2012年02月05日

幻寺探訪

京都市東部山間にある、幻の大寺「如意寺」の深禅院跡で発見した古い「一石五輪塔」

季節の変わり目実感の好日開催

2月3日の節分まで寒さ厳しい日が続いたが、翌4日「立春」からは、正にその名どおりの弛緩が訪れた。そして、今日5日。山会もこの恵みを受けて、真冬ながら、朝から良い条件での開始となった。

思えば、節分は古来から季節の変わり目とされていた日。図らずも、旧暦(二十四節気)と気候との近似(旧正月は本来この変節期を意識して設定されたらしい)を、改めて実感する日ともなった。


上掲写真: 幻の古代・中世大寺「如意寺」の深禅院跡で発見した古い供養塔。現状は中途で折れているが、元は1つの石材から削りだして成す「一石五輪塔」という型で、中世中期から末期(鎌倉末〜桃山時代)頃にかけて作られたとみられるもの。各節には、その名に対応する「空・風・火・水・地」の梵字が見える。付近に礎石以外の遺物を見ないことから、後代に、掘り出されるなどして設置されたとみられる。ささやかな存在だが、この土地の来歴を窺わせる貴重な遺物である。


京都市街東端から見た鹿ケ谷と「如意越」古道を踏襲したとみられる急坂の道

さて、さすがに温暖とまでは言えないものの、陽射しも心地よい朝。麓のバス道辺りに集合して鹿ケ谷(ししがたに)を目指す。そこから、今回の目的地である東山山中の如意寺跡を巡る為である。

写真は、麓の霊巌寺辺りから続く「如意越(にょいごえ)」の急坂から見た鹿ケ谷全景である。道は未だ山中に達しないが、それに等しい傾斜の為、自転車で来た参加者は、下車して登山口まで只管それを押し登ることに。

中止!?山入り前に問題発生

やがて舗装道路が尽きる辺りで自転車を置き、いよいよ山入りを果たそうとしたが、ここにて問題が……。入山前に、参加者の一部が知人芸大留学生の作品撮影に協力することとなっていたが、その作業にかなり時間をとられることとなったのである。

結局、出発は昼を大きくまわった13時となった。一時は中止も考えたが、幸い、前々日までの寒さの所為か、辞退者が多く、参加は精鋭的人達のみだった為、歩みを速めるということで、決行することにした。

作品提出の締切りが明日の為、どうしてもこのタイミングしかなかったらしいが、次からは早目に相談してもらうなど、十分に気をつけてもらいたいところである。


京都市街東端の鹿ケ谷で見た、珍しい双体道祖神石像

珍しい道祖神?

今日の本題と逸れるが、撮影を待つ間、付近にて興味深いものを発見したので紹介したい。写真の石像である。

中世以降の出で立ちとみられる人物が2体浮彫で表されている。類型から、道祖神かと思ったが、違和感がある。1つは、左側の人物が大きく表されていること。通常、道祖神に限らず格上の男神は右側(即ち神像から見れば上位の左)に配されるため、左がそれを思わせる大きさなのは奇妙である。

もう1つは、背景の飾りがないこと。凡その道祖神は、石材の外形を恰も光背か額縁と成すかの様な加工がされている。また、外形が自然石のままの場合は、彫り込みによって同様の効果が施されている。写真の様な、切石のままの荒い姿は見たことがないのである。

色々と謎はあるが、素朴で愛嬌ある表情を持つユーモラスな像ではある。磨耗具合からすると、然程古いものには感じられないが、如意寺との関りは如何であろうか。実は像のあるこの辺りも、その寺域推定地とされている。研究者によると、道祖神像の出現は近世以降のことといい、当該像がそれであれば、中世中に廃滅した如意寺との関係は薄そうである。

形式的には「双体道祖神」と呼ばれる興隆期のものらしく、その年代は17世紀頃か。あくまでも、道祖神であれば、の話である。なお、道祖神が道や境界だけに関連した神であるという旧来の説は、近年、統計調査等の結果からも否定されている。

