
延長番外編の平会。山辺へ
一旦終了するも、列車の一時運休の為その復旧時間まで延長されることになった「平会」。向かうこととなったのは、「山辺(やまのべ)」方面であった。山辺は、奈良盆地東部の山麓地域のこと。先程立寄った穴師地区もそこに含まれ、日本最古の道とも称される「山辺の道」が通過する地域でもあった。
今回はその山辺の、柳本地区の古墳群を巡ることとした。巻向がある桜井市に北接する天理市のそこには、やや時代が下るものの、やはり大型かつ重要な遺構が数多く残存していたからである。元来の目的地ではないが、番外として楽しむ山辺編の開始である。
写真はその中で、最初に見学した「渋谷向山古墳」。墳丘全長は箸墓古墳を上回る300m超という、山麓に築かれた巨大墳墓である。推定築年は箸墓から半世紀以上過ぎた4世紀後半。纒向古墳群より「新しい」とはいえ、この21世紀の現代まで現存するものとしては恐るべき古さを有している。

渋谷向山古墳の北東周濠部
古墳周囲には周濠の良好な残存が見られた。ただ、その幅は墳丘規模に比して狭く、この時代の「流行」たるものを窺わせる。また、その立地上傾斜が強い為、堰堤で最大7段(消失部を含めると8段か)に区切って水を湛えるという、特異な造りとなっている。
写真は正にその様子を捉えたもので、左の墳丘(森)に沿って、堰堤毎に水面が下がってゆくのが見える。古いものにも拘らず、良く手入れが施されているのは、ここが「景行天皇陵」として宮内庁に管理されているため。しかし、その書陵部による報告では、堰堤の幾つかは建造当初のものであることが判明しているという。
「渡堤」とも呼ばれる堰堤の存在は、墳丘に人を寄せつけないという、水濠の役割を著しく低下させるものである。それを冒す方法を以て敢えて水を周囲に巡らせている、ということは、水を巡らせること自体に、何か特別な意義があったことを示唆している様に感じられた。

山麓の田圃中に続く「山辺の道」をゆく参加者と、渋谷向山古墳東方近くに残存するその陪塚(ばいちょう)
従属的ながら厳重管理の「陪塚」
陪塚とは、大型古墳に関連して造られた小古墳。主墳の親族や臣下、または副葬品等の埋葬に用いられたとされる従属的は古墳である。写真の陪塚は、景行天皇陵関連の「陪塚ろ号」と称されるもの。小規模ながら、宮内庁管轄として門や柵が巡らされて厳重に管理されている。地味ながら、中々興味深い存在。

谷地を越え北方の山麓に現れた「行燈山古墳」
半蔵門的美麗さ「行燈山古墳」
渋谷向山を過ぎ、山辺の道を北上する。一旦谷地に下り、そしてまた山麓田圃中に巨墳が現れる。同じく宮内庁治定陵墓「行燈山古墳」である。墳丘全長は240m余り、渋谷向山同様に周囲に渡堤式の水濠を持つ。ただ、その建造年は、渋谷向山より古く、4世紀前半頃と推定されている。
他陵と同じく、科学的根拠に乏しい比定作業により崇神天皇陵とされているが、その規模等から、大王(おおきみ)級の墳墓であろうということには、疑いは無いのではないかと思われた。

行燈山古墳を西北端より見る
前方部の森の手前に開る(はだかる)長大な土壇は周濠の堤。高さ共々、それ自体がかなりの規模といえよう。この古墳の周濠は渋谷向山のそれに比して段数が少ないが、ひょっとすると、溜池の機能を持たせる(強化させる)為、最低地側のここをより高くするなどの改変を施し、段数を変更しているのかもしれない。
堤表面の芝生と、その上部に植えられた松並木の美麗さに感心。恰も「半蔵門」辺りの皇居(旧江戸城)の風情を彷彿させるものであった。宮内庁特有の管理・手入れがそうさせたのであろうか。

行燈山古墳の西北端近くの田圃中に残存する、その陪塚
先程の「ろ号」墳に比して、こちらは前方後円墳の形態をほぼ完全に保存している。その墳丘規模も全長約120mと大型である。写真はその後円部にあたるが、木立の中からその段差が良く観察出来る(ただし、それが建造当初の段差か、後の改変等に因るものかどうかは勿論不明)。
名称は「アンド山古墳」。何故か主墳の「行燈山」と同じ読みである。前方部中央前にある礼拝所(写真左端に見える周濠堤辺り)に接する参道南側には、対的存在と思われる陪塚「南アンド山古墳」も存在する。宮内庁管轄ながら、写真に見る通り、何故か柵等の入域制御が一切見られないのも、謎である。

纒向古墳群に並ぶ重要古墓「黒塚古墳」
さて、列車復旧の時間も迫ってきたので、行燈山古墳から山辺を下り、駅がある西方街区に向かう。その途中、最後の見学場所として立寄ったのが、写真の黒塚古墳である。この古墳も、街区に在りながら前方後円墳としての形状や周濠を良く保存した存在であった。
墳丘の全長は132m。築年は、3世紀後半から4世紀前半頃とされ、先程の山辺の陵墓群より纒向古墳群の世代に入る。中世以降、城郭や大名陣屋として使用された為、改変も受けたが、結果的にそれらにより周濠等が保存されたようでもある。
黒塚古墳は陵墓指定を受けていない為、かなり詳細な学術調査を受けている。それ拠ると、長大な竪穴式石室が発掘され、卑弥呼論争で有名な「三角縁神獣鏡」が大量に発見されたという。正に纒向古墳群に並ぶ重要な古墓といえよう。それらの成果は、古墳に隣接して設けられた豪奢な展示館にて公開されていた。勿論、一同見学。
「卑弥呼」名称のフライング的使用へ
しかし、ここで1つ気になることが……。重要な発見に対し、展示館まで新設して顕彰する天理市の意気込みには頷けるが、館内やその印刷物に「卑弥呼の里」と明記するのは如何なものか。卑弥呼との関連が確かになった遺構は未だ存在しない筈だからである。
そういえば桜井市も、纒向遺跡に因んでか、同様の文言を使用し、何と「ひみこちゃん」なるキャラクターまで用意して広報に励んでいる。史学会を代表する者でも何でもないが、お偉方が何も言っていないようなので、敢えて言わせてもらおう。
「これらの文言や図案使用には何ら科学的根拠はございません(笑)」。

復旧列車来る。平会終了
さて、散策可能な黒塚古墳の墳丘上を見学しつつ過ぎ、柳本の住宅街を抜けて柳本駅に到着した。時は16時半過ぎ。ほどなく、復旧した奈良駅方面行きの列車がホームに現れ、一同乗車したのであった。これにて平会終了。
その後、京都市内は河原町三条付近の飲食店に希望者が集まり打上げ。充実の1日を終えたのであった。皆さん、寒い中お疲れ様でした!