる伝承は全部で4つあるという。1つが刑場の刑刀洗いの話。2つ目が源義仲と巴が都落ちの際、太刀を洗った話。3つ目が義経が蹴上で武者を無礼討ちの後、太刀を洗った話。そして4つ目が武者ではなく、現地にて盗賊を討った義経が太刀を洗った話である。

4説中、2の義仲・巴説は、長く同区に住んだ私も聞いたことがない珍しい説であった。恐らく、新旧の文献にも記載のない話かと思われる。氏によると、典拠は不明だが確かに地元に伝わる話であるという。因みに、最も著名な3の義経武者討ちの説も、江戸期以降の文献までしか遡れない話である。

伝承については、それ以上は全くわからない、とのことであったが、遺跡に関しては更に興味深い話が聞けた。薬科大では腰掛石は当初グラウンドの門辺りにあったと聞いたが、実は昔からあの場所にあったという。グラウンド工事の際、一時的に門付近に移動したが元に戻されたらしい。

また、血洗池は今と異なり以前はかなりの規模を有していたという。このことは古い世代への聞取りからも確かであり、S氏自身も湿地の名残である噴水を随所で目撃していたらしい。それらが埋められ一帯が宅地化される以前の話である。何しろ元は安祥寺川本流も流れ込んだ北山科で最も低湿な地である。十分有り得る話であろう。

あと興味深いのが、古代東海道(平安末頃)が町内を通過していたことである。これは私自身による古図の検討によって明らかになったが、ちょうどその時代に、奥州への途上であった義経や、大津への撤退中であった義仲らと同町の結びつきを強める材料となろう。現存の近世東海道は町外北方を通っているので、辻褄が合い難いのである。

因みに、割り出した古代東海道のルートは、大正初年頃までグラウンド北辺を横切っていた安祥寺川の南(つまりグラウンド只中)である。腰掛石はグラウンド南辺にある。

取材終了

他に街道や刑場等にまつわる様々な地域史話を聞き、S氏宅をあとにした。帰りに、もう一度石と池に寄って撮影し、S氏に教えてもらった他の旧跡を巡りつつ、九条山を歩き越えて戻った。

のち、I氏の記事は無事に成り、血洗町をめぐるS氏の諸説が紹介された。これまで殆ど外に知られていなかった義仲・巴説が活字化されたのは、ちょっとした快挙ではなかろうか。

しかし、刑場関係説は全く伏せられた。何でも、地域に対する「負の情報」を記載するのは新聞的に好ましくないらしい。町と刑場址はかなりの距離があり、子供心にもその説の荒唐無稽ぶりを感じていたが、地理に疎い他所人は必ずしもそうとらないことも事実であろう。


伝承の真偽を究明出来た訳ではないが、一町名にまつわる様々な地元語りを知り得た興味深い調査行であった。たかが郊外の住宅地。しかし、そこに湛えられた営みの積水は、予想外に深いものであった。


京都薬科大学の西グランドの門
薬科大、西グラウンドの門。門を入って真っ直ぐのところ(防球ネットの向こう)に「腰掛石」がある。大学用地なので、見学には大学本部の許可が必要である。


京都薬大内に佇む「義経腰掛石」
グラウンド(テニスコート)隅で密やかにそぼ濡れる「腰掛石」。後背のブロック塀裏に「血洗池」がある。傍らに立つ解説は、「義経盗賊討ち説」を記載。


京都薬科大と宅地の間に残る血洗町
大学用地や宅地境界のコンクリに囲まれ僅かに残る「血洗池」。実に痛々しい有様であるが、白砂底を透く水はあくまでも清澄である。誰かが放したのか、大小の魚影すら見える。この状況にあって、この様に生気を保つ泉は実に珍しい。やはり古来より続く水場に違いなかろう。


義経腰掛石(チャート)のアップ
ところで、この「腰掛石」、中々立派なものである。よくこれまで庭石用等に持ち去られなかったと感心する次第である。グラウンドが整備される昭和30年代までは一帯藪地であった為、それが容易であったろうと思われるからだ。

見た限り、石種は珪質堆積岩の「チャート」と思われる。チャートは深海由来の硬い古岩石で、京都近郊では地層の古い丹波山地等がその産地として知られる。大文字山系である山科北部山域にも見られるが、これほど立派なものは稀であろう。元より砂礫多い扇状地末端のここには在り得ないものである。どこか遠方より運ばれてきたのであろうか。そのことにも、また「伝承」が潜んでいるのかもしれない。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 17:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 調査・研究
この記事へのコメント
検索してたらこちらを見つけました。懐かしく拝見させていただきました。
当時は何の石かわからず腰かけてしまいました(笑)
Posted by ひみこ at 2009年09月08日 15:35
初めまして。
京都に住むgodzillaと言います。

私も義経の腰掛石と血洗い池伝説に興味があり、これまでにも何度も訪れています。
最近では、昨日行ってきました。

そのレポは以下でアップしていますので、よければ一度ご覧いただくと嬉しいです。
http://www13.atpages.jp/godzillagogo/100522.html

様々なことに興味を持ち、積極的に動いておられることに敬意を表します。
これからも様々な情報を発信されますことを期待しております。
Posted by godzilla at 2010年05月23日 18:19
godzillaさん

丁寧なご連絡有難うございます。

御サイト拝見させて頂きました。山科駅構外連絡通路に於ける古い表示の存在は意外でした。大正期のオリジナルかは確定出来ませんが、書式から、昭和20年代以前のものに違いないかと思われます。小時からの馴染で、知ったつもりの場所でも、まだまだ発見はあるものですね。これからの、更なる地域発見、ご活躍に期待しております。


(当方のコメント欄は連絡用としての位置づけで設置している関係上、基本的に承認・返信は行っておりませんが一応……。)
Posted by とうじ at 2010年05月25日 11:16
藤氏様

はじめまして。
小学生の娘が、山科の地名を調べるという自由研究をしており、藤氏様の撮影された「血洗池」の写真を使いたいと申しております。
使わせていただいても、よろしいでしょうか?
Posted by tomoko at 2010年09月02日 23:26
tomokoさん

閲覧頂き有難うございます。

すみませんが、コメント欄での許諾の遣りとり等には対応しておりません。

宜しくお願い致します。
Posted by とうじ at 2010年09月09日 18:29
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