いずれにせよ、道祖神と似た役割を持つ存在として地蔵が卓越する京都にて、珍しいその姿を見つけたので、特に紹介した次第である。


京都市街東端・鹿ケ谷の山間に続く「如意越」の道

京江の快速要路「如意越」をゆく

気を取り直し、準備体操も早々に山へと入る。針葉樹の植林広がる明るい谷筋の登坂である。写真はその様子。岩盤を穿って整地した跡を見るなど、「古道の証」の如きも随所に見られた。

この道、即ち「如意越」は、如意ヶ嶽山上を通って近江滋賀へ抜ける古い間道で、史料上では平安末期の12世紀頃からの利用が推察される。ここを踏破した人なら知っていると思うが、上り下りの急斜こそあるものの、その交通効率は思いのほか高い。上りを越えて山上を走ると、すぐさま琵琶湖を望めるような具合である。

私は、園城寺即ち天台寺門派が、別院の如意寺を以て、京江を迅速に結ぶこの要路を制していたのではないかと考えている。


鎌倉末期の園城寺蔵『境内古図(如意寺幅)』に堂宇名を加え白黒化した画像

園城寺蔵『境内古図(如意寺幅)』正和元(1312年)〜建武3(1336)年頃制作か
(原図は彩色。明朝体の堂宇名加筆は筆者。京都国立博物館編『社寺絵図とその文書』〈1985年〉より転載)

古図・資料用意と研究者との面談で準備万全に

ここで我々が用いた工具を1つ紹介したい。在りし日の如意寺の威容を視覚化した境内絵図である。後代に作られたとみられる幾つかの類品が伝わるが、何れもこの絵の写本の域を出ないものなので、唯一の視覚史料ともいえる。

この、今から700年前に描かれた如意寺の古図と、その他の史資料を基にして携行資料を作成し、現地に向かった。なお、それに先立ち、京都市埋蔵文化財研究所(考古資料館)をみんちり幹事2人で訪問し、如意寺再発見に貢献された文化財保護技師・研究者であるK氏直々に、遺構への所見や最新情報を伺い、準備を万全としたのであった。


京都市東部の山中にある楼門滝付近の石積み平坦地遺構

楼門滝と最初の遺構群

さて、如意越の道を進むこと暫しして、植林帯が開け、明るい急斜の地が現れた。道はそこを葛篭で上っていく。そして、その左脇に写真の如き石積みが現れた。傾斜地に割石を積んで土留めをして成した、人為平坦地である。

鹿ケ谷ルートとしては、最初に現れる現存如意寺遺構群である。K氏らの見解では、楼門滝横や下部にあったとされる「浴堂」や「不動堂」等の跡地とされる。境内古図では、「月輪門」直下の階段上横に描かれたものが浴堂、下横が不動堂と貼紙されている。

導水と排水の便を考慮して、この様な門外の急斜地に浴堂が設けられたのであろうか。


所々氷結した、京都市東部の山中にある楼門の滝

そして間もなく楼門滝に。現在「楼門の滝」と呼ばれるもので、近世より京洛内外の人々に親しまれた名所である。写真で見るように今は水量・水勢に乏しく滝らしくないが、近世の名所図会等によれば、以前は古図同様の雄姿を市街からも見ることが出来たという。特に雨後はその勢い凄まじく、長大化したことが記録されている。

先日までの寒波の所為か、所々氷結の様も見られ、これはこれとして趣がある。


京都市東部の山中にある楼門滝横の石段
そして滝横には急で長い石段が。滝横の岩塊に沿い続く様は、正に古図そのままである。当時の施設を継承したものとは思われるが、ほぼ完全を成しているので、後代の積み直しや補修等を考慮すべきであろう

廃滅してより凡そ550年。その間、幾度も生じた地震や豪雨等の天災に無傷を保ったとは考え難い。戦前、階段上に俊寛碑が建てられたが、その際の再整備も考えられよう。

俊寛の山荘

なお、K氏によると、平家打倒謀議(鹿ケ谷事件。12世紀後半)で南海へ配流(はいる)となった古来著名な俊寛の山荘は、ここではなく、麓にあったのではないかという。即ち上掲(上から2枚目)画像にある、登山口手前の宅地付近である。つまり、やはり如意寺の境内か。

