
貴重な好天での開催
のっけにトラブルも
新緑眩しい5月の連休一日(いちじつ)。去年に続いて左京区岩倉で実施した「峠会」が無事終了した。この時期としては珍しく天候不順の日が続いていたが、その当日は幸運にも貴重な好天に恵まれたのである。
しかし、のっけにトラブルが……。その原因は私にあった。何と寝坊して集合に遅れたのである。夜更かしと目覚ましの不作動が原因であったが、結果20分程皆を待たせることとなった。この場を借りて改めてお詫びする次第である。
さて、集合場所の出町柳駅から叡山電鉄で岩倉駅に移動し、現地集合の人とも無事合流(ここでも謝罪。苦笑)。ここから徒歩で大原までを踏破する峠会が開始されたのであった。
直前に、事故や体調不良・体力不安等により人員は半減したが、爽やかな晴天の下、程良い人数による和やかな雰囲気での始まりとなったのである。
上掲写真: 瓢箪崩山山頂(532m)木立より覗く大原の里と比良山地(中央奥)。賀茂川水系高野川と琵琶湖水系安曇川、そしてそれに沿って北方海浜へと向かう古道が貫く、「海道回廊」の眺めでもある。

大日本帝国陸軍陸地測量部編『仮製二万分之一地形図』(明治22〈1889〉年測。4図合成の一部に加筆)
古図に示す峠会ルート
先ずは、この地域を描いたものとしては史上初となる地形図上に示した今回の峠会ルート(実線トレース部分)を掲げたい。
山越えの区間を「寒谷越古道」と名付けているが、そこと、左下の京都市街の位置を考慮すると、現在主道となっている高野川沿いの八瀬ルートより距離効率が高いことが判る。
前近代、このルートを利用すれば、川幅が狭まる上流「小出石」辺りまで高野川を渡ることなく北上することが出来た。古来、河川渡渉は交通の一大障害であった。このことからも、この峠道の様々な史的可能性が窺えるのである。

峠へと繋がる旧道をゆく
今なお活きる愛宕灯籠
さて、岩倉駅を出て、山地へ向かって北上する。2車線歩道付きの広さを持つ、近年開通の新道「岩倉中通」である。しかし、今日の目的は古道たる峠道に親しむことなので、速やかにそれとの関連が深い旧道へと移動した。
写真は、嘗て岩倉東部の主要南北路であったその旧道で出会った古い常夜灯。火除け利益の総本宮「愛宕神社」への参詣者を導く「愛宕灯籠」である。場所は、古式の家屋が残る中集落(旧中村・現中町)只中。ちょうど丁字路の際に当り、傍には江戸期のものとみられる道標もあった。
明治図を見れば、この場所が、南北路と岩倉西部の中心集落(実相院等の所在地)を結ぶ東西主路の分岐であることが判明した。今は一面宅地で、新道も多いため判り辛いが、古図を参照することにより早速発見が得られた。峠道は南北路の延長上にあるものなので、その役割等を考察するには、これら古物の現存は重要な物証となる。
傍にいた地元の人によれば、この付近に点在する愛宕灯籠には、今なお、毎夜灯明が入れられるという。また、灯籠後方の神棚には今も輪番の住民が愛宕山山頂神社より求めた神札が祀られているらしい。何と、この愛宕灯籠は、徒歩旅行での参詣者が絶えて久しい現代に至っても、活きていたのであった。しかも、古式のままの作法・姿で――。
実に興味深く、そして驚かされる出会いであった。1度、夜間揺らめく灯火の様を実見してみたいものである。

峠道入口と飛騨ノ池
中集落を過ぎ、そのまま南北旧道を北上して長谷(ながたに)集落に入る。ここでも、灯籠や古い家々の姿が見られた。そして、その外れの山裾から峠道が始まった。
写真は、そんな峠への入口で出会った一景。地元で「飛騨ノ池」と呼ばれる灌漑用の溜池である。山の清水を直に貯水している為か、溜池らしからぬ美麗の水を湛えている。水辺に寄って休息などしたかったが、柵が張り巡らされていたため叶わなかった。
因みに、池の下手に広がる林は京都市より遺跡指定を受けており、それに関する碑も立つ。「岩倉長谷殿跡」と名付けられた、かの聖護院の前身寺院跡とされるもので、平安期の遺構である。聖護院以前には修験の祖「役小角」との関りが伝承されている寺なので、峠道と古代交通との関りも推察される。

