
廃寺探索再び
予想以上の収穫得る
先月5日の続編的に行われた如意ヶ嶽(現大文字山及び如意ヶ嶽)山中での古代・中世廃滅寺院の探索行。春を間近にした「寒の戻り」の影響が心配されたが、無事終了することが出来た。
そもそも、前回の探索により生じた疑義・問題点に対する再調査を目的とした今回の探査。実に予想以上の、驚くべき収穫を得ることが出来た。
ところで、今日3月11日といえば、言わずと知れた去年発生の大震災同日。家周辺への出入りを朝から夕方まで遮断する迷惑なマラソン大会への抗議とそれからの退避もありこの日開催としたが、とまれ大惨事の1周年。先ずは、犠牲者方々への哀悼と、未だ苦難に在る被災者方々への見舞いの意を表したい。
上掲写真: 如意ヶ嶽山中の沢筋にて発見した古い石垣。古道の路盤と護岸を兼ねている。沢中の石積み堰堤や、その背後の巨大な閉塞土塁と接することから、古い防御施設並びに貯水施設遺構の一部である可能性が窺える。京都市内ながら、遺跡・史跡としての指定等は全くなされていない(訂正:最新の遺跡地図では如意寺遺構の範囲内に含まれていることが判明)。

今回は若王子入山。新島墓も参拝
今日の如意寺探索は、その「正統道程」であり、前回も辿った鹿ケ谷からではなく、少々南方の若王子(にゃくおうじ)から始めることとなった。若王子神社奥の登山口から東山に入り、南北に続くその稜線に上がって、北接する如意ヶ嶽山中に広がる遺構群に接するという行程である。
鹿ケ谷とは違い、遺構までの道程に如意寺との関連は見られないが、待合せの便や2度目の人の気分転換を図り採用した道程であった。
写真は入山後暫くして現れた墓所。同志社大学の若王子墓地で、同大学の創設者である新島襄やその親族の墓石が並ぶ、墓地の中核域である。同大在学中である参加者のW君に、新島墓の存在を伝えると、暫し神妙に参拝。

山城関連?爽やかな人為的尾根道
同志社墓所からは、いよいよ山道風情・登坂も本格化。そして東山の稜線に出る。写真は、それを如意ヶ嶽方面へ向かい北上する途上にて出会った景。
陽が射して気温も上がったか。爽やかで良い場所なのだが、市街よりマラソンのお祭り騒ぎが聞えるのは頂けない。
この爽やかな尾根道。丁度、山上が窪む鞍部に相当する場所にあるが、路面高が均一で、路肩が切られたかのようになって両脇の平坦地に落ちている。実に人為的な観がある場所。如意寺遺構との関連は薄く、遺跡地図にも記されていないが、南方近くの同路上に「大日山城」という戦国期の山城遺構が存在することから、それとの関連も考えられる。

早々の発見か
東山の尾根道を辿り、如意ヶ嶽山中に入る。そして最初の疑問点であった「檜尾古寺(ひのおのふるてら)」を調査。
檜尾古寺は、安祥寺(上寺)が如意ヶ嶽南方山上に造られた際に記された9世紀半ばの史料(「檜尾寺」と同一とすると『文徳実録』の2所)のみに現れる詳細不明の古代寺院。史料に記された場所から、後に如意寺境内となる地にあった前身寺院とも考えられ、古図上での特異な姿や出土遺物から、如意寺「西方院」跡をその推定地と見做すことが有力視されている。
しかし、私はこの埋文研その他の見解に少々疑問を感じていた。それは西方院が谷中にあったからである。檜尾古寺の「檜尾」とは地貌を指した名だと思われる。つまり、そこは谷ではなく、尾根上にあると思われたのである。因みに、隣接する安祥寺上寺も、史料上「松山一箇峰」という名で記される尾根上の造成地に設けられている。
また、西方院推定地を実見した際、狭く閉ざされたその場所に寺院の中核が定められたことを疑問に感じた、ということもあった。
そこで、この檜尾古寺に相応しい場所を、我々独自に探索することにしたのである。そして、発見が早々に訪れた。それは、これまで言及されたことがない遺構面であった。
果してそれは本当に古代の痕跡なのか――。更なる証拠を求めて更に探索は続く。
発見の可能性を確信
継続調査決定
そして間もなく、寺院等にとっての重要な付属施設跡とみられる確かな痕跡を発見。また、幾つかの遺構面やそれらに関連する設備跡らしきものも発見した。極めつけは、幹事Yによる正に古代の遺物らしきものの発見である。
これらにより、我々は自らの発見の可能性を確信し、この件について今後更なる調査行うことを決定した。ただ、画像や遺構詳細は、遺構・遺物の破壊や盗難を防ぐ為、調査が終了し、管轄部署に報告を提出するまでは公表を控えることにしたのであった。