俊寛自体は真言僧だったので色々と物言いが付くが、K氏によると、境内西端とみられる「鹿谷門」(古図最下部の築地付の門)は、登山口辺りか、宅地より更に下部の霊巌寺付近にあったと推測されているという。


京都市東部の山中にある如意ヶ嶽城の虎口遺構

戦国改変か。熊野三所・宝厳院跡

石段上には古図にある「月輪門」という壮麗な大門があったされるが、殆ど平地がないため特定はし難い。当初は谷を塞ぐ様に描かれていたので比較的簡単に検出できるかと思ったが、そうはいかなかった。

月輪門推定地付近を越えてからは、急斜は止み、平坦な谷道となる。そして谷が開けた明るい場所に出た。埋文研が推定する熊野三所跡である。しかし、実際は複雑な平坦地が数多く造成されており、古図との整合を見ない。K氏によると、隣接する如意ヶ嶽城の関連施設として、戦国時代に大改変を受けた可能性があるという。山上を主郭とするその城の登城口、水源として重要な場所だからである。

一応軍事・交通専門の私が現地を見たところでも、その説には十分頷けた。それは、この地帯後端(東端)に、侵入者に対する横矢を意識した屈曲式の土塁関門、即ち虎口(こぐち)の存在を認めたからである。しかも、初期の平入り式から、より防御性の高い屈曲式に改変された痕跡まで認められた。

また、地帯前端にも平入りの土塁関門の残存が認められた。写真は、後端土塁を東側(内郭側)から見たもの。中央の土塁の切れ目を越して道が続いているのがわかる。恐らくここに城戸が設けられていた筈である。


京都市東部・鹿ケ谷奥の山中にあるの巨石

存在感放つ謎の巨石と水源

戦国期の改変地帯を過ぎ、少し上りにさしかかったところで写真の巨石に遭遇。重さ数十トンはあるかと思われるもので、小川ある谷を塞いでいる。白い積層の肌を持つ石で、何かの信仰対象となってもおかしくない程の存在感を放っていた。

不思議にも、これほど目立つ存在が古図には描かれていない。一応この場所は礎石が出土している宝厳院般若堂推定地に隣接しているにも拘らず、である。石の下にて暗渠化している河道内には、浴堂辺りで見たのと同じ割石らしき石が散乱している。

ひょっとすると、後代に他所から運ばれたのか。しかし、これ程大きな石を山中で運搬するのは現在でも難しい筈である。もしくは、山上から落下したものか。だが、見上げる林間にそれらしき崖や同石の姿は見られない。そしてK氏らの報告書にも、この石については何も語らない。

参加者一同、首を傾げ、ただ呆然と見上げるばかりであった。


京都市東部の山中にある鹿ケ谷奥の石組みの古い水源

巨石を越えて更に東への進むと、次は写真の如き石組が現れた。道際にあったものを私が気づかずF君が発見したものだが、中で水が湧いている。これ以上上手の谷中には水流の痕跡がないことから、沢の源頭部、即ち水源とみられる。この山域でこれ程はっきりした姿を持つ水源は珍しい。通常はその始まりが定め難いような、湿りや、湿地状の地帯から始まるからである。

ともかく、その水源が浴室跡と同じ割石で人為的に改変されているので、遺構との関連も窺われる。当然、後代の積み直しや改変は考えられるが、材料や場所との関りから、古式を踏襲したものとも考えられる。気になったのは、湧出始点を蓋する大きな石が、前の巨石と同種に思われたこと。

両者共、同じく水を覆っていることから、何か宗教的な意図を以て、人為的に共通化されたようにも感じられた。


京都市東部山中の鹿ケ谷源頭及び東山稜線の切通しと戦国期の防塁跡、そしてそこに続く如意越古道

戦国遺構残る稜線にて遅い昼休息

水源地を越えると傾斜は益々強まった。そして程なくして写真の如き「切通し」が現れた。鹿ケ谷源頭、即ち我々が市街から日々眺めている東山連峰の稜線である。

ここが切通しになっているのは、稜線に犬走り(武者走り)と防御壁が設けられていることと関連する。即ち如意ヶ嶽(現大文字山)山頂に近い為、戦国期に如意ヶ嶽城の防備の1つとして設けられた城戸とみられるのである。

