2007年06月01日

東山玉門関

新調された大文字山の三等三角点

樹間の日溜りに身を覗かせるのは、ご存知、測量基点たる三角標(点)である。辺角凛々しい中にも和(やわらぎ)を宿すその姿は、実に玉璽の如く品を醸して美しい。全身の無垢・無傷は新調の証か、隷字を用いた古式表記も憎い許りの伊達ぶりである。

さて、三角標といえば、山の頂である。中でも写真の如き「三等点」は、4キロ毎の低山上に置かれているが、この標(しるべ)こそ、我ら左京東傍に開(はだか)る大文字山のそれであった。今日は、毎年恒例である入梅前の山行に訪れたのである。今回は諸事を片付けた漸くのことであった。


大文字の火床最上部からの京都市街の眺め

銀閣寺横の土道から急登を詰めると、やがて大文字の火床に出る。麓から見える、「大」の字がある草はら部分である。写真は、その最上部(標高365メートル前後)からの眺め。知る限りでは、最も良い京都市街の眺望が得られる場所である。生憎の多雲であったが、遠足や実習らしき子供や学生の集団が多くいて、大変賑やかであった。


大文字山山頂からの京都市街の眺め

火床からまた森中に入って、大きな登りを2回、そして小さな登りを1回越すと、山頂に出る。標高466メートル。登場が前後したが、先の三角標がその基点である。ここに来て漸く陽が射し始めた。

山頂は下地が露出した平坦地であるが、以前は四方に草樹が繁茂してあまり眺望を得なかった。しかし、近年南側が伐採され、それが叶ったので、休息地としての人気が高まった。折しも時分は昼時―。この日も、遠足児童や中高年組の数多(あまた)が休息中であった。

憩うべき場での賑わいは問題はない。しかし、今回はその他のマナーについて少々気になった。食事をとうに終えるも、後来た人にベンチを譲らない人々や、人の風上でタバコを燻らす人である。席を荷で占拠しつつ、仕方なく標柱上で食事しようする人を、記念写真の邪魔だと追いやる輩もいた。中高年は元より、児童にも複数の引率がいるので、これらは全て「大人」の所業といえる。そういえば、火床でも通路全てを子で塞ぎ、その中心に堂々と「布陣」して食事する引率がいた。本来はマナーなぞ語れる身ではないが、昨今止まることを知らぬ状況を憂い、一記する次第である。

さて、かの麗しき標柱も、近年流行の「三角点欠片マニア」なる不届者の鉄槌被害に遭わぬかと、にわかに心配になってきた。


大文字山東に続く山道と土塁と堀を備えた戦国時代の城戸跡
山頂から更に奥(東)へと続く山路(ただし撮影は西向き)

道はここで高さ1メートル程の畝を切り通している。畝の東下に溝跡をみるここは、かつて木戸があったとみられる処である。一般にはあまり知られていないが、ここ大文字山は戦国時代の城塞址でもあった。丁度、山頂の平坦地が本郭部分で、この木戸が土居と堀を有したいわば城門の一つだったとみられる。


大文字山山頂東に残る戦国期の山城の竪掘
畝下の堀跡

下降しながら斜面上にも続いているが、これは斜面を登り来る賊(敵)の横移動阻害を意図したもの。専門用語で「竪掘(たてぼり)」と呼ばれるもので、全国の古城、特に山城に多く見られる中世城郭の特徴の一つである。


大文字山頂東の滋賀方面と東山方面への分岐辺りにある山城関連の平坦地・郭
如意ヶ岳(滋賀)方面と、大日山(山科・蹴上)方面への分岐辺りにある平坦地

いわゆる郭(曲輪。くるわ)跡であろう。「郭」とは、城兵の配備や、その起居用等に用いられた施設(場所)である。応仁文明の乱頃既に城塞化していたという諸本の記述を信じれば、実に500年以上を経た造成地ということになる。付近には更に大きな郭跡もあり、標高が高いことや本郭(山頂)に近いこと等を考えると、城主であった足利将軍の御所地であった可能性もでる。


大文字山頂東の分岐を南行する土居と武者走りと見られる人為的尾根
分岐の南直下(大日山方面)を南行する東山の尾根

左(東)下に、いかにも造成を施した山路が併走しているが、これは道の付け方としては不自然・不合理である。一般的に、このような処では、山路は尾根上をそのまま利用する。よって、これも通行以外の意図、即ち城塞施設との関連が窺える。つまり、尾根を土居(防塁)、山路を郭(武者走り)とする解釈である。折しも防塁側は賊が上り来る京側(鹿ケ谷)となっている。

そのような意識で再び尾根を見ると、実に壮大な構築物に見えてくる。かつて、大陸荒漠で土砂造りの古代長城に遭遇した時と同じ感慨である。


大文字山中の池
山中で発見した池

これまで幾度となく通っている道横にて初めて目撃した。今まで草木の繁茂で気づかなかったのであろうか。やはり、山は色々と奥深いものである。ひょっとすると、これも何か城塞址との関連を有しているのかもしれない。


大日山麓若王子近くの道横に現れた電気柵と警告板
若王子(大日山麓。即ち大文字山南方)への下山途中、麓近くの道横に現れた電気柵

「電気牧柵」の名が見えるので、本来は牧場用であろうか。それにしても、仰々しいものがこんな処にまで現れたものである。しかし、近年付近で問題になった「大津E群」猿等の被害を考えると、致し方ないのかもしれない。


若王子の市街口に設けられた獣除けの鉄柵

そして、正に若王子の宅地に出ようとした時、前を塞ぐ現代の木戸が突如現れたのである。

右は電気柵、左は生垣内の鉄柵にて市街への進入を完禦しているこれは、やはり以前は見られなかったものである。幸い、扉を一時開閉しての往来が許されているが、初見であれば、威圧の感受は免れない。説明板によると、昨今増えてきた猪への防備だという。そういえば、去年辺りの或晩、九条山の路上で大きなそれと遭遇した憶えがある。

この堅い守りと、先程の城址の印象が合して立ち上がってきたのが、表題にある「玉門関」である。それは、かの「隷字」が大成された前漢時代に、西方辺境に設けられた関門のことで、長大な長城や無数の烽火台と共に、牧民を主とする賊からオアシス入植市や交通路を守護していたものであった。その威厳ある印象に、今また野獣や不届者共々、我々牧民的逍遥者も街入りを阻害されるのではないか、という危惧さえ覚えたのである。


つまらぬ個人的妄想はさておき、またしてもその表題と、迂遠な解説に幻惑された読者諸氏には、切に諒を願う次第である。

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 紀行
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