
拙宅被災壊滅
先ずは謝罪
先ずは、正月以来の長期間、このサイトの更新を行わなかったことを、御閲覧諸氏に陳謝。
サイト外にて既に通知済の人なら存知だが、それ以外の人の中には、心配してくれていた御仁も多い筈。
実は、1月末のある晩、突如生じた隣家の火災に巻込まれ自宅が全焼。着の身着のままで焼け出された後、長らく被災生活を送っていたのであった。勿論、未だその状態は継続中。様々な後処理に追われ、新たな家等を定める暇(いとま)もなかった為である。
それにしても、未だ正月の余韻残るという時期に、酷い目にあった。しかも最寒期の夜半……。幸い、就寝前に出火に気づき、身は無傷で退避することが出来たのではあるが……。
家は屋根まで崩れ落ちて瓦礫が山積し、恰も(あたかも)ミサイル攻撃を受けたかのような惨状。手作りの品々や、長時間をかけて修繕したものが多かった古民具をはじめとする、家財の大半を失うという結果となった。
総合的価値ある「場所」喪失
しかし、最も手痛いのは、やはり家そのものというか「場所」を失ったことである。推定昭和5(1930)年築の我が拙宅は、昭和中期に大きな改装を受けたとはいえ、間取りを始め、随所に伝統的な町家暮しを感じさせる雰囲気に満ちていた。
その様な雰囲気の中で私が生活し、また来訪者があって、共々古(いにしえ)の暮しを追体験し、まさにその記憶・英知を忘却しつつある現代生活への危惧を共有したりしたのである。当然ながら、古さ故の不便さも多々あったが、それら一切を含んだ、まさに「生きた教材」であった。
また、このサイトでも常々紹介している通り、家は皆が集まる集いの場所でもあった。路地奥ながら、交通至便の地であることと相まって、みんちり(民俗地理倶楽部)名義の各種体験の会をはじめ、若年友人の人生相談等々、ささやかながら、世代や国籍を超えた場として機能していた。
私や仲間にとっては、町家譲りの古家という箱の価値は勿論、総合的に「場所」として、高い価値を有していたのである。
無念、公共の保全ならず
私はこの場所をなんとか良い方向で維持しようと日々努力してきた。「玄関格子戸の鍵が古く、防犯上良くない」「窓の木枠が腐ってきた」等々の、当然の苦情を極力家主に申し立てずに、か細い家計の糸を割いて、自ら対処・修繕してきた。申し立てが通れば、適当な新建材を用いた安易な改装により、今ある風情が破壊される恐れがあった為である。
家の外観風情とは、即ち街の景観でもある。私はこの家の内外を「公共」と捉えていた。一応自分の住居と仕事場ではあったが、究極そんなものは1間のみの、どこでもいいのである。為に、この家が持つ風情や歴史の奥深さを、より多くの人と共有せんと、その外観維持にも努めてきた。紅柄等の伝統素材を用いて古色塗りの会等を行っていたのも、正にその一環である。
戦後の日本人の思想的・価値観的迷走を象徴するかのように街なかで横行する、身勝手で無粋な施工。気づけば拙宅周辺でも、窓・戸共に木製建具を用いた家は殆ど消滅することに。観光地から外れているとはいえ、こんなことが、日本人の心の最後の砦たる京都で、許されてもよいのか。
私はそんな風潮や現実に徹底抗戦するつもりでいた。しかし、存知の通り、今や万事休すの事態となった……。
ただただ、悔しくてならない。言い得るのはそれだけである。当夜、被災地を警戒する消防士の肩越しに、遂に表の書斎にまで火が及んできた様を、独り茫然と眺めた。その後、事後を確認し破滅を報告するかのように電話した先の友人は、涙で声にならない短い応答を繰り返し、ただそれに答えてくれた。上述のような、私の心情というか、志を良く理解してくれていたのだと思う。
とまれ、起きてしまった現実を覆すことは出来ない。再起に向け、新しい場所に向け、歩みを進めていく他あるまい。
以上、大変遅くなったが、罹災の報告まで……。
平成癸巳年花候 左京仮寓にて 晴嵐
上掲写真: 拙宅の梁上に焼け残った地上デジタル放送用アンテナ。テレビなぞ見ない(設置しない)ので、一度も使用することはなく、気にも掛けなかったが、今となっては健気な様にも……。