ともかく、これにて一先ず登坂の苦労はひと段落。昭和末に再発見された主要遺構(今来た鹿ケ谷部分は、唯一それ以前から判明していた箇所)は、ここの高さと近い標高400m前後に存在する為、もはや登坂の労は少ないからである。


京都市東部の山中にある如意ヶ嶽城跡の平坦地に置かれたステンレスボトル

南北に走る東山の稜線に出たあと、それに沿う道を少々北行し、滋賀方面まで東西に走る如意ヶ嶽の稜線上まで移動して遅い昼食休憩をとることとなった。

写真の場所がその休息地であるが、実はここも遺構平坦地。但し、如意寺のものではなく、如意ヶ嶽城に関連するものであった。山上の主郭後方に設けられた大規模な平坦地跡で、足利将軍の「御所」跡とも推測されている場所である。正に、至る所、寺や城の遺構だらけの山域――。山中とはいえ、都近傍であることの面目躍如たる有様であった。

とまれ、暖かな陽射しの下、公方御殿の幻と共に(?)穏やかな昼食時間を過ごしたのである。


京都市東部山中にある幻の大寺「如意寺」の大慈院跡平坦地

武家政権との関り示す大慈院

昼食後は、そこから最寄りであった「大慈院」と、それに隣接する「西方院」の跡地に向かった。いよいよ昭和に再発見された知られざる場所を巡るのである。その位置は、東山と如意ヶ嶽の稜線直下の斜面上にあった。

写真は、登山者行き交う尾根道を外れて探し当てた「大慈院」跡の平坦地。矢竹か何かが密生していて画像では判り難いが、数10m四方の広さを持つ。更に、隣接して複数の造成地があり、明らかに人為的に斜面を造成して成した大規模な露台(テラス)地であることが判る。

古図によると、大慈院は写真の場所に計6つの堂宇を有していたことになる。だが、調査では礎石らしきもの1基のみの発見に止まっている。特筆すべきは、ここが鎌倉右大将家の寄進により整備されたことが古図の貼紙や、その他の文献に見えること。

「鎌倉右大将」とは、かの鎌倉幕府開祖、源頼朝のこと。朝敵怨霊を宥める為、建てられたといい、堂内には、源氏政権によって滅亡させられた、平家一門の姓名を記した阿弥陀像が納められていたという。

如意寺と武家政権の関りを示す、興味深い由緒である。後年、南北朝動乱で被災し、そして応仁の乱で寺が廃滅したのも、武家政権との関り故の結果ともされる。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の西方院跡平坦地を探る参加者

地中深くに眠る西方院と
詳細不明の前身寺院「檜尾古寺」


大慈院の次は、古図でその直下に描かれる西方院を探す。露台地のすぐ下であることは解るのであるが、道の無い急斜により、近づくことが出来ない。方々調べ、漸く脇から下る道を発見し、到着。

比較的藪が少なかったことが幸いした。やはり厳冬期であるこの時期に催して良かった。殆ど人が入らない場所なので、季節の良い時期は藪に阻まれ、色々と困難に見舞われたに違いあるまい。

写真が西方院推定地。平坦地というより、なだらかな傾斜地となっている。事実、埋文研の調査では、遺物の発見が少なかったらしく、遺構は深くに埋没している可能性があるという。

西方院は数ある如意寺堂宇の中で、塔を除く唯一の瓦葺建造物。この事と、付近や近くの谷で平安初期頃(9世紀)の瓦が発見されたことなどから、それ以前にこの山中に存在したという詳細不明の古代寺院「檜尾古寺」との関連が推察されている。

しかし、私はこの西方院・檜尾古寺関連説に疑問を持っている。それは、この場所が谷中に存在するからである。「檜尾」の名は、恐らくは地貌より採られたものとみられる。因って、古寺は尾根上に存在したと思われるのである。

因みに、古寺に隣接し、その名と場所を唯一史料上に記載した安祥寺上寺は、「松山一箇峯」と記された寺地を、尾根上の造成地に有している。

この地域最古の山岳寺院とみられるも、記録がなく、その詳細が全く判らない檜尾古寺。如意寺とはまた違った興味を沸かせる存在である。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の西方院跡から見上げた大慈院石段跡
西方院推定地より大慈院推定地を見上げる