池を過ぎると、道は植林帯に続く緩やかな登坂となる。未舗装だが、林業用自動車の轍により、古道というより「林道」と呼ぶべき観が強いものであった。ただ、路傍には古い石積などの痕跡もあって、決してその印象に止まらない風情もあった。
写真もそんな古道風情の1つ。谷の分岐にあった標(しるべ)らしき木と、その根元に備えられた祭祀痕跡である。樹種は、近世の街道一里塚などにも用いられた榎にも見えたが、如何なものか。
祭祀は三角錐様の自然石を用いた珍しいもの。詳細は不明だが、その丁寧な設え方から、厚い尊崇の様が感じられた。木の背後には斜面を切った小さな平坦地があり、古い石積も見られた。元は祠か何かが在った場所であろうか。

木漏れ日溢れる谷中・沢沿いに続く古道
寒くなく、暑くもない、ちょうど良い気温。しかも快晴。延期開催した甲斐あり、の感である。参加者全員、気分良く登坂の路程をこなす。

「車道」から「山道」に変化した峠道
車道消失。誤記か気づかずか
やがて、林道様の道が終り、山腹に取りつく急登の道となった。明治図では、谷をそのまま遡行する形で道が描かれているので、暫し採るべき進路を検討。これより先の道は荷車の通行にも適さず、古い感じもしないからである。
しかし、この道の他、峠へ上がる道跡はなく、現代図に記されているルートとも合致する為、一先ずは進むことにした。車道終点手前で分岐する谷遡行の古道跡に気づかなかったのか、それとも明治図の誤差か――。

体力負荷が大きくなった道を、休みやすみ上る。冬眠明けか、途中現れた山の蛙などの撮影もしながら無理せず……。

やがて、道は古道風情を取り戻した。「車行」も可能と思われた、積み石等で整備された痕跡を持つ、つづらの道が現れたのである。やはり、進路に大きな間違いはなかったようである。
途中の一部が近年崩落等で失われたのか。再度調査してみなければ今は解らない。写真は、つづらの古道。寒谷峠直下の場所である。

寒谷峠の人為痕跡
そして寒谷峠到着。標高約460m、岩倉と大原の境界である。眺望はないが、雑木林の中に開けた、気分良い場所である。正に休息好適地。ただ、風が抜ける場所なので、時季によれば、その名の通り寒さを感じるかもしれない。
峠上は、南側に偏った比較的大きな平坦地となっている。長谷からの古道は、その縁を削り、食い込む様に接続している。それらは、明らかに人為によるものと判別出来た。往古、茶屋か番屋の如き施設があったのであろうか。

寒谷峠から瓢箪崩山へ。岩多い尾根道の登坂
ちょうど良い時間となったので、峠にて昼食休止しようかと思ったが、折角なので近くの瓢箪崩山に移動することにした。峠での小休止後、皆の身体具合を確認して出発。
慣れない人には申し訳ないが、今暫くの登坂に耐えてもらう。

新緑の絶景、瓢箪崩山
峠より15分程で山頂着。標高532m。先ほど歩いた岩倉や、八瀬・大原の三方が開く素晴らしい眺望を得られた。前情報はなかったが、実に移動した甲斐があった。
写真は、山頂の三角点と、八瀬方面に開く林間から覗く比叡山。正に、新緑光る絶景であった。

またもや古道消失
瓢箪崩山での昼食休憩後、元来た道を下り、再度寒谷峠まで戻る。今度は、そこから大原側に下る進路を採るのである。
ところがここで少々問題が。峠上、岩倉からの道の対面にある筈の大原への下り道が見当たらないのである。あるべき場所にあるのは、自然に下降する谷筋だけであった。明治図は疎か現代図にも、峠からの下り道がその谷筋に記されているにも拘らず、である。
近年状況が変わったのであろうか。否、そのような痕跡は一切見られない。仕方がないので、道のない(図ではあることになっている)その谷筋を下ることにした。長谷からの途上の様に、先へ進むと何か判るかもしれない。
写真はその途中にて振り返り、峠方面を見たもの。水のない谷に石や倒木が散乱する。石段舗装路が崩壊したものとも思われたが、それでは「車行」が困難なため、同じ路線としての連続性に欠ける。