謎の人跡
やがて檜尾古寺の調査地を離れ、如意寺遺構の未踏地へと向かう。その途中発見したのが、写真の土塁遺構であった。
それは、中央を貫く沢部分を残して谷を閉塞するという壮大なもの。高さ、厚み共に5m以上はあろうか。本稿最上部の写真にて紹介した石積遺構に接するもので、古い水利施設か山城等に関連した関門遺構と想定された。

謎の土塁断面
上流側である左斜面を覆う石積が見える。石を用いた丁寧かつ高度な施工なので、やはり近世以降の水利施設か。古道沿いにあり、これ程目立つ存在でありながら、遺跡地図等の資料にその記載を見ない謎の人跡である。
鹿ケ谷にある如意寺「宝厳院」遺構の近くに、古い貯水遺構らしき存在が報告されているので、1度比較してみるのも手かもしれない。まあ、埋文研によると、そちらも詳細不明らしいのではあるが……。
なお、参加者からは、下流側に接する高さの低い堰堤跡らしき石積廃墟(写真はこちら)があるので、貯水しながら沢筋から侵入する敵を防ぐ複合施設だったのではないか、との意見も出された。
地図に現れたこの場所の特異性
目につくものながらも関係機関は黙殺、そして凝った施工……。期待薄れる中にて如意寺遺構への道程確認のため地形図に眼を落すと、興味深いことに気づいた。それは、この土塁が開る(はだかる)沢の上流に接続する谷や尾根の大半が如意ヶ嶽山頂直下に接続することであった。逆に下流側のそれらは山頂から遠ざかる為、この場所はその境となっていたのである。
如意ヶ嶽山上とは、即ち「如意ヶ嶽城」の主郭部分である。つまり、ここは標高の低い場所でありながら、戦略上極めて重要な場所だったのである。
これにより、たとえこの人跡が近世以後の遺構としても、中世以前の遺構を継承した可能性があることを、十分に想定させてくれたのであった。

如意ヶ嶽山中の広谷をゆく
謎の人跡を離れ、如意寺遺構へと向かう。道のない谷をひたすら進むが、地理に明るく読図に長けた我々には難ない行程。

境内最大の平坦地
谷を埋める大造成跡
途中昼食休憩をとり、その後、前回未踏の如意寺「正寶院」推定地に入る。山科盆地北東を流れる四ノ宮川の源の1つ、藤尾川上流に広がる遺構群である。
谷中のそこに達すると、写真の如く、谷底を埋めるが如き平坦地が現れた。それは、中心を通る道の両側に、土壇を成す形で延々と続く。下降して谷が広がるにつれ、その広さもかなりなものとなった。
予想外の規模である。平坦地の広さとしては、ここが境内最大ではなかろうか。