高さ20m程の急斜である。嘗ては古図と同じく、この中央付近に、両院を繋ぐ石段が設けられていた筈である。しかし、市の調査、そして我々の観察でもその痕跡を見つけることは出来なかった。

古図精度への驚きと
時超える一致に恐ろしさ


この坂の途中の左手(西側)に小さな平坦地があり、古図に描かれた西方院付属の小堂があった場所と推定される。

700年前の古図と、ここの地貌はあまりに似通っている。古図の精度への驚きと共に、時間を超えた一致に、少々恐ろしささえ感じる。K氏も報告書にて「(堂宇比定を)確定してもよいと判断される」との結論を下している。

樹木を整理し、最初にこの様と遭遇した調査の人達は、身震いすら感じたのでなかろうか。


京都市東部山中の如意ヶ嶽稜線付近に続く如意越の道と土塁関門遺構(?)

如意越を東行し赤龍社跡へ

大慈院・西方院推定地から谷道を登り、また如意越の道と合流する。如意越は、如意ヶ嶽稜線近くを近江滋賀側である東へと続く。

途中、写真の如くまた土塁の関門が現れた。防御施設か寺の築地かは不明であるが、人為地形であることは間違いない。

前に記した通り、山上は上り下りが殆ど無い為、快適な移動を続けられる。景観・路面状況共々、ハイキングにも最適なコースである。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の「赤龍社」の池跡とみられる雨神社の水源

間もなく「雨神社」に到着。古図上方の本堂下辺りに描かれた、赤龍社と池の推定地である。K氏が如意寺遺構を再発見するにあたり、最初の目印・基準とした場所である。

その根拠は写真に見える水。即ち池の跡である。「山中で池のある場所は限られる」との考えにより、ここを赤龍社跡と割出し、古図や文献に記載された諸堂の方角や距離を元に、各遺構を再発見されたのであった。如意寺研究に於ける、いわば記念碑的場所といえる。

写真中央下辺りから「水神」碑右手に続く石塊は、古い池の護岸とのこと。赤龍社の名で推察されるように、恐らくそれは竜神信仰との関りを持つ施設と思われる。その本質は水の神であり、作物涵養との関係から、農耕に関りある存在でもある。現雨神社も同じ役割で、近世より雨乞い等の祭祀が行われてきたことを伝えている。

参加者のCさんから「昔(古図)の建物と今の建物が似てる」との感想を貰ったが、確かに古図に描かれた2つの建屋の小さい方と、水源を覆う写真の祠が似ている。文献記録によれば「閼伽井(あかい。神佛に供える水を汲む井戸)」があったらしいが、ひょっとすると古図の小屋は池の水源に設けられた、その様な施設かもしれない。

一応古図に描かれた大小の建屋の推定地は別所にある。池跡の背後(北側)の斜面上に造成された2つの平坦地である。池跡及びその周辺はかなり広い開けた場所にある。元は山上の高層湿地の跡か。古代・中世の頃には、古図に描かれているようなかなり大きな池があったことは確かなように思われた。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の深禅院推定地の平坦地
深禅院跡推定地に存在する大きな平坦地。画像では判り難いが、奥側に周囲より少々地面が高まった堂宇基壇跡がある

Power Spot?
深禅院跡推定地


赤龍社推定地(雨神社)の次は深禅院推定地へ向かう。そこは、雨神社から然程遠くない地ではあるが、如意越、即ち登山道からは外れた場所にあった。正に、人知れぬ山陰に残された往古の人跡であった。

少々陰々とした湿地の谷を下り、平坦地に至る。当初はそこが跡地かと思ったが、どう見ても狭く、古図に描かれた築地門付の諸堂の展開は想定出来ない。再度、地形図上に記された遺構図を参照し、付近を捜せば、そこから背後の急斜を伝い上る踏み跡を見つけた。