「巻き道」古道現る
暫く下っても明確な道跡は現れなかったが、やがて谷横斜面から谷筋へと下る、盛土状の道跡と出会った。写真のものがそれである。そして、ここから谷筋下手に古道痕跡が現れることも発見した。
古道はここから谷筋の進路を採らず、斜面を巻いて峠へ接続しているのではないか――。実は寒谷峠には、大原の方向とは違う、北向きの古道が接続していた。その道と、この盛土の道は道幅等の姿が極めて似ている。
嘗て北山の峠や古道を考察した研究家で著述家の金久昌業氏によると、寒谷峠と大原へ向かう道の接続は「巻き道」による、としている。事前調査にて、地形図を見ながら氏の記述に接した際、殆どイメージ出来なかったが、この発見によりそれが叶った。
2路の新旧・主客問題
あの北向きながら痕跡明瞭な道こそ、大原への古道であった――。しかし、そうなるともう1つの問題を呼び起こす。それは、2路存在する岩倉への古道の、どちらがより古く、主要であったか、というものである。
金久氏の聞き取り調査では、今日辿った長谷からの「谷道」が、大原への主要路であったと地元岩倉では認知されているという。しかし、大原への巻き道は、長谷南方にある花園集落から峠の南に接続する「尾根道」(前掲ルート図点線部)と良く対応しており、姿も似ている。
金久氏は、そのことと、尾根道全線の観察に基づき、逆に長谷の谷道の方が新しいのではないか、と推察している。私も、今日の見聞により、その説を支持したい。いづれ、今日選ばなかった花園からの尾根道も踏査し、その考察を深めたいと思う。

谷を更に下り、その姿が明瞭となった大原への古道。脱輪や浸水への備えか、路の両傍に石積や盛土の姿も見られた。薬王坂や比良山中の古道でも類型が見られるものである

麓に近づき、谷の大きさも広がる頃には、道の状態も良いものとなった。写真は、その様子である。林道的な道にも見えるが、自動車の轍もない為、風情は長谷の同様区間より秀でている。そのまま時代劇の撮影等にも使えそうである。

土塁関門。要路の証か
谷が大原盆地と接する谷口辺りに達すると、写真の如く谷を塞ぐ土塁が現れた。古道は、その右脇を貫いて下手へと続く。土塁の下手傍には、堰堤工事で廃されたとみられる旧河床が、土塁を援護するが如き様で残存していた。
古い時代の関門跡であろうか。山への侵入を防ぐ要所なので、可能性はある。その防御方向からすると、大原より岩倉側勢力による備えとも見られるが如何であろうか。何れにせよ、このルートの重要性を示唆する貴重な物証となり得るものと言えよう。

謎の関門より程なくして山間を抜け、田圃広がる平地へ出た。大原盆地到達である。写真はその時の様子。大原側最寄り集落である「井出」付近の一景である。
舗装された現代路と化したが、古道は井出集落を越えて更に北へと続く。予報通り、ここに来て少し天気が危うくなってきた。まあ、あとはバスターミナルへ向かうだけなので、もはや問題にはなるまい。

井出集落外れの古道沿いの民家庭に咲くヒメシャガ。庭の手入れをしていた、その家の婦人に峠会面々が招かれて――。暫しの庭園観賞である。こういった偶然や出会いも、屋外活動の醍醐味

大原盆地北方の高野川に架かる戦前製とみられる橋。旧道のものであるが、私が想定している岩倉からの古路線は、ここを渡らず北方と連絡する
大原BT着。峠会終了!
さて、古民家残る井出集落を抜け、古道を踏襲する現代路を辿りつつ大原盆地を縦断。やがて、終着地である大原バスターミナルに到着したのであった。ここからはバスに乗り京都市街に帰還。その後、市街の飲食店で打上げ食事会を済ませて日を終えたのであった。
今回は移動距離や高低差が結構あり、個人的には予想以上に疲労を感じた行程であった。それでも、良い天候と景色に恵まれ、皆と共に多くの知見・娯楽を得られたのは幸いであった。
皆さんお疲れ様でした。有難う……。