そして、写真の如く、突如落差10m以上の急斜に遭遇した。下部から見上げると、上部の平坦地が、如何に膨大な量の土砂で成されているのかが判った。
また、急斜の途中や、その端の方にも平坦地があり、谷の斜面も削られた跡があるなど、至る所に人為の跡が見られた。
相当な土木工事である。以前より、山上の伽藍工事の際に出た土砂の行方について気になっていたが、ひょっとすると、この谷の工事に使用されたのかもしれない。
埋文研などの見解では、山上の平坦地は掘削土を前方に出してその面積の増加を図っているとするが、ただでさえ急斜の山上でそれを行うには、中世以前には技術的に困難であった高石垣の技術で土留めを行わなければ危険と思われる。実際、高石垣は発見されておらず、また単純に土を足した場合に起り得る筈の大規模崩落も見られないのである。
里坊としても機能か
あと、この場所に対する土地選定の妙も窺われた。この急斜を含む長さ200m程の平坦地群より下は、本堂より続く沢などの影響もあり谷に水流が現れるが、平坦地内にはその痕跡は殆ど見られない。例外的に水気がなく、施設の立地に好都合な安定した谷を選んで、大規模な造成が行われたようである。
この巧みに造られた広大な遺構地帯は、寺に関わる人々の里坊としての機能もあったのではないか、とも思わされた。

正寶院推定地と漆喰井戸跡
本堂からの沢が谷に入った後も平坦地は続く。そこに、幅20m、長さ50mという、この地区最大の平坦地があった。埋文研等が推定する正寶院推定地である。ここも、土地の長さや広さを稼ぐため、相当の土砂が使用されている。
その為、敷地下流側は、かなりの高さの土壇としての威容を晒している。この様は、正に古図(前回掲載の画像参照)に見える、崖上に聳える正寶院の姿そのままである。南面する堂の方位とも合致しているため、確率は高いといえるのではないか。
写真は、その敷地の上手側端部(沢側)に残存する大きな井戸跡。埋文研によると、縁を漆喰で固めたものだという。別の平坦地で発見された同型の井戸より大きなこの井戸の存在も、ここを正寶院跡とする説を補強するものではなかろうか。
「藤尾門」探索
正寶院推定地より更に谷を下り、幾つかの平坦地を観察。林道と合する更なる下流にも遺構は続くようだが、その手前の平坦地を最後とした。
その他、この道沿いにあったとされる「藤尾門」の跡も探すが、相応しい場所は得られなかった。埋文研のK氏は、谷口、つまり藤尾集落の里口となる藤尾神社辺りを推定されていたが、古図では谷を閉塞するように描かれているので、私はもう少し谷中にあったと考えている。
この件は、また機会がある時にでも、藤尾側からのアプローチ採るなどして調査したいと思う。

正寶院推定地から本堂推定地への道なき道をゆく
林道際より本堂の沢口まで引き返し、その上流にある本堂推定地へと向かう。谷口には幾つかの平坦地が続き、その中には、大石を立て並べた庭園遺構とされるものの姿も見られた。
しかし、それより先の上手はかなり荒れており、通行困難地と化した。足下には石積等の人跡が続くが、倒木や藪、崩壊等が多く、嘗ての表参道の面影はなかったのである。

本堂推定地区へ
藪を分け、崩れや倒木を迂回して、漸く開けた場所に出る。写真の、如意寺本堂推定地直下である。斜面の上部に見える明るい場所が本堂推定地、下部にある石積が講堂方面へと向かう古道の路盤である。
石積を含むこの斜面は埋文研により詳細に調査されている。その報告によれば、石積の左下辺りから本堂平坦地へ直上する石段跡らしきものが検出されたという。
それから推察すると、この場所は表参道や山上要路の幾つかが交差する交通要所だったようである。私は、この場所に、山上の諸堂下を経つつ園城寺と鹿ケ谷(つまり都)を結ぶ「往還路」が通っていたのではないかと推測している。