皆を待たせ、私1人で駆け上ってみると、そこに広大な平坦地が待ち構えていた。土地の形状や広さ、周囲の地形等を確認すれば、正にそこが深禅院推定地であった。早速、土壇上から皆を呼んで、共に見学する。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の深禅院跡の礎石
事前情報に因り、その広い平坦地内での遺物の発見は期待しなかったが、それでも前出画像(最上段)の五輪塔や、写真(上掲)の礎石を発見した。礎石は、正に平坦地奥側の堂宇基壇上にて複数見られた

但し、調査報告書には基壇は14世紀頃の廃材を元に15世紀中頃に造成されたものとあるので、古図に描かれた堂宇のものではなさそうである。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の深禅院跡の五輪塔残骸
前出の五輪塔以外にも倒壊した別の五輪塔の姿も見られた。全ての部材が揃わず、破損して、既に残骸と化しているが……。前出のものと同じく、後代に地中から掘り出されたものか


京都市東部山間にある幻の古代大寺「如意寺」の深禅院跡の階段石?
深禅院推定地見学後、前(さき)の急斜にて、大きな石材を見つけた。古図に描かれている通り、往古ここには階段があった筈である。さてはその部材か

周囲の地質等との関係上、人が持込んだものと思われ、長大かつ扁平である形状の特異さも、その推察を補強する。位置も丁度階段があったとされる急斜中央辺りである。ここで石段が検出されたとの報告は見ていないが、何にかしら関連があるものには違いあるまい。

ところで、この深禅院跡。中々良い立地にあると感じられた。上手く伝えられないが、周りから隔絶され、光に乏しい木立の中にも拘らず、陰湿な感じがせず、清爽感すら感じられる。また、本来は水資源に乏しい稜線近くに存在するにも拘らず、付近に豊かな水源も擁している。

今風、流行り風に呼ぶところの「パワースポット」的良地であろうか。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の本堂推定地にあった「住吉大明神礼拝座石」とみられる大石

如意寺中心地本堂跡
礼拝座石の謎


深禅院跡推定地の次は、いよいよ本日の探査行最終目的地で、如意寺の中心施設でもある本堂推定地へと向かう。如意越をまた東行し、途中からそれと別れる形で、その推定地帯へと入った。早速、大きな平坦地が幾つも目に入ってくる。さすがは中心推定地である。

写真は、正にその中核、本堂跡推定地にて出会った大石。50m四方の広さを持つ推定地の只中にて、静かに対面することとなった。長さ2m、幅・高さ共に1m程という、この臥牛様の大石。実は古図に描かれていた。本堂の、築地内の上部に見えるもので、「住吉大明神礼拝座石」との貼紙がされている。

正にそのままの姿か。神物(しんもつ)に対して不届きだが、少々気味が悪い程である。K氏は「礼拝座石の可能性がある」と控えめに報告されているが、もはや、その疑いようは無いかと思われた。

目ぼしい物は何一つ残されなかったこの寺跡で、何故この石だけが放置されたのか。また、この石は古図の位置より本堂側(縁の下)に移動させられている。その距離20m。本堂廃滅後のことであろうが、一体誰が何の為にその様な面倒を行ったのであろうか。それらのことにも、不謹慎ながら不気味さの如きものを感じたのであった。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の本堂推定地端にある経蔵推定地の微高地
本堂跡推定地の西端にある経蔵推定地の微高地

岩の露出が見えるが、本堂や講堂の基壇も、岩盤を削平・整形して準備されているという。古生層由来の硬い地質は居住や施設運営に安全と安定を齎すが、それと引換えに実に困難な工事を強いられたと思われる。

なお、本堂やその近辺にある大型堂宇「講堂」の基壇は14世紀以降に整備されたことが、発掘調査から判明している。古図に描かれた建屋のものか、若しくはその次の世代のものであろうか。確かにそれを知り得る手立ては、今は無い。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の講堂跡推定地の山林

講堂推定地。本堂と面続きの可能性は

本堂跡推定地の東側には、講堂跡推定地とされる一段低い平坦地がある。またしても判り難い写真で恐縮だが、写真がその全景で、本堂側から続く5m程高い地点から撮っている。

撮影地から見て窪地となるその平坦地底の左半分が少し高くなっており、そこが講堂の基壇跡と推定されている。対向斜面の上にも平坦地が見えるが、出土遺物から分析すると、その辺りに最初の講堂が建てられたのではないかと推測されている。その年代、10世紀前半。正に如意寺が創建されたと思われる頃である。

