2007年04月14日

楽園現出


先日共に桜の夜宴を行った知人よりメールが来た。夜宴の翌日のことであるが、深酒が過ぎ、業務中に賀茂河畔で思わず休眠をとったという。そして、暫くして気を戻した彼が見たものは、桜と黄花咲き乱れるこの世の「楽園」であったという。文面は主にこれを伝える短いもので終っていた。

ここで考えたのが、彼が見たという「楽園」についてであった。桜は確かに咲いているのを知っているが、黄花とはなんであろう。昨今の記憶には該当するものがない。とまれ、黄花を一先ず無視して桜のみを想っても、それが疎らな賀茂の河岸に、その言い様はオーバーではないか。しかし、彼は職業柄、文言にうるさい男である。そのような軽はずみなことを記す訳がない。では、やはり「黄花」がその謎を解く鍵でなのであろうか。


賀茂川中洲に咲き乱れる菜の花。今出川橋南にて
以上の如き謎を一人抱いて今日目撃したのが、この光景である。何時の間の出来事であろう。正しく桜を凌ぐ広がりを有す黄花があるではないか。なるほど、彼が記していたのはこのことだったに違いない。二日酔いの混濁による「異界行」の疑いが晴れたようである。めでたく名誉回復といったところであろうか。


菜の花と賀茂川のきらめき

さて、黄花といえば、思い出されるのが昔行った雲貴高原のことである。大陸西南部、西蔵高原にも近いその地の春は、低緯度ゆえに早い。2月の上旬、ちょうど旧正月である「春節」頃であろうか。そんな時節、そこの「大理」という湖辺地方を流離っていた私は、野辺に咲き揺れる一面の黄花と出合った。

果て霞む青水(せいすい)と、白雪(はくせつ)厚い高峰間(はざま)の裾野の長閑。未だ朝晩厳しい日にあって、可憐に春を伝える暖かなその姿は、実に心深いものがあった。何か、励ましの如きであろうか、私にとって正に忘れられないものとなったのである。


 「春」

 志破漂身在南辺   (志〈し〉破れて漂身南辺に在り)
 黄花揺濫知来春   (黄花〈おうか〉揺濫、来春を知る)
 夕仰嶺光有幾条   (夕に仰げば、嶺光幾条も有り)
 天祐玄也看不絶   (天祐、玄なりて不絶なるを看る)


その感慨より、そこにて成した拙作である。深くは語らない。また、逐一意を追うこともお勧めしない。ただ、少しばかり忖度頂ければ幸いである。


高野川中洲の菜の花と土手の桜
高野川の桜並木と黄花。奥に見えるのは五山送り火の一山「法」。これなぞ見れば、もはや楽園たることに揺るぎはない。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 逍遥雑記
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