東門推定地を独自調査
さて、前回も訪れた本堂推定地区に態々悪路を越えて来たのは2つの疑問を調べる為であった。その1つは古図に描かれた「東門」の位置である。
現在、埋文研等が推定するその場所は、先程通過した表参道の下部、即ち正寶院推定地区となっている。しかし、東の門であるそれを、本堂南下の藤尾口にあるとすることには疑問を禁じ得ない。
調べてみると、埋文研の推定根拠は、『修造用脚員数事』という南北動乱罹災後の修復計画記事上、正寶院の隣に記されている、ということのみであった。しかし、他院の記述から、必ずしも順番に記載されているとは言えず、本堂地区を示す「如意寺」の範囲内に本堂やその他共々と記されていることから、隣に記載されていても、それが接しているとは限らないことが判明した。
そもそも、古図の東門は、表参道下のような谷中ではなく、尾根上か平坦地端部のような高燥地めいた場所に描かれている。また、南面することがほぼ確実に判明している諸堂の向きに対して、東寄りに描かれているということもあった。
では、東門はどこにあったのか。東門は月輪門等の「楼門」に比して略式簡素な「棟門」として描かれており、内門として園城寺とを結ぶ山上通路上にあった筈である。園城寺作成・所蔵の『如意寺図説』という史料(伽藍の記述等には粗さも見られるが)にも、園城寺の裏山を西行して東門から本堂地区に入ることが記されている。
よって、園城寺から直接本堂地区に至ることが可能な場所を探ってみた。そして発見したのが、ある平坦地際にあった写真の場所である。平坦地の端を区切る尾根が切られて通路となっている。

本堂地区際の切通しから園城寺方面へと続く古道
ほぼ東向きのその通路を外側(東)へ出てみると、なんと山腹を巻きながら東へと続く古道の姿があった。地図で調べると、この道は途中林道により途絶しているが、如意ヶ嶽と園城寺裏山との要衝鞍部に接続されていた可能性が高いと思われた。
そして、通路内側は平坦地群を抜けて先ほど観察した本堂下の石積路と接続していた。やはり、東門はここにあったのではないのか――。確定には更なる調査が必要だが、一応参考までに紹介しておく。

講堂推定地を再考
2つ目の疑問は、本堂傍にあった重要施設「講堂」の位置について。発掘調査の結果から、講堂の位置は本堂推定平坦地より一段東下にある平坦地上に推定することが有力となっている。しかし、古図では、本堂と同じ平面上の、三方が切れ落ちた台地上に描かれていた。同様の立地にある西側の常行堂や三重塔は古図に近い推定であるのに対し、講堂のみが違うのはおかしい、と感じたのである。
埋文研の講堂位置推定の根拠の1つとなっていると思われるものに、本堂同一面立地とした場合の東側平坦部の狭さがある。確かに現状は狭く、講堂と組で描かれた比較的小型の法華堂しか想定は出来ない。
しかし、再度現地を観察してみると、狭いと思われたその場所が、土砂崩落に見舞われていることが判明した。写真がその姿で、現存の平坦面である右端の道やその奥の空地に向かって、左側から大量の土砂が流れ込んでいるのが判る。中央奥に見える、本来の掘削面と思われる切り落とし箇所との位置関係からも、平坦部が如何に土砂により損なわれいるかが判明したのである。
これにより、本堂と同一面への講堂推定が可能となった。現在埋文研等が推定している講堂は、古図のものより後代に造られたか(実際その基壇は14世紀以降に古い瓦礫等を利用して成されたという)、別の建造物である可能性も生じたのである。
一服。自転車での合流
講堂位置調査の後、本堂推定地にて暫し休息。気温の関係か、あまり自覚はないが、既に結構な運動量に達している。保温ボトルの温かな茶を飲みつつ、一服である。そして、途中参加のK君が合流。かなり前から正寶院地区等を探して漸く見つけたとのことであった。
標高415mでの再会。驚くことに自転車での参上であった。