ただ、私は古図の「精度」を信じて、本堂と面続きの場所に講堂が存在したみられる、もう1つの時期・可能性を考えている。これまで確認した通り、古図の描写には侮れぬものがある。何か、境内を正確に描出する必要があり、それに因り現地を実見し綿密に作成されたと思われるのである。

因みに、講堂とは後に本堂同様の役割を果たすようになる、寺の主要施設である。実際、中世以降は、講堂を本堂と呼ぶ例が多々現れ、現に如意寺のそれも、本堂を凌ぐ規模を有している。


京都市東部山中にある幻の古代大寺「如意寺」の本堂平坦地東から見た谷下の平坦地群
本堂跡平坦地東側から谷下の平坦地群を望む

往古の大規模造成工事跡
日没近づき撤収へ


この本堂推定地区には併せて10箇所以上の平坦地が存在するという。それらは、古図や文献史料に記された20以上の堂宇を十分収容出来る広さを有すらしい。当時としては、相当大規模な造成工事を行っていると、K氏もその報告書にて感慨を記す。

この他、谷の下部には正寶院跡とみられる大きな遺構群があり、またここから東1kmの山中にも寺との関連が窺われる遺構があるが、今日これにて終了。日没を意識して、そろそろ西方は京都市街方面に引揚げなければならないからである。

時間の関係で、全域の詳細見学が叶わず、見残す場所も出たが、主要な場所は押さえられたので、今日は完了とする。また機会あれば再踏査を行いたい。


京都市東部山中の大文字山(現如意ヶ嶽)山頂から見た京都市街の夕景
大文字山(現如意ヶ嶽)山頂から見る京都市街の夕景

別口の如意越下る
淡い夕景に早い春を感じる

下山・帰着の為、これまでとは逆方向の西へ向かって如意越をゆく。途中、元の道を外れ、今は大文字山山頂と呼ばれる如意ヶ嶽城主郭部分に立寄る。そこにて、良好に残る城址遺構についての見学や説明を少々催すなどした。また、山頂にて暫し小休止。これより市街への急斜を下る為の備えである。山頂からは、写真の通り、市街の淡い夕景が見られた。

砂が飛んでいるのか――。全てが曖昧内に沈む盆地に、少々早い春を感じた。


京都市東部山中の大文字山火床より見た夕刻の京都市街
道は山頂から長い下りに転じ、五山送り火(大文字焼き)の火床を通過。一応この道程も、銀閣寺付近の別口と接続する、如意越の一部とされる。一面に冬枯れの草地広がる火床では、山頂より更に拡大接写された市街夕景が広がる


京都市東部山中にある大文字山の火床から鹿ケ谷へと通じる道をゆく参加者
大文字火床内にある「大」字の右払いに沿う石段を下り、再び森中へ。そこから、また道を変え鹿ケ谷へと向かう

写真は、谷へ下るその道の様子。火床と銀閣寺を結ぶ道に比して格段に往来の少ないこの道は、一部歩き難い場所もあったが、精鋭組の山会一行の難となることはなかった。


京都市東部の山から下山し、山と上空の月を振り返る参加者と夕刻の鹿ケ谷市街

鹿ケ谷帰着
美麗の月に壮麗の門想う


そして、谷への道をひたに下り、鹿ケ谷の車道と合流。何とか日没の暗夜到来までに下山が果せたのであった。写真は車道を少し上り、登山口まで自転車の回収に向かうところ。

ちょうど山の端(は)上に、朧ながらも美しい月の姿が見られた。嘗て、この谷上に開っていた(はだかっていた)、かの如意寺月輪門の壮麗を少々想わされた。

その後、すっかり暗くなった鹿ケ谷を後にして打上げ場所まで移動。楽しい会食の時間を過ごし、日を終えたのであった。なお、事前に数組から打上げのみの参加可能性を打診されていたが、会場が現地よりかなり遠方(北方)になった為、足労を考慮し、連絡を止めた(とどめた)。この場を借りて了承を請うところである。

皆さん、お疲れ様!

posted by 藤氏 晴嵐 (Seiran Touji) at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 山会
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