熊野三所と宝厳院の位置関係
休息後、本堂推定地を後にして鹿ケ谷へと向かう。前回と同じく「如意越」を辿りながら、である。そして、前回時間の関係で省略した鹿ケ谷上部にある如意寺宝厳院推定地を見学した。
写真が、その要部である「般若台」推定地。平坦地の規模や礎石の出土から、ほぼ確実視されている場所である。古図ではその直下に「熊野三所」と呼ばれる回廊付の建屋群が描かれるが、埋文研はそれを100m以上離れた戦国遺構辺りに推定している。しかし、現地を観察したところ、やはり古図通り、一段下の平坦地に推定するのが妥当かと思われた。
写真奥の、明るくなった平地部分がそれである。恐らく、埋文研はそこが少々狭いため他所での推定図ったと思われるが、後代の土採り改変(屈曲式土塁虎口に近い)や、水流による破壊(沢に近く湧水もあり)を考慮すると、特段無理はないかと思われた。また、現状と同じく、古図で熊野三所の左際に谷らしきものが描かれていることも、それを補強するように思われたのであった。

月輪門推定地とされる急階段の上部地。平坦地らしく見えるが、左右の余裕はなく、堂跡平坦地との位置関係も古図と合わない
月輪門いずこ
宝厳院推定地から更に鹿ケ谷を下り、楼門滝、即ち「月輪門」推定地へと達した。本日最終の調査地である。
前回最初に通過した場所であったが、月輪門の位置がどうしても推定出来なかった。現地が急峻で、それを設定出来る場所が見当たらなかったからである。現に埋文研でもその位置を明示しておらず、現存の急階段の上辺りに言及しているのみである。
園城寺の西門も兼ねていたという重要壮麗な月輪門跡が想定出来ないというのはおかしい。よってこの機会に徹底して探してみることにした。滝の上部や俊寛碑、そして古図の姿に近い急階段上等を探すが何れも狭く、壮麗な門を設定出来る場所はない。しかも、門には左2間、右3間幅の築地壁まで付属している。
皆で手分けして探し、意見を出し合ったが、牽強付会の域を脱するものではなかった。気づけば、宝厳院辺りで見舞われた冷雨がまだ頭上でくすぶり、日没の宵闇も迫っていた。

独自に推定した月輪門跡平坦地の一部。崩落した法面下には堂跡平坦地と同じ割石の散乱が見られ、石段の降り口跡と思われる石材もあった(下部)
現存石段は別物か
諦めて下山を開始した時、石段下にて平坦地の存在に気づいた。崩落している箇所も多いが、ここなら十分な横幅がとれ、平坦地との位置関係も合致する。しかも下から3番目の堂跡平坦地が背後となる為、古図通り、ここに左(北)側築地の横奥にあった縦長の住吉社も設定出来る。また、平坦地の急斜側には堂跡と同じ割石による法面保護の跡も見られた。
ただ、問題はここが石段の下にある、ということである。しかし、古図上、門横に描かれる滝はまだこの平坦地横にも続いており、平坦地南端直下には古図の姿に似た矢筈形の大岩もあった。ひょっとして、今残る石段とは違う石段がここから下っていたのではないか。
そう思いながら下部を見ると、谷から上がってきた道がこの急斜に接する辺りと、平坦地際にある石の護岸辺りが真っ直ぐ接続出来ることに気づいた。もはや、この場所しか想定出来ないのではないか――。皆の見解も同じであった。現在の石段は、門内にあって古図では省略されたのか、後代、特に俊寛碑が作られた昭和初期等に新設された可能性が浮上した。
更に調べを進めなければ断定出来ないが、自分達を含め、多くの人が様々な思込みの影響を受けていることを改めて気づかせてくれる体験となった。

鹿ケ谷の谷口から見る京都市街夕景
発見多い有意義な山行終了
この後、無事鹿ケ谷の集落に下山して調査山行は終了。街中に移動し、打上げのみの参加者も交えて、恒例の食事会にて日を終えたのであった。
寒さや都合等により参加者は少なかったが、様々な発見があり、個人的には大変有意義な山行となった。
皆さん有難う、そしてお疲れ様でした……。